海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
男は鼻歌を歌いながら、爆薬をすり潰していた。
しかも、ひどく楽しそうに。
帝国陸軍大尉・真崎勇気は、地下室の扉の前で三秒間だけ静止した。
――この男と、本当に仕事をするのか。
鼻を刺す硝石と硫黄の匂いが、地下室の空気をじっとりと塗りつぶしている。作業台にはフラスコやビーカー、真鍮の歯車やぜんまい仕掛けが、足の踏み場もなく散らばっていた。
白衣の男が、黄色く染まった指先でビーカーを揺らしながら振り返った。丸眼鏡の奥の目が細くなる。
「やあ、大尉殿。お待ちしておりましたよ」
「今日は何を教わる」
「座学は先日、下瀬火薬のところまで済ませましたので」
井川は白衣のポケットに、アンプルと工具を次々に詰め込んだ。
「今日は実技です。爆弾の止め方」
「……止め方、か」
「作る方は飽きるほどやりましたからね。止める方は、まだ誰にも教えたことがない。大尉殿が一人目です」
「光栄だ、と言うべきか」
「言わなくて結構です。生き残ったら言ってください」
真崎は、作業台の端に積まれた紙の束に目をやった。表紙に、井川の角ばった字で『説明書』とある。
「書いたのか」
「書きましたとも。大尉殿に言われましたから」
井川は胸を張った。束は、辞書ほどの厚さがあった。
「……何頁ある」
「九十六頁です」
「後で読む」
「ぜひ。九頁あたりが、私の自信作です」
*
二人が出たのは、
上海特有の濃い海霧が立ち込め、数メートル先の輪郭さえぼやけている。路地の壁際に、二台の自動車が停まっていた。
「解除訓練用に、ダミーの廃車へ手製の『化学式遅延起爆装置』を仕掛けておきました」
「化学式?」
「強い酸を詰めた薄いガラス管が割れると、酸が漏れて、撃針を止めている針金をじわじわ溶かします。溶け切ったら、バネが外れてドカン。時計の代わりに、酸が時間を数えてくれるわけです」
井川は霧の向こうの、黒塗りの車を指差した。
真崎は警戒しながら黒塗りの車に近づき――車体の側面に鈍く光る紋章を見た瞬間、全身の血の気が引いた。
獅子と一角獣。
英国総領事館の紋章である。磨き上げられた車体も、真鍮の飾りも、どう見ても廃車ではない。
「井川ァッ!」
「はい」
「ダミーの廃車というのは、隣のボロのフォードのことじゃないのか!」
井川は丸眼鏡を押し上げ、きょとんとした顔で二台を見比べた。
「おや。……最初はフォードのつもりでしたが、こちらの車の腹に、信管を据えるのにじつに美しい窪みがありまして。つい夢中に。紋章は、まったく目に入っておりませんでした」
「目に入れろ! 獅子と一角獣だぞ!」
「動物には疎いもので」
イギリスの総領事の車を上海の真ん中で吹き飛ばせば、日英蘭三国同盟どころの話ではない。高杉の盤面が、盤ごと引っくり返る。
真崎は、霧の向こうの空を仰いだ。何も見えなかった。
パキィッ。
黒塗りの車の腹の下で、乾いた音がした。
続いて、シューッ……と、酸が金属を食う音が、静かな路地に広がり始める。
「ああ」
井川が車の下を覗き込んだ。
「ドアノブに触れると管が割れる仕掛けも、ついでに付けておいたのを忘れていました。大尉殿が近づいた振動で、入ったようです」
「ついでに付けるな!」
「説明書の九頁に書いてあります」
「今読めるか!」
井川は懐中時計を取り出し、蓋を開けて、にっこりと微笑んだ。
「酸の濃さと針金の太さからして……あと四十秒」
逃げるという手はない。
無理に装置を引き剥がせば、衝撃でその場で起爆する。酸が針金を溶かしている以上、止めるには化学しかない。
「井川! 酸を止めるものは!」
「アルカリですね。石灰、ソーダ、灰汁」
「どれがここにある!」
「どれも、ありませんねえ」
「三十五!」
真崎は車の扉に飛びついた。鍵はかかっていない。
後部座席の灰皿に、葉巻の吸い殻が山になっていた。脇の小卓には、飲み水を満たしたクリスタルのデキャンタ。
(これだ……!)
