海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:吉田梅之助

22 / 111
第二十二話 招待状

 共同租界の裏通りに、陽の射さない骨董店がある。

 その前で、真崎勇気は足を止めた。

 

 薄汚れた軒先に、見覚えのある小さな影がしゃがんでいた。擦り切れた布靴に、泥のこびりついた爪先。十歳前後の痩せた少年――阿毛(アーマオ)だった。

 少年は真崎の顔を見た瞬間、目を丸くしたけれど、すぐに無表情に戻って、顎で店の奥をしゃくった。

 

「……また来たのか」

「また来た。今日は、道案内は要らん」

「なら、なんで止まった」

「お前がいたからだ」

 

 真崎が銀貨を一枚押し込むと、阿毛はそれをちらりと見て、何も言わずに走り去った。

 

  *

 

 奥の薄暗い部屋で、真崎は、硝煙とカビの匂いの染みついた椅子に腰を下ろした。

 目の前のビロードの布の上に、鈍く黒光りする金属の筒が二本、並んでいる。

 

「どうです、真崎の旦那。ドイツ本国から、表に出ない筋で流れてきた新品でさぁ」

 

 広東訛りの英語を操る闇の武器商人が、揉み手で笑った。

 カール・ツァイス社の、最新型の狙撃用光学照準器(スコープ)である。

 

 真崎は革手袋を外し、冷たい金属の手触りを確かめてから、接眼レンズを覗き込んだ。

 薄暗い部屋の中なのに、レンズの向こうには、恐ろしいほどくっきりした視界が広がっている。歪みが、一つもない。世界の一部を切り取って、手元へ引き寄せたようだった。

 

「いくらだ」

「一本で、日本の大尉さんの俸給の、ざっと三ヶ月分」

「二本もらう」

 

 真崎は、持参した革袋を卓の上で逆さにした。東京にいたころから、ほとんど手をつけずに貯めてきた俸給である。上海で先生に押しつけられた札束は、スーツ一着に使ったきり、懐に眠らせてある。村田への招待状だけは、先生の金では買わん、と決めていた。金貨が音を立てて転がり出るのを、真崎は一枚ずつ数えて、きっちり六ヶ月分で手を止めた。

 商人の目が、欲に濁る。

 

「毎度あり。しかし旦那、あんたみたいな若い将校さんが、いったい誰の頭を吹き飛ばそうってんで?」

 

 真崎はスコープを特注の桐箱に一本ずつ収めながら、口の端を上げた。

 

「人殺しの道具じゃない。一本は、ただの観察用だ」

「もう一本は」

「静かに隠居している年寄りを、もう一度荒野へ引きずり出すための、招待状だ」

 

  *

 

 上海の地下、高杉晋作の拠点。

 真空管の青白い光が瞬く中で、真崎は大きな極東の地図を前に、高杉と向き合っていた。

 

「東京の軍務局に、合法的な大穴を開けるじゃと?」

 

 高杉が、三味線の撥(ばち)を弄びながら、面白そうに片眉を上げた。

 

「はい。この桐箱を東京へ送り届けて、向こうで人を動かすための金が要ります」

「ふむ。金なら用意してやる。わしがこの街で長年転がしてきた裏の金が、腐るほどあるからな」

 

 高杉は事もなげに笑うと、背後の暗がりに声をかけた。

 

「アイリィン、出番じゃ」

 

 暗がりの奥から、愛玲(アイリィン)が姿を現した。今日は長衫ではなく、英国仕立ての洋装である。上海の表を泳ぐときの顔だった。

 

「横浜正金(よこはましょうきん)銀行の上海支店へ行け。東京の、いつもの口座へ、すぐに送れ」

「人使いが荒いわね、マスター」

 

 愛玲は手袋をはめながら、くるりと真崎のほうへ向き直った。

 

「ねぇ、ユウキ。手数料は?」

 

(……なんだ、この女は。がめつい上に、いきなり下の名で呼びやがる。清の女というのは、日本の女とはこうも違うものか)

