海霧の中の奇兵隊―死んだはずの高杉晋作と、乃木大将が遺した隠し遺書― 作:yoshiume
男は鼻歌を歌いながら、爆薬をすり潰していた。
しかも、ひどく楽しそうに。
帝国陸軍大尉・真崎勇気は、扉の前で三秒間だけ静止した。
――この男と、本当に仕事をするのか。
鼻腔を刺す硝石と硫黄の刺激臭が、地下室の空気をじっとりと塗りつぶしている。
作業台には無数のフラスコやビーカー、真鍮製の歯車やぜんまい仕掛けが、狂人の臓物のように散乱していた。
白衣の男は黄色く変色した指先でビーカーを揺らし、丸眼鏡の奥の目を細めて振り返った。
元・東京砲兵工廠の火薬技師、度重なる危険な実験で軍籍を剥奪された狂気の発明家――
「やあ、大尉殿。お待ちしておりましたよ」
「本日の講義は、大和魂とコンクリートの強度計算についてです。……さあ、頭の体操をしましょう。旅順の要塞群を完全に破壊するには、どうすればいいと思いますか?」
真崎は眉をひそめた。
「二八センチ榴弾砲の直撃か、工兵による地下坑道からの爆破だ。だが日露戦争当時の下瀬火薬は衝撃に過敏すぎた。要塞の外壁に当たった瞬間に爆発し、内部へ貫通しなかったと聞いている」
「その通り!」
井川はパチンと指を鳴らした。
「下瀬火薬は怒りっぽいヒステリー女です。鉄に触れただけで敏感な化合物を生み出し、敵に届く前に暴発する。大和魂でコンクリートが砕けるわけがない。要塞を落とすために必要なのは、気合いではなく『遅延火薬の〇・一秒の迂回路』なのです」
井川は机の上の真鍮製の部品を愛おしそうに撫でた。
「私が調合した安定型のTNT爆薬を、この自作の遅延信管に詰める。外壁に当たった瞬間には起爆せず、分厚いコンクリートを物理的にブチ抜いたその直後……要塞の腹の中で爆発する。破壊は精神論ではありません。純粋な化学式ですよ、大尉殿」
その言葉は、真崎の胸の奥底に深く突き刺さった。
白兵突撃では、コンクリートは壊せない。乃木閣下の遺した言葉が、耳の奥で鳴った。
「さて、座学はこの程度にして、実技に移りましょうか」
井川は白衣のポケットにアンプルと工具を詰め込み、真崎を促した。
*
二人が出たのは、
上海特有の濃密な海霧が立ち込め、数メートル先の視界すら曖昧にぼやけている。路地の壁際には、数台の自動車が停まっていた。
「大尉殿の解除訓練用に、ダミーの廃車へ手製の『化学式遅延起爆装置』を仕掛けておきました」
井川は霧の向こうの黒塗りの車を指差した。
「化学式遅延起爆装置だと?」
「内部に強力な酸の入った薄いガラス管があり、それが割れると酸が漏れ出し、撃針を止めている金属ワイヤーを徐々に溶かします。ワイヤーが溶け切った瞬間、バネが解放されてドカン、という寸法です」
真崎は警戒しながら黒塗りの車に近づき――その車体側面に鈍く光る紋章を見た瞬間、全身の血の気が引いた。
大英帝国公使館の紋章。
しかも車のナンバープレートや豪奢な装飾は、どう見てもダミーの廃車ではない。本物の、イギリス高官が乗るための最高級車だった。
「おい、井川……ダミーの廃車というのは、隣のボロボロのフォードのことじゃないのか?」
真崎が震える指で、もう一台を指差す。
井川は丸眼鏡を押し上げ、きょとんとした顔で二台を見比べた。
「おや。最初はフォードに仕掛けるつもりでしたが、こちらの高級車の車底部の方が、遅延信管を設置するのに極めて美しい『くぼみ』があったもので……つい夢中になり、紋章など全く目に入っていませんでした。いやはや、うっかりしていました」
「うっかりで済むか、この馬鹿野郎!!」
真崎の怒号が路地に響き渡った。
