海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
共同租界の裏通りに、陽の射さない骨董店がある。
その前で、真崎勇気は足を止めた。
薄汚れた軒先に、見覚えのある小さな影がしゃがんでいた。擦り切れた布靴に、泥のこびりついた爪先。十歳前後の痩せた少年――
少年は真崎の顔を見た瞬間、目を丸くしたけれど、すぐに無表情に戻って、顎で店の奥をしゃくった。
「……また来たのか」
「また来た。今日は、道案内は要らん」
「なら、なんで止まった」
「お前がいたからだ」
真崎が銀貨を一枚押し込むと、阿毛はそれをちらりと見て、何も言わずに走り去った。
*
奥の薄暗い部屋で、真崎は、硝煙とカビの匂いの染みついた椅子に腰を下ろした。
目の前のビロードの布の上に、鈍く黒光りする金属の筒が二本、並んでいる。
「どうです、真崎の旦那。ドイツ本国から、表に出ない筋で流れてきた新品でさぁ」
広東訛りの英語を操る闇の武器商人が、揉み手で笑った。
カール・ツァイス社の、最新型の狙撃用
真崎は革手袋を外し、冷たい金属の手触りを確かめてから、接眼レンズを覗き込んだ。
薄暗い部屋の中なのに、レンズの向こうには、恐ろしいほどくっきりした視界が広がっている。歪みが、一つもない。世界の一部を切り取って、手元へ引き寄せたようだった。
「いくらだ」
「一本で、日本の大尉さんの俸給の、ざっと三ヶ月分」
「二本もらう」
真崎は、持参した革袋を卓の上で逆さにした。東京にいたころから、ほとんど手をつけずに貯めてきた俸給である。上海で先生に押しつけられた札束は、スーツ一着に使ったきり、懐に眠らせてある。村田への招待状だけは、先生の金では買わん、と決めていた。金貨が音を立てて転がり出るのを、真崎は一枚ずつ数えて、きっちり六ヶ月分で手を止めた。
商人の目が、欲に濁る。
「毎度あり。しかし旦那、あんたみたいな若い将校さんが、いったい誰の頭を吹き飛ばそうってんで?」
真崎はスコープを特注の桐箱に一本ずつ収めながら、口の端を上げた。
「人殺しの道具じゃない。一本は、ただの観察用だ」
「もう一本は」
「静かに隠居している年寄りを、もう一度荒野へ引きずり出すための、招待状だ」
*
上海の地下、高杉晋作の拠点。
真空管の青白い光が瞬く中で、真崎は大きな極東の地図を前に、高杉と向き合っていた。
「東京の軍務局に、合法的な大穴を開けるじゃと?」
高杉が、三味線の
「はい。この桐箱を東京へ送り届けて、向こうで人を動かすための金が要ります」
「ふむ。金なら用意してやる。わしがこの街で長年転がしてきた裏の金が、腐るほどあるからな」
高杉は事もなげに笑うと、背後の暗がりに声をかけた。
「アイリィン、出番じゃ」
暗がりの奥から、
「
「人使いが荒いわね、マスター」
愛玲は手袋をはめながら、くるりと真崎のほうへ向き直った。
「ねぇ、ユウキ。手数料は?」
(……なんだ、この女は。がめつい上に、いきなり下の名で呼びやがる。清の女というのは、日本の女とはこうも違うものか)
「……いきなり名で呼ぶな」
「じゃあ、大尉さん。手数料は?」
「送る額の三パーセント」
「十パーセント」
「銀行の電信の手数料なら、一パーセントもかからんはずだ。四パーセント」
「七パーセント」
(くそっ)
「……じゃあ、五パーセントだ」
「六パーセント。取引成立よ」
愛玲は、真崎が頷く前に手を差し出していた。握り返してから、真崎は胸の内で舌打ちした。
(こんなことなら、自分で銀行へ行けばよかった……いや、委任状だの、先生の印鑑だの、手続きが山ほど要るのか。くそっ、仕方ない)
「で、払いは?」
