海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:吉田梅之助

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第十七話 泥濘の逃走劇

 十八時まで、あと四時間ある。

 

 真崎勇気は路地裏の屋台で焼き小籠包の湯気を眺めながら、向かいの煉瓦造りの建物を横目で測っていた。

 

 屋台の親父が、巨大な平底の鉄鍋に向かっている。

 鍋の中には、親指と人差し指で丸めたような小ぶりの饅頭が、幾何学模様のようにびっしりと敷き詰められていた。

 

 たっぷりの植物油で底面を揚げるように焼く。

「バチバチッ!」「ジューッ!」という荒々しい音が夕暮れの路地に響き渡る。

 焦げた小麦粉の香ばしさに混じって、食欲を直接殴りつけてくるような八角や花椒、そして熱せられた葱の強烈な香りが、路地の空気を重く塗りつぶすように立ち込めていた。

 

 親父が柄杓で少量の水を鍋肌に回しかけ、分厚い木蓋を被せた瞬間――

 爆発的な「ジュワァァァッ!」という水蒸気の音とともに、真っ白く熱い湯気が路地に吹き出した。

 

生煎饅頭(サンジーモードゥ)。いわゆる焼き小籠包だ。上海の庶民の胃袋を支える神髄さ」

 

 李河(リーホォ)が皿に盛られたそれを示し、薄く笑う。

 

 真崎は箸で一つをつまみ上げた。

 不用意に噛み付いてはいけない。まずは厚めのもっちりとした皮の上部を少しだけかじり、中の熱気を逃がす。

 底面の「カリッ、ガリッ」とした香ばしい歯ごたえと、上の皮のふっくらとした食感が見事な対比をなしている。

 その隙間からそっと息を吸い込むと、豚のゼラチン質が溶け出した、火傷しそうなほど熱く濃厚な肉汁が口いっぱいに溢れた。

 隠し味の生姜が、豚の脂をすっきりと切っていく。

 

「熱っ……!」

 

 真崎はハフハフと息を吐きながら、手元の冷たい青島(チンタオ)ビールをあおった。

 だが、その安らぎは数秒と持たなかった。

 

 李河がふと視線を横へ流し、ビール瓶をテーブルに置いた。

 

「あそこに見える煉瓦造りの建物。ドイツ帝国がバックにいる青幇(チンパン)の末端アジトだ」

 

 真崎が視線をやると、屈強な男たちが数人、入り口付近で退屈そうに煙草を吹かしている。

 

「といっても、下っ端ばかりだがな。今日の十八時ちょうどに、あの建物の裏口から出てこい」

「……何?」

 

 真崎が怪訝な顔をした瞬間、李河は音もなく立ち上がり、闇に溶け込むように言い残した。

 

「いかなる手段を取っても構わないが、命だけは大切にしろよ」

 

 振り返ったときには、もう男の姿はどこにもなかった。

 

 

  *

 

 

 ひとり残された真崎は、ビールを飲み干すと弄堂(ロンタン)へと足を踏み出した。

 時刻は十四時過ぎ。まだ四時間ある。

 

 三宅坂で叩き込まれた習性が、静かに頭を動かし始める。

 潜入前には地形を把握せよ。動線を把握せよ。逃走路を把握せよ。

 真崎は、観察という名の散歩を始めた。

 

 石庫門(シークーメン)の煉瓦造りの家々が密集する弄堂は、まるで迷宮だった。

 三十センチも幅のない横丁が不規則に折れ曲がり、行き止まりと抜け道が区別できない。生活排水が石畳の隙間を流れ、豚の脂と香辛料と汚水が混じった重い空気が路地に澱んでいた。

 

 その時、怒鳴り声が聞こえた。

 

「このろくでなし! もたもたしやがって!」

 

 路地の角を曲がると、青幇の下っ端らしい男が、十歳前後の痩せた少年に向かって荷物の束を叩きつけるように投げていた。

 少年は転びそうになりながらも荷物を抱え込み、俯いたまま黙って立っている。

 薄汚れた布靴の爪先に、泥がこびりついていた。

 

 真崎は一瞬だけ判断した。

 

「その子供に用がある」

 

 男がぎょっとして振り向く。

 そこに立っていたのは、上等な背広を着た、背の高い東洋人だった。

 

「ドイツ公使館の物資調達の件で来た。――Wir brauchen diesen Jungen für eine wichtige Lieferung――この少年は重要な配達に必要だ。」

 

 流暢なドイツ語が混じった途端、男の表情が変わった。

 公使館、ドイツ語――上海の裏社会で飯を食う男には、それだけで十分すぎる響きだった。

 男はもごもごと何か呟き、荷物を引っ掴んで足早に立ち去った。

 

 少年は呆然と真崎を見上げた。

 

「……嘘ついたのか」

 

 片言だが、日本語だった。

 

「日本語、話せるのか」

「おっかさんが日本人だ。おれは阿毛(アーマオ)

 

 真崎は少年の前にしゃがみ込んだ。

 細い手足、走り回って覚えたのだろう、擦り切れた靴底。弄堂を使い走りで駆け回っているのは一目で分かった。

 

「阿毛。このあたりの抜け道を知っているか」

 

 阿毛は一瞬迷うような顔をしたが、やがて頷いた。

 

「知ってる。あの石庫門の壁、三つ目の門から入って左に曲がると、黄浦江の方へ出られる。巡邏《パトロール》が来ても誰も通らない」

「助かった」

 

 真崎が立ち上がると、阿毛はまた呆然とした顔でこちらを見ていた。

 

