海霧の中の奇兵隊―死んだはずの高杉晋作と、乃木大将が遺した隠し遺書―   作:yoshiume

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第二十二話 ジョージの電報

「高杉先生。東京から……陸軍省の『ジョージ』から暗号電報です」

 

 黒石透が、ヘッドホンを片耳にずらしながら、青いインクの紙テープを差し出した。

 

「ジョージ?」

 

 真崎は眉をひそめた。

 魔都・上海の地下深く。真空管の熱気とオゾンの焦げた匂いが充満する高杉晋作の「拠点」に、乾いたモールス信号の打鍵音が響いている。

 

(ジョージ……大英帝国国王の名か。親独派ばかりの陸軍省中枢で、わざわざそんな暗号名(コードネーム)を使うとは。高杉先生の毒気に当てられた皮肉屋が、三宅坂のど真ん中にも潜伏しているわけか)

 

 自ら納得し、真崎は黒石から翻訳された電報の束を受け取った。

 だが、その紙面に目を落とした瞬間、真崎の顔からスッと血の気が引いた。

 

「――どこまでも愚かなッ……!!」

 

 真崎の口から、血を吐くような怒声が漏れた。

 

 ジョージからの電報は、帝国陸軍中枢における欧州戦線の「戦訓分析」の最新レポートであった。

 陸軍上層部も決して無能ではない。欧州で猛威を振るう機関銃の十字砲火、分厚いコンクリートの塹壕陣地、そして大地をすり鉢に変える重砲の圧倒的な威力を、各国の観戦武官からの報告を通じて正確に把握してはいた。

 だが、彼らがそこから導き出した結論は、真崎の冷徹な合理主義を根底から破壊する、悪夢のような論理の飛躍であった。

 

『――欧州の戦況を鑑みるに、いかに強大な火力をもってしても、敵陣地を完全に殲滅しきることは不可能である。ゆえに、近代火力の恐ろしさは十分認識するものの、最終的な決着は、強固な意志を持った歩兵の白兵突撃によらなければならない。これぞ日露戦争で証明された我が陸軍の至高の戦法であり、火力の進化は、白兵戦の有効性をいささかも減じるものではない』

 

 白い和紙に、墨の匂い。

 

『機関銃と大砲の前に、いかなる精神力も無力である。突撃は単なる自殺に等しい』

 

 乃木閣下が、死の淵で振り絞ったあの一行が、真崎の脳裏に蘇った。

 あれから二年。あの遺言は、いま、目の前のレポートによって完全に踏みにじられている。

 握り潰されたのではない。読まれた上で、握り潰されたのだ。

 

「……閣下」

 

 真崎は、声にならない呻きを漏らした。

 顔を上げ、地下室の天井を睨みつける。

 

「火力で全滅させられないからといって、なぜ生身の人間を突っ込ませるという結論になる!? 工業力の差を直視できず、弾薬不足を『精神』という便利な言葉で誤魔化し続けた結果、あの連中は本気で大和魂が機関銃の弾を弾き返せると信じ込みやがったんだ!」

「まったく、救いがたい馬鹿の集まりじゃな」

 

 奥の暗がりから、腹の底に響くような声がした。

 フラスコで沸かした漆黒のコーヒーを注ぎながら、高杉晋作が音もなく姿を現す。

 

「政府はどうあれ、加藤の野心とイギリスの焦りに背中を押され、いずれ日本は参戦してドイツの青島(チンタオ)を攻めることになろう。だが……」

 

 高杉は、紫煙の向こうで冷酷に目を細めた。

 

「連中の視座は、東洋の利権をかすめ取る泥棒の域を出ておらん。狂介(きょうすけ)(山縣)が恐れる通り、今の硬直した陸軍を欧州の泥沼に派遣する器量も、度胸も、奴らにはない」

「高杉先生……このままでは、青島でまた旅順の悲劇が繰り返されます。あの狂った白兵主義を、どうにかして根本的に破壊しなければ!」

「焦るな、真崎。これは逆に、奴らの狂気を内部から打ち崩す絶好の好機ぞ」

 

 高杉はサイフォンを机に置き、湯気の向こうから真崎を見据えた。

 

「ただし、お前が想像しておるような形ではない」

「と、申しますと」

「青島は、長くは保つまい」

 

 高杉は地図上の青島を、葉巻の先で指した。

 

「要塞自体は強固だが、ドイツ本国から切り離された孤城じゃ。陸軍の連中は、想定より短期間で陥落させる。死傷者も、奴らの予想より少なく済むじゃろう」

 

 真崎の眉が、わずかに動いた。

 

「……『勝って』しまう、と」

「そうじゃ」

 

 高杉の声が、低く落ちた。

 