真崎は、空になった革袋を卓の上で逆さにしてみせた。スコープ二本で、半年分の俸給はきれいに消えている。
「……ツケにしておいてくれ」
「利子は高いわよ、ユウキ」
「だから名で――」
後ろの作業台で、井川が眼鏡を押し上げた。
「いやはや。あのお二人、相性がよろしいですねえ」
「面白い。寄席の掛け合い。以上」
黒石が、ヘッドホンを片耳だけずらして付け足した。三味線の陰では、高杉が肩を揺らしている。
「聞こえているぞ、お前ら」
真崎は咳払いをして、話を戻した。
「今日頼んで、東京にはいつ着く」
「夕方には。……お金はね、船より電線のほうが速いの」
そう言い残して、愛玲は風のように拠点を出ていった。
真崎は、机の上の桐箱に目を落とした。金は電線で、今日のうちに海を渡る。けれど、この一本のレンズだけは、船で運ぶしかない。
*
同じころ、赤道を目指して南へ下る一隻の貨客船の中にも、船でしか運べない荷があった。
南洋貿易の定期船の、一等客室。潮崎拓馬は冷えた白ワインを傾けながら、鍵をかけた部屋の床に置いた木箱を見下ろしていた。
表向きの身分は、南洋の居留民の安全を確かめに行く、外務省の視察官である。木箱のほうは、書類の上では新型の「海洋測量
(秋月少佐の書類仕事には、毎度、舌を巻く)
ありもしない商会を一晩で立ち上げ、海軍の検品をするりと抜けさせた、あの少佐の手際である。
潮崎はグラスを置き、木箱の蓋を開けた。
一つは、ドイツのドレーゲル社から裏の筋で手に入れた
もう一つは、灰色の粉を詰めたガラス瓶である。瓶の首に、上海の地下で見慣れた角ばった字の札が下がっていた。
――テルミット。一、詰メル。二、火ヲ点ケル。三、見ルナ。
「……井川にしては、上出来だ」
札を裏返すと、蟻のように小さな字で、もう一行あった。
――詳シクハ、別冊九十六頁ヲ見ヨ。
潮崎は札を元に戻し、蓋を閉めた。窓の外には、やがて彼が火を放つことになる南洋の海が、どこまでも平らに広がっていた。
*
帝都を離れた相模の海辺、
松林を抜ける潮風の中、別邸の縁側で、白髪の老人が古い村田銃の銃身を黙って磨いていた。
「旦那様。上海から、お荷物でございます」
使用人の老爺が、桐箱を一つと、電報を一枚、縁側に置いた。
「……真崎か」
村田は、電報を先に取った。カタカナが一行だけ並んでいる。
――チカヂカ チンタオニテ ジッショウノ キカイヲ エタシ マサキ
村田は、無骨な指で桐箱の紐を解き、蓋を開けた。
夏の陽を受けて、箱の中のカール・ツァイスのレンズが、吸い込まれるような深い青緑に光った。
「ほう……」
老人の喉の奥から、息が漏れた。
「鴨を持ってこい、と言うたんじゃがな」
村田はレンズを光に透かし、しばらく覗き込んでいた。
この春、辻堂の浜で、自分は若い大尉にモーゼルを押し戻して言った。誰かが計算を尽くして作ったものは、裏切らん、と。
その若造が、今度は鴨の代わりに、計算を尽くして磨いたガラスを寄越してきた。銃ではなく、目を。
「精神論に精神論で挑むな、実績を持ってこい、と言うたのも、わしじゃったな」
電報の「ジッショウ」の四文字を、村田はもう一度指でなぞった。
それから、口元に静かな、けれど獰猛な笑みが浮かぶ。久しく忘れていた、戦場へ向かう武人の顔だった。
「よかろう。今の腐りきった陸軍に風穴が開くというのなら、この老骨に鞭打ってやるか」
村田は桐箱の蓋を閉じ、立ち上がった。
「東京へ出る。支度をせい」
「今からでございますか。今朝の椋鳥は、いかがいたしましょう」
「帰ってから食う」
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