海霧の中の奇兵隊―死んだはずの高杉晋作と、乃木大将が遺した隠し遺書― 作:yoshiume
少なくとも、真崎勇気はそう思っていた。
その認識が覆るまで、あと三十分もなかった。
高杉のアジトの通信室は、今日も黒石の王国だった。
壁一面の銅線、鈍い光を放つ真空管、床に吐き出され続ける紙テープ。
真崎は邪魔にならない位置の椅子に腰を下ろし、煙草に火をつけた。
黒石は一言も発さず、鉱石検波器のダイヤルをミリ単位で操作し続けている。
この男と並んでいると、言葉が要らない。
それが心地よいのか不気味なのか、真崎にはまだ判断がつかなかった。
その時だった。
黒石の耳元のヘッドホンから、突如として甲高いモールス信号の打鍵音が漏れ聞こえた。
ピー、ピィィ、ピ、ピ……。
先程まで石像のように静止していた黒石の表情が、微かに、しかし劇的に変化した。
彼は慌てて両耳にヘッドホンを被り直し、食い入るように紙テープの印字を追い始める。
その目は驚きに見開かれ、鉛筆を握る手がわずかに震えていた。
「どうした、黒石。英国艦隊の緊急暗号か?」
「いえ……違います。この打鍵の癖、間違いない……」
黒石は息を呑み、かすれた声で言った。
「東京の
美濃部栞――帝都・東京の海軍省に勤務する通信員である。
秋月少佐が稀有な数学の才能を持つ彼女を見出し、海軍に引き込んだ。女だからと難色を示す上層部も、秋月の緻密な根回しの前に頷かざるを得なかった。その後、秋月は彼女をこの奇兵隊の極秘の眼と耳としても引き入れたのである。
モールス信号を打鍵する際、人間には必ず特有の「キーイングの癖」が生じる。
熟練の通信士の間では「Fist(拳)」と呼ばれるそれは、ト音の長さがわずかに長い、休符のリズムが独特である、など千差万別だ。電波のノイズ越しであろうと、彼らはその手癖を聴き分けることで、まるで声を聞くように相手を特定できた。
黒石は美濃部からの定型文を受信し、猛然と鉛筆を走らせて暗号を翻訳していく。
陸海軍中枢の不穏な動きを伝える、極めて重要な機密情報だった。
しかし通信の末尾に差し掛かった時、黒石の鉛筆がぴたりと止まった。
――ト、ト、ツー、ト、ツー……。
規則的な暗号の羅列が終わった後、続く数列が帝国海軍の標準コードブックの法則から完全に逸脱した。
黒石の瞳孔が、猫のように細く収縮する。
脳内の歯車が、物理的な熱を帯びるほどの速度で回転を始めた。
(……なんだ、この乱数の配列は? いや、乱数じゃない。素数の飛躍……フィボナッチ数列をキーにした多表式暗号の変則型か。それも、基数に今朝の上海と東京の気圧の差を組み込んでいるのか……!?)