「奴らは『勝った』と勘違いする。日露の旅順を、ドイツ相手にもう一度繰り返せたと思い込む。白兵主義は、青島の戦勝でさらに延命する」

 

 真崎は、息を呑んだ。

 

「……つまり、青島の前線で、白兵突撃がいかに無意味かを記録する」

 

 真崎は、自らに言い聞かせるように呟いた。

 

「短期で陥落するからこそ、生き残った将校たちの間に『勝てた』という幻想が固着する前に、現場で『これは時代遅れだ』という証拠を、突きつけねばならない」

「ようやく、わしの落とした駒の意味が分かったか」

 

 高杉は、わずかに口角を上げた。

 

「青島はお前にとって、戦場ではない。『資料庫』じゃ。近代要塞と火力の物理法則を、最前線でつぶさに記録せよ。……それが、いずれ西の大陸へ陸軍を引きずり出すための、最初の楔となる」

「……承知しました」

 

 真崎は深く頷いた。

 

 

  *

 

 

「先生。黒石の情報によると、ヤップ島のドイツ無線局に暗号機とコードブックが置かれているとのことですが……南洋の方は?」

 

 高杉は葉巻を静かに灰皿に置いた。

 

「本国と切り離されたシュペー艦隊が、今なお列強の目を盗んで打電している。あの機械と暗号帳(コードブック)を押さえれば、東洋艦隊の動きが丸裸になる」

「秋月を向かわせたいところじゃがな」

 

 高杉はシニカルに笑った。

 

「あ奴は今、内地で新妻を(めと)ったばかりじゃ。流石のわしも、新婚の男を引きずり出す無粋な真似はようせん」

 

(あの仏頂面が、今頃は呉の海辺で愛想笑いの練習でもしているのか)

 

 真崎は、束の間、苦笑した。

 すぐに、苦笑は消えた。

 

「では、代わりは」

「入ってよいぞ、潮崎」

 

 高杉が、背後の重厚なオーク扉へ顎をしゃくった。

 扉が、内側から押された。

 軋む音もなく、ただ静かに開いた。

 

 入ってきた男は、海軍の軍装に身を包んでいた。

 長身。潮風に焼かれた浅黒い肌。左手首から前腕にかけて、過去の刃傷沙汰で負ったらしい生々しい傷跡が、袖口から覗いている。

 

 男は部屋に入ると、まず黒石、次に高杉、最後に真崎へと視線を流した。

 その視線が真崎の上で止まった瞬間、真崎は背筋に冷たいものを感じた。

 

 秋月の冷たさは、磨き上げられたガラスの冷たさだ。

 この男の冷たさは、研ぎ澄まされた刃の冷たさだった。

 だがその奥には、燃えさかる火が垣間見えた。

 

「紹介しよう。秋月の身代わり――潮崎じゃ」

 

 男は、軍靴の踵をきっちりと揃え、短く一礼した。

 

「海軍軍令部第三班、潮崎拓馬(しおざきたくま)。中尉であります。秋月少佐の直属であり――現在は、少佐の『影』を拝命しております」

 

 声は低く、感情の起伏がなかった。

 

 真崎は、その声に応える前に、一拍だけ間を置いた。

 幼馴染の秋月が「自分の身代わり」として送り込んできた男。それがどういう人間なのか――その一拍で測ろうとした。

 潮崎の方も、真崎を測っていた。

 二人の視線が、地下室の真ん中で、無言で交差した。

 

「真崎大尉。お話は、秋月少佐から伺っております」

 

 潮崎が、初めて口角をわずかに上げた。

 

「あなたの『計算』は、海軍の方でも評判です」

「……それは、褒め言葉と受け取っていいのか」

「ご自由に」

 

 高杉が、低く笑った。

 笑いが収まると、高杉は真崎へ視線を移した。

 

「真崎。潮崎が南洋へ向かうのと同様、お前も陸軍の軍人として公式に青島へ行く算段をつけよ。手段は問わん」

「……切符の手配も、自分でということですか」

「当然じゃ。盤外の工作員が、駒の移動まで人任せにしてどうする」

 

 それだけ言うと、高杉は三味線の撥を手に取り、それ以上は何も言わなかった。

 

 地下室の片隅で、黒石が紙テープを引き出し続ける乾いた音だけが響いていた。

 影の奇兵隊の、新しい駒が、いま盤上に置かれた。




少しだけ種明かしを。
潮崎が向かうことになったヤップ島のドイツ無線局は、実在します。ミクロネシアに位置するヤップ島には、ドイツ帝国が太平洋・インド洋の通信網の要として建設した強力な無線中継局がありました。開戦直後の一九一四年十月、日本海軍はこの島を占領し、無線局を接収しています。
シュペー艦隊との通信が途絶えたのは、この占領が一因とも言われています。

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