海霧の中の奇兵隊―死んだはずの高杉晋作と、乃木大将が遺した隠し遺書― 作:yoshiume
「背筋が凍ったぞ」
秋月慧がそう言った夜は、
七月末の上海、高杉拠点の屋上。
黄浦江から吹き上げる夜風が、ヘドロと熱気を含んで二人の間を抜けていく。
眼下には外灘のガス灯が列をなし、租界の裏路地には原色の欲望がうごめいている。
真崎勇気と海軍少佐・秋月慧は、薄暗い屋上の縁に腰を下ろし、氷水に浸された分厚い緑色のガラス瓶を酌み交わしていた。
二人の間には、南京路の屋台から持ち帰った「
真崎は、箸でつまんだ大ぶりの生煎に無造作にかぶりついた。
鉄鍋でカリッと焼き上げられた分厚い皮を嚙み破ると、豚肉の脂と八角の効いた熱い肉汁が爆発的に溢れ出す。
「……ッ、美味いな」
「ああ。帝都の薄っぺらい麦酒とは、比べ物にならん」
秋月は、豚の角煮を静かに咀嚼し終えると、ふと声の温度を一段下げた。
「それにしてもだ、真崎」
射抜くような視線が、夜の闇を透かして幼馴染の横顔を捉えた。
「前回の会食でお前が仄めかした時は、流石の俺も半信半疑だった。よもや……あの軍神・乃木希典大将の『隠し遺書』なる代物を、本当にお前が抱え込んでいるとはな。後学のために目を通させてもらったが……背筋が凍ったぞ」
「海軍きっての冷血漢を震え上がらせたのなら、
「笑い事ではない」
秋月はジョッキを置いた。
「白兵突撃の完全否定に、火力戦・消耗戦への痛切な警鐘。……あれは、大和魂という不可視の信仰で成り立っている帝国陸軍の精神的根幹を、根こそぎ破壊する劇薬だ。一歩間違えれば、お前自身が三宅坂の狂信者たちに物理的に消されかねんぞ」
「……俺の親父は、日清戦争の白兵突撃で肉片になって犬死にした」
真崎は手元のジョッキを見つめたまま、地を這うような低い声で言った。
「二〇三高地で何万という部下を無駄死にさせた軍神殿が、死の淵で吐き出した血の滲むような『後悔』と『真実』だ。……この猛毒を喉首に流し込んでやらねば、あの頑迷な狸どもは永遠に目を覚まさん」
真崎は顔を上げ、黄浦江の暗い水面を睨みつけた。
「陸軍を欧州の
「……相変わらず、貧乏くじを引くのが好きな男だ」
「お互い様だろう。計算高いお前が、わざわざこんな泥舟に乗っているのだからな」
「俺は、あの爺さん――高杉晋作に出会えてよかったと、心底思っている」
秋月の唐突な独白に、真崎はジョッキを口から離した。
「海軍という温室で、少しばかり計算が速いだけで全てを理解した気になっていた。あの爺さんに日英蘭三国同盟という途方もない盤面を見せられ、思想を根本から壊されたことで……俺は、無知なエリートのまま国と心中する運命から、辛うじて救われたのだ」
*
「……それで、真崎。お前に報告がある」
秋月はグラスを置き、改まった口調で言った。
「縁談が決まった。相手は同郷の女だ」
「俺も知っている女か?」
「呉の
真崎は、一瞬の驚きの後、顔を綻ばせた。
「そうか! それはめでたい。どうせ感情の読めない仏頂面で祝言を挙げるのだろうが、キクさんが気の毒にならないよう、少しは愛想よくしてやれよ」
「お前、祝言の席で何か喋れるのか。まさか来賓の前でも仏頂面のまま立ってるつもりじゃないだろうな」
「失礼なことを言うな」
「俺は本当に心配してるんだ。お前の愛想笑いというものを、二十年以上見てきて一度も見た覚えがない」
「必要がないからだ」
「相手はキクさんだぞ。必要だろう」
秋月は少し黙った後、
「……練習する」
と、驚くほど真剣な顔で言った。
真崎は吹き出した。秋月は平静を装ったが、耳が微かに赤かった。
笑い声が夜気の中に吸い込まれ、やがて静寂が戻った。
真崎は残りのビールを一気に飲み干し、空になった緑色の瓶を月明かりに透かして見つめた。
このゲルマニア麦酒が生まれたのは、ドイツ帝国が青島を「租借」し、東洋艦隊の母港として要塞化を進めた頃のことだ。極東へ送り込まれたドイツ兵たちのために、本場ミュンヘンから醸造技師を呼び寄せ、極東随一の麦酒工場を造り上げた。
「……これほど美味いビールを造るドイツ人たちが、いつか敵になるのかな……」
その呟きは、重く、沈痛な響きを帯びていた。
目前に迫る凄惨な攻囲戦の予感が、冷えたジョッキの底に重い影を落としていた。
*
翌朝。高杉拠点の地下室は、いつもより静かだった。
黒石透がヘッドホンを首にかけたまま、電文の束を睨んでいた。
「何か掴んだか」
「掴んだというか……変なんですよ。イギリスの軍用無線が、昨夜から急に静かになった。通常業務の通信が全部止まって、暗号の照合信号だけが断続的に流れています」
黒石は一拍置いて、淡々と続けた。
「……戦争が始まる前日の通信パターンです、大尉殿」
真崎は、それ以上何も聞かなかった。
外套を掴み、足早に階段を上った。
秋月への結婚祝いを求め、真崎はイギリス系高級百貨店「レーン・クロフォード」の重厚な扉を押し開けた。
冷やりとした空気が肌を包む。真鍮製のシーリングファンが重々しい音を立てて回り、要所に置かれた氷柱が優雅な涼気を循環させていた。
長衫姿のコンプラドールに案内され、ロンドンから直輸入された「マッピン&ウェブ」の純銀製カトラリーセットを選んだ。
深紅のベルベットの上で、ナイフやフォークが磨き上げられた武器のように眩い光を反射している。軍刀や拳銃とは全く異なる、文化と富が蓄積された重みだった。
代金を支払い終えると、コンプラドールがふと声を落とした。
「昨日から、うちの常連のドイツ人の旦那方が、誰一人いらっしゃらないんです。昨朝のうちに、何かを持って引き上げていった」
「……何を持って」
「家族を、です」
真崎は包みを受け取りながら、その言葉の重さを測った。
店外へ出た瞬間、街の空気が昨日までと完全に変質していた。
銀行の前に欧米人と中国人商人が長蛇の列を作り、血走った目で怒号を飛ばしている。取り付け騒ぎだ。
ドイツ系商館のシャッターが次々と下ろされ、イギリス国旗を掲げた義勇隊が銃を構えて通りを警備し始めた。
黄浦江では、ドイツの砲艦が黒煙を噴き上げて出港準備を進め、その動きをイギリスの巡洋艦が砲門を向けて無言で監視している。
「大尉殿ォッ!!」
雑踏を掻き分けて、血相を変えた黒石が走ってきた。
「ロンドンからの緊急電報です! オーストリア=ハンガリーが、セルビアに宣戦布告しました!!」
真崎は、銀食器の包みを骨が白く浮き出るほど固く握りしめた。
目前でパニックに陥る群衆はまだ、数千万の命を挽き肉にする歯車が回り始めたことに気づいていない。
「……行くぞッ!」
高杉拠点の階段を降りかけた瞬間、真崎の鼻腔が微かな異物を捉えた。
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