海霧の中の奇兵隊―死んだはずの高杉晋作と、乃木大将が遺した隠し遺書― 作:yoshiume
「号外! 号外! 海軍に大疑獄! ドイツから収賄発覚!」
大正三年(一九一四年)一月二十三日。
新聞社の手代が、銀座の煉瓦街を駆け抜けていく。
群衆が紙面に殺到し、帝都は朝から騒然としていた。
三宅坂の陸軍省・軍務局。
真崎勇気大尉は、窓の外の喧騒に背を向け、自席に届いた一通の私信を手にしていた。
(シーメンス事件――ドイツの電機メーカーが海軍高官に賄賂を贈った。それだけで終わる話ではない)
日露の借金で首を絞められたまま、血税を軍拡と私腹に費やす帝国。民衆が怒るのは当然だ。だが真崎の関心は、火種の「本丸」にあった。
差出人――『大阪毎日新聞』ロンドン特派員、
報道機関の人間が現役将校宛に直接書状を寄越すなど、通常はあり得ない。
封を切ると、英国製の万年筆でこう書き付けられていた。
『シーメンス事件の本筋は、
大英帝国の某造船会社こそが、より深き闇なり。
今夜十時、銀座「ル・カフェ・パピヨン」奥席にて、貴殿だけにお伝えしたき事あり』
(罠か。本物か)
決断は早かった。
乃木の遺書を懐に抱えて以来、真崎は「知ってしまった者の責任」を果たすべきことを承知していた。動かねば、遺書は意味を持たない。
*
午後十時。銀座・裏通りの片隅。
『ル・カフェ・パピヨン』。
帝都に流行り始めたばかりの新興のカフェだ。蓄音機から流れるのは、米国渡来のジャズ・レコード。喧騒を
奥まった衝立の陰の席で、真崎を待っていたのは、四十がらみの背広姿の男だった。
頬がこけ、眼鏡の奥に油断のない目が光っている。机上にはすでに濃い珈琲のカップが置かれ、男は無造作にそれをすすっていた。
「和田です。お呼び立てして申し訳ない」
真崎は黙礼して向かいに腰を下ろした。
ウェイターが注文を取りに来た。和田の前にはコーヒーが置かれている。
「同じものを」と言いかけて、真崎は思い直した。
「……茶を」
和田が微かに眉を上げた。
「コーヒーはお嫌いで?」
「苦手だ」
短く答えると、和田は小さく笑った。
「正直な方だ」
「単刀直入に申し上げる。なぜ、私だ」
和田は薄く笑った。
「貴殿は、軍務局の地下書庫に、ほぼ毎晩のように通っておられる……と聞いた。閲覧されているのは、いずれも兵站、火力、補給に関する古い資料ばかり……。日露戦争以前の戦訓集まで、ことごとく目を通しておられる、とも」
真崎の指先が、わずかに止まった。
地下書庫通いは、夜半に独り行う密かな習慣だった。それを、新聞記者が掴んでいる。
「貴殿は、陸軍の中で、極めて珍しい類の若手将校だ。精神論を疑い、火力と兵站で軍を作り変えようとする者。私が探していたのは、まさにそういう人間です」
和田はグラスを置き、懐から一枚の薄紙を取り出した。
「これを、お見せしたい」
真崎は、その紙面に視線を落とした。
そこに記されていたのは、無数の数字と、人名の羅列だった。
『金剛 建造契約料 二百三十六万ポンド』
『コミッション 五パーセント――十二万ポンド(邦貨換算 約百二十万円)』
『流出先・松本和 海軍中将(艦政本部長)――約四十万円』
『流出先・藤井光五郎 海軍機関大佐――約三十万円』
『残り 約五十万円――政・財・宮中、行方知れず』
真崎は、息を呑んだ。
シーメンス事件は、ドイツの電機メーカーだけの贈賄事件ではなかった。
その小さな火種は、はるかに巨大な――大英帝国ヴィッカース社による「金剛」調達賄賂という本丸の延焼を、誘発する導火線に過ぎなかったのだ。
