海霧の中の奇兵隊―死んだはずの高杉晋作と、乃木大将が遺した隠し遺書― 作:yoshiume
真空管の熱とオゾン、火薬とコーヒー。
この地下室に染み付いた馴染みの匂いに、明らかに場違いなものが混じっている。
白檀の煙。そして、その奥に潜む、南国の花を思わせる甘く重い残り香。
(……女がいる)
真崎は、扉を押す手を一瞬止めた。
「遅かったわね」
地下室に降り立った真崎の目に、まず白檀の煙が映った。
次いで、見知らぬ女の横顔。
部屋の奥、紫檀の机に片手をついて立っていた。濃紺の
男物の煙草を指先で無造作に挟み、煙を細く吐き出している。その仕草は上品でも下品でもなく、ただ場の空気をすべて自分のものにしているような、奇妙な自然さがあった。
部屋にはすでに影の奇兵隊の面々が揃っていた。
高杉、李河、井川、黒石――そして、この女。
没落したとはいえ、かつて大陸を統べた清朝皇族の血筋を引く女である。
帝都の社交界にいれば「傾城の美女」と囁かれ、裏社会に放てば「毒を持った絹針」になる、そういう種類の女だった。
女は真崎を一瞥し、口元を歪めた。
「世界が燃え始めるのを、外で見物していたの?」
楚々とした外見とは裏腹に、上海の裏路地を這い回る野良犬のような粗野さと毒が、言葉の端々に滲んでいた。
真崎は部屋を素早く見回し、最後にその女へ目を止めた。
「……高杉先生」
真崎は、声を低く抑えた。
「この
愛玲の眉が、わずかに動いた。
「女」という言葉の置き方を、聞き逃さなかった。
「仲間かどうかは、役に立てるかどうかで決まるわ」
声に刺はなかった。
ただ、真崎を正面から見据えた眼光には、「あなたが今何を思ったか、全部わかっている」という静かな確信があった。
高杉は鼻で笑い、三味線の弦を
「剛剣で叩き割れぬ城門も、毒を塗った針ならば音もなく突破できる。すべては盤上の理よ」
真崎は黙った。反論の言葉が、見つからなかった。
*
愛玲は煙草を灰皿に押し付け、懐から革袋を取り出して紫檀の机の上に重々しく放り出した。
中から滑り出たのは、ハニートラップ、盗聴、恐喝――あらゆる不浄な手段で列強高官から引き出された、最新の機密書類の束であった。
「欧州全土が戦火に包まれた。各国政府は今頃、参戦か中立かで怒鳴り合っているはずよ。でも、あなたたちが注目すべきはそこじゃない」
彼女が指先で弾いたのは、束の中の一枚だった。
「ドイツ東洋艦隊、最高級ウェールズ炭の緊急徴発指令」。
秋月慧が書類を奪い取るようにして凝視し、数字を脳内で弾いた。
「……十万トンを超える。シュペー提督の東洋艦隊は、防御に留まるつもりはないな。太平洋からインド洋にわたる海域で、通商破壊戦を仕掛けるつもりか」
石炭は、この時代の海軍にとって文字通りの生命線だ。
イギリスが産する最高級のウェールズ炭は燃焼効率が極めて高く、黒煙をほとんど出さない。煙を吐かないということは、敵から発見されにくいということであり、大海原での生死を分ける決定的な要素となる。
「船の『エサ』がこれだけ動いている。連中、完全に海に出る気だわ」
高杉は机の上に、年季の入ったチェス盤を広げた。動物を象った木彫りの駒だ。
「よいか、真崎。これから起きることは、もはや誰にも止められん。これは政治の失敗でも、個人の野心でもない。……『自動報復』という名の、鉄の鎖に絡め取られた集団自殺じゃ」
高杉は、オーストリアを象った「雄牛」の駒を、セルビアという「山羊」にぶつけた。
「まずオーストリアがセルビアを叩く。するとロシアという『熊』が立ち上がる。熊が動けばドイツという『鷲』が翼を広げる。鷲が動けばフランスの『鶏』が飛び立ち、最後にベルギーの海域を侵されたイギリスという『獅子』が吠える」
チェス盤の上の駒が、次々と倒れていく。
「ならば先生。わが日本はどう動くべきですか」
高杉は地図上の一点――「
「三宅坂の石頭どもの腹の底は、ただの『火事場泥棒』よ。ドイツが造り上げた港と鉄道、山東省の石炭をタダでかすめ取る『
高杉は撥を握り直し、真崎を射抜いた。
「泥縄の連中を裏から操り、青島を落としたその足で、帝国陸軍を欧州の泥沼へと引きずり込んでやる。そこで近代戦の現実を骨の髄まで叩き込まねば、この国に未来はない」
真崎は、高杉が見つめる数十年後の深淵を、ただ見つめ返していた。
*
同じ頃。帝都・東京の目白台。
「――まさに、大正新時代の『天佑』であります!」
外務大臣・加藤高明は熱っぽく語気を強めた。
イギリスが通商路保護を名目に日本へ援助を求めてくれば、それを大義名分として青島要塞と赤道以北のドイツ領南洋諸島を一気に手中に収めるべきだ、と。
しかし、当の元老、山縣は、座布団の上で微動だにしない。
脂の乗りきった五十代の現職外相が、わざわざ目白の私邸まで足を運んでこの痩せた七十六歳の老人の前で言葉を尽くしている。それは加藤が、内閣という装置の起動スイッチを誰が握っているかを、骨身で理解しているからに他ならなかった。
「加藤よ。威勢の良いことを申すのは勝手だがな……」
山縣の低い声が座敷に響いた。
「欧州の火事は、これまでの戦争とはわけが違う。底なしの総力戦となろう。……奉天で、わしらが何発の弾を撃った?」
「は」
「数えたか、加藤」
加藤は答えなかった。
「数え切れんほど撃って、それでも足りなんだ。あれから九年、わが帝国に、あの鋼鉄の嵐に耐えうるだけの兵站と工業力があると思うてか」
だが、政治の表舞台では、加藤をはじめとする「参戦熱」が、ゆっくりと、だが確実に政府と軍部の歯車を、狂信的な方向へと回し始めていた。
山縣は、冷めた茶を静かに飲み干した。
加藤の熱弁が耳に残っている。
……『天佑』。
その言葉がどれほど軽く、どれほど残酷かを、この老人だけが知っていた。
最後までお読みいただきありがとうございます。
※続きは明日19:40に更新予定です。
★投票・ブックマークいただけると今後の執筆においてこれ以上ない大きな励みになります。