「灰皿!」
「灰皿!」
井川が、なぜか復唱した。
「水!」
「水!」
デキャンタの水を、灰皿に勢いよく注ぎ込む。
「混ぜろ!」
「……素手で、ですか」
「三十!」
真崎は自分の手を突っ込み、灰と水を乱暴にかき混ぜた。灰を溶かした上澄み――灰汁は、強いアルカリである。
「二十五! 井川、潜れ!」
「腹が、つかえます」
白衣のボタンを突っ張らせた井川の腹は、どう見ても車の下に入る寸法ではなかった。
真崎は泥のような灰色の液体を両手ですくい上げ、自分で車の腹の下へ潜り込んだ。起爆装置の心臓部へ、一気に流し込む。
ジュワァァァッ!
白煙が噴き上がり、視界を塗りつぶした。
だが、シューッという音は、まだ細く続いている。
「足りん! もう一杯!」
「灰がもうありません!」
「葉巻を崩せ!」
「これ、ハバナの上物ですよ」
「知るか! 二十!」
井川が小卓の箱から葉巻を三本つかみ、両手で揉み潰して灰皿に落とした。真崎が水を注ぎ、かき混ぜ、また腹の下へ潜る。
「十五!」
二杯目を流し込む。
真崎は息を詰め、爆発に備えて身を硬くした。
「十……九……八……」
数えているのは真崎の口だった。井川は懐中時計を見たまま、黙っている。
「……五……四……」
音が、止んだ。
白煙がゆっくりと霧に溶けていく。車の腹の下を覗き込むと、針金は、切れる数ミリ手前で溶けるのをやめていた。
真崎は、灰汁と油にまみれた手のまま、石畳にへたり込んだ。全身から冷や汗が噴き出している。
「お見事」
井川が、懐中時計の蓋を閉じた。
「とっさに灰汁の中和。状況判断、化学の応用、手を汚す決断。……立派な錬金術師の仲間入りですね、大尉殿」
「……寿命が十年縮んだ」
「四十秒で十年ですか。割に合いませんねえ」
井川は、真崎の手についた灰色の汁を、興味深そうに眺めた。
「覚えておいてください、大尉殿。逆もまた然りです。私の火薬も、アルカリを一滴差されたら、眠ってしまう」
「……弱点を、自分で言うのか」
「内緒ですよ」
井川は唇に指を当ててから、ふと思い出したように付け加えた。
「そういえば大尉殿。総領事は、二十分後に戻られる予定と聞いています」
真崎は石畳から跳ね起きた。
「なぜそれを今言う!!」
「聞かれませんでしたので」
*
真崎はすでに動いていた。
車の腹から装置を剥がし、灰汁の跡を井川の白衣の袖でこすり落とす。
「私の白衣でふかないでください」
「井川よ……。後ろに立ってろ」
「はい……」
灰皿の中身を路地の溝に捨て、元の位置に戻す。デキャンタには井川の水筒の水を足した。座席に散った灰を手のひらですくい、窓から外へ払う。
最後に、葉巻の箱の蓋を閉めた。二十五本入りで、残りは十一本。三本足りないことに気づくのは、よほど几帳面な執事くらいだろう。
「……いや、やっぱり表で見張れ。車が見えたら知らせろ」
「はい」
「返事だけは一人前だな……!」
十五分後、真崎は荒い息を吐きながら、路地の壁に背を預けた。
黒塗りの車は、何事もなかったような顔で霧の中に停まっている。灰汁の白い跡だけが、真崎の両手にこびりついていた。
井川が涼しい顔で戻ってきて、眼鏡を押し上げた。
「完璧な仕事でしたよ、大尉殿」
「二度とごめんだ」
*
その夜。地下室に戻ると、高杉晋作が三味線を膝に抱えて待っていた。
撥が、一度だけ弦を鳴らした。
「真崎。イギリスの総領事から、苦情が来とる」
真崎の足が止まった。
「車が灰くさい。それから、葉巻が三本足りん。……心当たりはあるか」
「……なぜ、先生のところに苦情が来るんです」
「あれとは、木曜に碁を打つ」
高杉は、面白くてたまらないという顔で、もう一度弦を鳴らした。
「次の木曜は、わしがハバナを三本持っていかにゃならん」
背後で、井川が遠慮がちに手を挙げた。
「先生。それは経費で落ちますか」
「井川の給金から引く」
総領事の件は、どうやら高杉のところで片がついているらしい。真崎は、内心ほっと胸をなでおろした。
――この奇兵隊に、まともな奴はいないのか……。
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