黒石は、悦びに震える唇から薄気味の悪い笑みを漏らした。
凡百の解読班が見れば「送信ミスによるノイズ」として切り捨てる無意味な打鍵。
しかしそれが黒石の脳内を通過した瞬間、極上の平文へと変貌を遂げる。
導き出された一文を見つめたまま、黒石は耳まで真っ赤に染まり、茹で上がったタコのように硬直した。
「おい、どうした。何と書いてある」
真崎が背後から紙を覗き込む。
黒石の神経質な字でこう記されていた。
『東京ハ連日ノ猛暑デス。上海ノ熱気ハイカガデショウカ。御自愛ヲ』
真崎は思わず目を丸くした。
国家の命運を左右する極秘通信の末尾に、大英帝国はおろか味方の軍上層部すら絶対に解読できない変態的な数式で装甲された、たった一行の私信。
東京の美濃部から黒石へ向けられた、数学的知性の極致による気遣いだった。
返信を打たなければならない。
黒石は震える手を電鍵に伸ばしたが、ぴたりと止まった。
「……だめだ。私信を返すわけにはいきません。こんな複雑な暗号、列強の解読班が万が一にも規則性として認識してしまったら、彼女の立場が……」
天才特有の被害妄想に陥り、ぶつぶつと数式を唱えながら自壊し始めた黒石の背中を、真崎が岩のような拳でバンと叩いた。
「なにをモタモタしている」
「た、大尉殿……しかし、軍の回線を……」
「黒石。お前、さっき俺に何と言った。暗号解読は論理と数学だと。ならば、その論理の刃でお前自身の想いを研ぎ澄ませ。世界中の白人どもが百年かけても辿り着けない、極上の返信を叩き込め。それが、お前という兵器の作法だろうが!」
黒石はハッと息を呑み、真崎の顔を見上げた。
そして獲物を見つけた猛獣のような瞳で、深く一回、うなずいた。
*
彼は両手を電鍵に添え、目を閉じた。
最初の数秒、黒石は微動だにしなかった。
唇が、音もなく動いている。数式だ。感情を乗せる器を、数学で設計している。
円周率、上海の今朝の湿度、初めて交信した日の周波数――素材を脳内で並べ、組み合わせ、崩し、また組み直す。
その横顔は、恋をしている青年のものではなく、高難度な数式を解き進める職人のそれだった。
しかし真崎には分かった。この男にとって、それは同じことなのだ。
やがて、何かが噛み合った。
黒石の肩から、すっと力が抜けた。
冷徹な数学者としての脳髄をオーバーヒート寸前まで回転させ、一人の青年としてのありったけの感情を、複雑怪奇な乱数の海へと沈め込んでいく。
静寂に包まれた部屋に、猛烈な打鍵音が鳴り響き始めた。
――ツー、ト、ツー、ト……。
それは、円周率の小数点以下一万桁の一部と、当日の上海の湿度、さらに二人にしか分からない「初めて交信した日の周波数」を掛け合わせた、常軌を逸したワンタイムパッドであった。
『モシ上海カ東京デ、アエタラ、マチヲアンナイシマス』
打ち終えた瞬間、黒石は精根尽き果てたように椅子にへたり込んだ。
静寂が落ちた。
返信が来るかどうか、誰にも分からない。
黒石は電鍵から手を離せずにいた。
真崎は黙って横に立った。
いつの間にか壁際に李河が立っていたが、今は誰もそれを気にしなかった。
十秒。
二十秒。
――ピー、ピィィ、ピ、ピ……。
軽やかで、どこか弾むようなリズムを持った手崩れが、ヘッドホンから漏れ出した。
黒石が送った狂気的な数式を、東京の美濃部がわずか数十秒で解読し、さらなる複雑な暗号で構築し直した返信だった。
『カナラズアンナイシテネ』
その翻訳が完了した瞬間。
「うおおおおおっ!!」
「この堅物の暗号屋が、見事に電波の壁を突破したぁぁぁ!」
アジトの地下室が、奇兵隊一同の割れんばかりの大歓声に包まれた。
高杉晋作が三味線をかき鳴らして高笑いし、井川が祝砲代わりに小型爆弾を空き瓶の中で爆発させる。
暗がりから、ひどく無表情な拍手の音が響いた。
李河がいつもの冷たい顔のまま、律儀に黒石へ向かって拍手を送っていた。
「……リーホォ! お前、いつの間にそこにいたんだ!?」
真崎が素っ頓狂な声を上げるが、李河は一言も発さず、静かに黒石へ親指を立ててみせた。
顔を真っ赤にしてうつむく黒石の肩を、仲間たちが次々と叩いては手荒い祝福を浴びせている。
真崎は、その喧騒を眺めながら壁にもたれかかった。
いつもは眉間に皺を寄せ、張り詰めている彼の口元が、今はどうしようもなく綻んでいる。
――この奇兵隊は、救いようがない連中だ。
しかし、それがどうにも、悪くなかった。
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※明日は2回(7:00/19:40)に更新予定です。
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