契約料の五パーセント、邦貨にして百二十万円。表向きは、ヴィッカース社が日本の代理店・三井物産へ支払う「仲介料」。だがその実態は、海軍省・艦政本部の首脳部へと組織的に流し込まれる巨額の賄賂だった。
「……これを、誰から」
真崎の声は、自分でも驚くほど乾いていた。
和田は、グラスの中で氷を回した。
「ロンドンに、香川という男がおりまして」
その名を、真崎は知らない。
「元・三井物産ロンドン支店勤務。金剛調達の現場に立ち会った男です。事情あって三井から切り捨てられ、いまはロンドンの片隅で身を潜めている。……その男が、自分が知る数字を、誰かが使わねば自らの人生に意味がないと申しまして、私にこれを託しました」
香川。
真崎は、その名を口の中で噛みしめた。顔も知らぬ一人の中年男が、ロンドンの霧の中で、こうして自分の人生を一枚の紙に賭けている。
「私が」――和田は続けた。「これを公にしようと思えば、紙面に書ける。だが、書いたところで政府は揉み消す。新聞は一週間で次の話題に移る。海軍の腐敗は、また同じ顔ぶれで再生産される。……だから私は、書く前に、別の選択肢を試したい」
「別の選択肢、とは」
「この情報を、軍人に渡すのです。陸軍の、しかも近代化を志す数少ない若手将校に。新聞よりも、軍内部から動いた方が、海軍の腐敗を質す力は強い」
和田は薄く笑った。
「私の見立てに、誤りがなければ、ですが」
真崎は、机上の紙面に視線を戻した。
松本和。藤井光五郎。残り五十万円の行方不明。
この紙片を軍務局に持ち込めば、陸軍は海軍を叩く最強の弾を得る。山本内閣は総辞職に追い込まれ、海軍は予算を削られる。その空白を突いて、陸軍は二個師団増設の悲願を果たし、政局の主導権を奪い返すだろう。
だが、それでよいのか。
自分は、陸軍の派閥利益のために動く駒なのか。それとも、国家の腐敗そのものを質すために動く軍人なのか。
乃木遺書を懐に持つ自分が、いま、どちらの動機でこの紙片を受け取るのか――それが問われていた。
「……受け取ろう」
真崎は、ようやく口を開いた。
「ただ、私の動機は、陸軍の派閥利益ではない。陸海軍を……この国をまともにしたいだけだ」
和田は、はじめて深く頷いた。
「結構です。動機が何であれ、結果が伴えば、香川は浮かばれる」
真崎は、紙片を懐に収めた。
*
パピヨンを出た真崎は、お堀端の暗がりを、独り官舎の方向へ歩いていた。
深夜の銀座の喧騒は遠く、お堀の対岸の闇は、墨を流したように深い。
懐の紙片が、焼けた鉄のように重い。
真崎は、橋の手すりの前で足を止めた。
(……これを、軍務局へ持ち込めば。あるいは、もっと別の使い方があるか)
乃木遺書の時もそうだった。物的証拠を持つということは、自らを敵の標的に晒すということでもある。
真崎は懐から紙片を取り出し、マッチを擦った。
紙の縁に、青白い炎が走る。
数字も人名も、夜風に巻かれて、橙色の灰へと崩れていった。
燃え尽きた灰を、お堀の冷たい水面に投じた。
真崎は深く息を吐いた。
その時、ふと、お堀の対岸、ガス灯の届かぬ橋のたもとに、人の気配を感じた。
目を凝らすが、輪郭は闇に溶けて見えない。
ただ、ほんの一瞬――煙草の火か、小さな赤い光が、闇の奥で瞬いたような気がした。
(……誰かがいるな)
真崎は、
深く考えるのは、よそう。
今夜は、燃やした紙片の灰だけで十分だ。
懐の中には、いまだ乃木の遺書が、焼けた鉄の重さで存在を主張している。
真崎は背を向け、官舎へと続く暗い夜道を歩き出した。
その背中を、対岸の闇が、長く、静かに見送っていた。
帝都の夜空に、最初の雪が、無音で降り始めていた。
◆あとがき◆
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