「……なんで助けたんだ」

「さあな。飯でも食え」

 

 真崎は屋台で買った生煎を包んだ紙を、阿毛の手に押し付けた。

 少年はそれをしばらく見つめてから、弄堂の奥へと走り去った。

 

 

  *

 

 

 夕方。

 真崎は、陸軍大学校で学んだ正面突破の戦術を、あっさりとゴミ箱へ捨てていた。

 

 油汚れのついた作業着を纏い、「租界の通信修理工」を装う。

 その前に、黒石から借りた機材でアジトへ繋がる電話線を路地裏の電柱でひっそりと切断しておいた。

 

「電話線が断線していると通報があった。ドイツ公使館からの回線に不具合が出ているはずだ」

 

 真崎はさきほど発音練習した中国語と、ドイツ語の通信専門用語を織り交ぜてチンピラたちを捲し立てた。

 末端のゴロツキたちに、列強の最先端インフラの仕組みなど理解できるはずもない。

 彼らは煙に巻かれ、あっさりと真崎を内部へと通した。

 

 アジトの内部を悠々と通過しながら、真崎は配電盤を弄るふりをして、机の上に無造作に置かれていたドイツ語の暗号表を、作業着の懐に滑り込ませた。

 

 

  *

 

 

 時刻は十八時ちょうど。

 真崎は計画通り、アジトの裏口から暗い路地へと足を踏み出した。

 思わず口元に笑みが浮かびかけた、その時である。

 

(ジュア)! そいつは日本のスパイだ! 捕まえろ!!」

 

 頭上の屋根の上から、李河の裏返ったような中国語の絶叫が響き渡った。

 

「なっ……!?」

 

 アジトの裏口が乱暴に蹴り開けられ、青龍刀や棍棒を手にしたゴロツキたちが怒濤のように湧き出してきた。

 

「逃がすな! 叩き殺せ!」

 

 怒号が、石庫門の煉瓦の壁に反響し、前後左右どこから聞こえてくるのか分からなくなる。

 真崎は弾かれたように駆け出した。

 

 狭い路地の頭上には、竹竿に通された原色の洗濯物が万国旗のように幾重にも交差して空を覆い隠している。

 真崎がそこに突っ込むと、湿った布が顔にまとわりつき、視界を奪う。

 それを引き剥がすと、今度は軒先に赤黒く変色した金華ハムや、頭を下にして吊るされた家鴨がぶら下がっていた。

 なりふり構わず走り抜けた。

 

 路地にはみ出した屋台の椅子に足を引っかけ、派手に蹴り飛ばす。

 熱湯の入った蒸籠や積まれた青菜が宙を舞い、追手の顔面に降り注いだ。

 わずかな時間を稼いだ。

 

 だが、真崎の足元が、ズルリと嫌な滑り方をした。

 踵がぬかるみに取られ、真崎の巨体が大きく体勢を崩した。

 

「しまっ……!」

 

 転倒しかけ、壁に手をついて辛うじて持ちこたえる。

 だが、その一瞬の隙に、背後から追手の息遣いが迫り、「抓!」という怒声が耳元を掠めた。

 青龍刀の風切り音が背中をかすめる。

 

(そうか……!)

 

 先ほど李河が見せた、あの奇妙な体術。

 踵を浮かせ、足裏全体で地面を滑るように移動する「泥歩《でいほ》」。

 

「だからあいつは、踵を浮かせていたのか……!」

 

 真崎は即座に重心を落とし、つま先寄りに体重を移動させた。

 見よう見まねの不格好なすり足でぬかるみを蹴り、無造作に積まれた竹籠や、阿片の煙管をくゆらせてうずくまる流民たちを跳び越える。

 

 だが、路地が三股に分かれた。

 左は暗く、右は怒号が近い。正面は壁だ。

 どこだ、あの抜け道は――。

 

 その時、石庫門の三つ目の門の陰から、小さな影が飛び出した。

 

 阿毛だった。

 

 少年は一言も発せず、ただ左の路地の奥を指差した。

 真崎は迷わず駆け込んだ。左へ、曲がって、また左へ。

 阿毛が言った通り、煉瓦の壁の割れ目を抜けると、急に視界が開けた。

 黄浦江の生暖かい川風が、ヘドロの匂いとともに顔を撫でる。

 

 追手の怒号が、迷宮の奥で遠のいていく。

 

 壁に背を預け、真崎は荒い息を吐き出した。

 全身は泥とヘドロにまみれ、油の匂いとドブの悪臭が混ざり合って鼻をつく。

 手には、しっかりと握りしめられたドイツ語の暗号表があった。

 

 ふと、頭上の暗がりから音もなく黒い影が舞い降りた。

 踵を微塵も鳴らすことなく着地した李河が、闇の中で白い歯を見せた。

 

「見事な泥歩だったぜ、大尉殿。それに、なかなか良い道案内を拾ったな」

 

 真崎は泥だらけの顔で李河を睨みつけた。

 

「……初日から、キツすぎるだろ」

 

 李河はただ笑った。

 答える気はないらしかった。




少しだけ種明かしを。
真崎が土壇場で見よう見まねした「泥歩」――実は中国拳法の世界に実在する泥上歩法の概念に着想を得ています。ぬかるみや砂地での移動に特化し、踵を浮かせて足裏全体で荷重を分散させる。軍靴で鍛えた正規軍人には、むしろ習得しにくい技術です。

※明日は2回(07:00 / 19:40)更新予定です。
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