海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:吉田梅之助

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第二十話 自動報復のからくり

 拠点の狭い階段を、女が先に降りていく。

 白檀と、その奥の女の肌の匂いが混じり合って、ふわりと下から上ってくる。悪くない、どころではなかった。

 真崎は、一段、踏み外しかけた。

 

 地下室に降りると、黒石透がヘッドホンを片耳にずらして振り返る。

 

「真崎さん。ロンドン発。オーストリア、セルビアに宣戦。以上」

「もう聞いた」

「……誰から」

「私から」

 

 真崎の後ろから、女が顔を出した。真空管とオゾンの匂いに、白檀が一筋、混じる。

 黒石の顔が、珍しく動いた。

 

「……電報より、速い」

「ロイターの電信係は、私の煙草を欲しがるの」

 

 黒石は、それには答えなかった。いつもの顔に戻って、小さく付け足した。

 

「以上」

 

 部屋の奥で、高杉晋作が三味線を膝から下ろした。李河、井川、黒石、それに昨夜の酒がまだ顔に残っている秋月――いつもの顔ぶれの真ん中に、女は当たり前のように腰を下ろし、男物の煙草に火をつけた。

 

「おや、愛玲(アイリィン)さん」

 

 井川が、作業台の上の瓶を、そっと自分の腹の陰へ寄せた。

 

「今日の煙草は、そちらの端でお願いできますか。いやはや、白檀の火は、よく燃えますので」

「あなたの白衣ほどじゃないわ」

「……いやはや」

 

 井川は、灰汁の染みの残る袖口を、黙って背中に回した。

 

「先生。……この人は」

「愛玲じゃ。清の皇族の血を引いとる。わしの手足として、上海の表を泳いどる」

 

 高杉は、顎で部屋の隅をしゃくった。

 

「それと、リーホォが拾うて育てた。あれの、ただ一人の弟子じゃ」

 

 真崎は思わず李河を見た。壁にもたれた長身の男は、表情ひとつ変えずに言った。

 

「……出来は、まあまあだ」

 

 愛玲は、聞こえなかったような顔で煙草を吸っていた。

 

「……それにしても、女の遣いを寄越すとは、先生らしくもない」

「遣いに男も女もないわ」

 

 愛玲は、煙を細く吐いた。

 

「間に合ったでしょう。電報より先に」

 

 高杉は鼻で笑い、三味線の弦を一撥(ひとばち)、ベンと鳴らした。

 

「剛剣で叩き割れぬ城門も、毒を塗った針ならば音もなく突破できる。すべては盤上の理よ」

 

 真崎は黙った。反論の言葉が、見つからなかった。

 

  *

 

 愛玲は煙草を灰皿に押しつけると、懐から革袋を取り出し、紫檀の机の上に放り出した。

 滑り出たのは、書類の束だった。どれも、英国やドイツの商館の、表には出ない紙である。

 

「欧州が燃え始めた。各国の政府は今ごろ、参戦か中立かで怒鳴り合っているはずよ。でも、あなたたちが見るべきはそこじゃない」

 

 愛玲が指先で弾いたのは、束の中の一枚だった。

 「ドイツ東洋艦隊、ウェールズ炭緊急徴発指令」。

 

 秋月が、奪い取るようにして紙を引き寄せた。目が、数字の列を上から下へ走る。

 

「……十万トンを超える。五隻の艦隊が、半年は海に居座れる量だ。シュペーは、青島(チンタオ)に籠もるつもりはないな。太平洋からインド洋まで、通商破壊に出る気だ」

「ウェールズ炭、というのは」

「英国の最上等の石炭だ。煙がほとんど出ない」

 

 秋月は、紙を机に戻した。

 

「煙を吐かん船は、水平線の向こうから見つからん」

「船のエサがこれだけ動いている。連中、完全に海に出る気だわ」

 

 愛玲はそう言って、もう一枚を重ねた。上海の石炭問屋の相場の写しだった。

 

「ついでに、これも。上海の石炭の値。三日で、二割」

 

 高杉が、三味線を膝から下ろした。

 

「石炭の値を見い、真崎。戦はな、大砲より先に、値札に出る」

 