もしここでイギリス要人を吹き飛ばせば、高杉が描く「日英蘭三国同盟」という国家の大計が完全に水泡に帰す。
真崎は空を見上げた。上海の空は、その日も青かった。
その時だった。
パキィッ、という微かな音が、黒塗りの車の車底部から聞こえた。
続いて、シューッ……という酸が金属を浸食する不気味な音が、静かな路地に響き始める。
「ああ、いけません。設置があまりにも楽しかったもので、ドアノブに触れるとガラスアンプルが割れる連動ギミックまで仕込んでいたのを忘れていました。大尉殿が近づいた振動で作動したようです」
井川は全く焦る様子もなく、懐中時計を取り出してニッコリと微笑んだ。
「酸の濃度と金属ワイヤーの太さから計算して……あと四十秒ほどでワイヤーが破断し、ドカン、ですね」
「……ッ!!」
逃げるという選択肢はない。
爆発を止めなければ、国家の未来が消える。
無理に装置を引き剥がせば、衝撃で即座に起爆する。
酸が金属ワイヤーを溶かしている以上、物理的な解体ではなく、化学的な「中和」しかない。
――酸を止めるには、アルカリ性の物質で中和させるしかない。
真崎は猛ダッシュで高級車へ飛びついた。
ドアノブを引く。鍵はかかっていない。
車内を荒々しく捜索した目に飛び込んできたのは、後部座席の灰皿に山積みされた高級葉巻の吸い殻と、サイドテーブルに置かれた飲料水のクリスタル・デキャンタだった。
(これだ……!)
真崎はデキャンタの水を灰皿に勢いよく注ぎ込み、手掴みで乱暴にかき混ぜた。
灰を水に溶かした上澄み液――灰汁は、強力なアルカリ性を持つ。
真崎は泥状の灰色の液体を両手ですくい上げ、車底部の起爆装置の心臓部へと一気に流し込んだ。
ジュワァァァッ!!
激しい中和反応の音とともに、白煙が視界を染め上げながら噴き上がる。
真崎は息を詰め、爆発の衝撃に備えて身を硬くした。
一秒が永遠のように感じられる死の沈黙。
やがて――シューッという浸食音が、完全に鳴り止んだ。
ワイヤーの溶解は、破断の数ミリ手前で止まっていた。
真崎は、オイルと灰汁にまみれた手のまま、石畳に力なくへたり込んだ。
全身から冷や汗が滝のように噴き出している。
「お見事。とっさに灰汁の中和反応を思いつくとは。状況判断、化学の応用、そして手を汚す決断力。……立派な錬金術師の仲間入りですね、大尉殿」
「……ふざけるな。寿命が十年縮んだ」
だが、安堵の息をついたのも束の間だった。
「大尉殿。そういえば、英国高官は二十分後に戻ってくる予定と聞いています」
真崎は石畳から跳ね起きた。
「なぜそれを今言う!!」
「言い忘れていました」
*
真崎はすでに駆け出していた。
車底部の装置を引き剥がし、灰汁の痕跡を白衣の袖でこすり落とす。灰皿を元の位置に戻し、デキャンタに水を補充する。後部座席の床に散らばった灰を手ですくい、窓から路地に捨てる。
「井川、お前は外で見張れ。高官の車が見えたら今すぐ知らせろ」
「はい」
「返事だけは一人前だな……!」
十五分後、真崎は荒い息を吐きながら路地の壁に背を預けた。
車は、何事もなかったかのように元通りになっている。
灰汁の白い痕跡だけが、真崎の両手にこびりついて残っていた。
井川が涼しい顔で歩み寄り、眼鏡を押し上げた。
「完璧な仕事でしたよ、大尉殿」
「二度とごめんだ」
真崎は頭痛を堪えるようにこめかみを押さえ、霧の向こうへと目をやった。
――それにしても、この奇兵隊にまともな奴はいないのか……。
※明日は2回(07:00 / 19:40)更新予定です。
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