 それから、机の上に古いチェス盤を広げた。木彫りの、動物の形をした駒である。

 高杉は何も言わずに、駒を一列に並べていった。雄牛。山羊。熊。鷲。鶏。獅子。

 

 端の雄牛を、指で弾いた。

 

 雄牛が山羊を倒す。山羊が熊を倒し、熊が鷲を、鷲が鶏を、鶏が獅子を倒した。

 乾いた音が六つ、地下室に続けて鳴った。

 

「自動報復のからくり、というやつじゃ。一つ倒れりゃ、全部倒れる。誰にも止められん」

 

 高杉は、倒れた獅子の先に、小さな駒を一つ置いた。

 真崎は、それを見た。

 

「……それは」

「日英同盟という鎖はな、ここまで伸びとる」

 

 高杉は、小さな駒の頭を指でつついた。駒は、倒れなかった。まだ。

 

「ならば先生。わが日本は、どう動くべきですか」

「三宅坂の石頭どもの腹の底は、ただの火事場泥棒よ」

 

 高杉は、地図の上の青島に、葉巻の灰を落とした。

 

「ドイツが造った港と鉄道と、山東の石炭を、ただでかすめ取る天佑(てんゆう)としか思っとらん。目先の利権に目が眩んで、油の取り合いという本当の地獄の盤面が見えとらんのじゃ」

 

 高杉は撥を握り直し、真崎を見た。

 

「泥縄の連中を裏から使うて、青島を落としたその足で、陸軍を欧州の泥沼へ引きずり込んでやる。そこで近代戦の現実を骨の髄まで叩き込まねば、この国に先はない」

 

 真崎は、盤の上の小さな駒を見ていた。

 秋月も、愛玲も、同じ駒を見ていた。

 

  *

 

 十日ほどのち。小田原。

 山縣有朋(やまがたありとも)の別邸、古稀庵(こきあん)。山縣が政治より長く愛していると言われる庭に、夕立の名残が光っている。洋間の円卓には、蝉時雨も届かない、重い静けさが淀んでいた。

 

「――昨夜の閣議で、決しました」

 

 東京から汽車で下ってきた外務大臣・加藤高明(かとうたかあき)は、椅子の上で背筋を伸ばしたまま言った。

 英国が、東シナ海に出没するドイツの仮装巡洋艦の掃討を求めてきた。それを大義として、日本はドイツに宣戦する。青島と、赤道以北のドイツ領の島々を取る。

 

 元老・山縣は、円卓の奥のいつもの椅子で、微動だにしない。

 

「決めてから、来たか」

「元老のお耳には、然るべく」

「然るべく、のう」

 

 山縣は、冷めた茶を一口含んだ。

 

「聞多(もんた)――井上は、天佑じゃと浮かれとるそうじゃな」

「井上侯のお言葉は、大正の新しい時代にふさわしいかと存じます」

「加藤よ」

 

 七十六歳の老人の声は、低く、乾いていた。

 

「奉天で、わしらが何発の弾を撃った?」

「は」

「数えたか、加藤」

 

 加藤は答えなかった。

 

「数え切れんほど撃って、それでも足りなんだ。あれから九年。この国に、あの鉄の嵐に耐えるだけの弾と、弾を作る工場があると思うてか」

「それに、英国は、商船を守ってくれと頼んできただけではないのか。青島を取れとは、言うておるまい」

「頼まれた以上のことをしてやるのが、同盟でございます」

「頼まれもせんことをすれば、恩ではのうて、借りになる」

 

 加藤の口元が、わずかに固くなった。

 

「……青島は、ひと月で落ちましょう」

「落ちるじゃろう。わしは、落ちた後の話をしとる」

 

 加藤は、それ以上の問答をしなかった。深く一礼して、座敷を下がっていく。廊下の足音が遠ざかっても、山縣は庭を見たまま動かなかった。

 

「……物事の本質を見ようとせん奴ほど、天の助けを当てにする」

 

 山縣は、茶碗を置いた。

 

「村塾でそねえなことを言うたら、真っ先に高杉に噛みつかれるじゃろうな」




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