 

「……いきなり名で呼ぶな」

「じゃあ、大尉さん。手数料は?」

「送る額の三パーセント」

「十パーセント」

「銀行の電信の手数料なら、一パーセントもかからんはずだ。四パーセント」

「七パーセント」

 

(くそっ)

 

「……じゃあ、五パーセントだ」

「六パーセント。取引成立よ」

 

 愛玲は、真崎が頷く前に手を差し出していた。握り返してから、真崎は胸の内で舌打ちした。

 

(こんなことなら、自分で銀行へ行けばよかった……いや、委任状だの、先生の印鑑だの、手続きが山ほど要るのか。くそっ、仕方ない)

 

「で、払いは?」

 

 真崎は、空になった革袋を卓の上で逆さにしてみせた。スコープ二本で、半年分の俸給はきれいに消えている。

 

「……ツケにしておいてくれ」

「利子は高いわよ、ユウキ」

「だから名で――」

 

 後ろの作業台で、井川が眼鏡を押し上げた。

 

「いやはや。あのお二人、相性がよろしいですねえ」

「面白い。寄席の掛け合い。以上」

 

 黒石が、ヘッドホンを片耳だけずらして付け足した。三味線の陰では、高杉が肩を揺らしている。

 

「聞こえているぞ、お前ら」

 

 真崎は咳払いをして、話を戻した。

 

「今日頼んで、東京にはいつ着く」

「夕方には。……お金はね、船より電線のほうが速いの」

 

 そう言い残して、愛玲は風のように拠点を出ていった。

 真崎は、机の上の桐箱に目を落とした。金は電線で、今日のうちに海を渡る。けれど、この一本のレンズだけは、船で運ぶしかない。

 

  *

 

 同じころ、赤道を目指して南へ下る一隻の貨客船の中にも、船でしか運べない荷があった。

 

 南洋貿易の定期船の、一等客室。潮崎拓馬は冷えた白ワインを傾けながら、鍵をかけた部屋の床に置いた木箱を見下ろしていた。

 表向きの身分は、南洋の居留民の安全を確かめに行く、外務省の視察官である。木箱のほうは、書類の上では新型の「海洋測量儀器(ぎき)」として、堂々と船に積まれていた。

 

(秋月少佐の書類仕事には、毎度、舌を巻く)

 

 ありもしない商会を一晩で立ち上げ、海軍の検品をするりと抜けさせた、あの少佐の手際である。

 

 潮崎はグラスを置き、木箱の蓋を開けた。

 一つは、ドイツのドレーゲル社から裏の筋で手に入れた循環式呼吸器(リブリーザー)で、海の中で泡を一つも出さずに潜るための道具だ。

 もう一つは、灰色の粉を詰めたガラス瓶である。瓶の首に、上海の地下で見慣れた角ばった字の札が下がっていた。

 

 ――テルミット。一、詰メル。二、火ヲ点ケル。三、見ルナ。

 

「……井川にしては、上出来だ」

 

 札を裏返すと、蟻のように小さな字で、もう一行あった。

 

 ――詳シクハ、別冊九十六頁ヲ見ヨ。

 

 潮崎は札を元に戻し、蓋を閉めた。窓の外には、やがて彼が火を放つことになる南洋の海が、どこまでも平らに広がっていた。

 

  *

 

 帝都を離れた相模の海辺、大磯(おおいそ)。

 松林を抜ける潮風の中、別邸の縁側で、白髪の老人が古い村田銃の銃身を黙って磨いていた。

 

 村田経芳(むらたつねよし)男爵、七十六歳。帝国陸軍の「火力の祖」と呼ばれ、退いた今も、軍の技術畑に隠然とした影響を残している。

 

「旦那様。上海から、お荷物でございます」

 

 使用人の老爺が、桐箱を一つと、電報を一枚、縁側に置いた。

 

「……真崎か」

 

 村田は、電報を先に取った。カタカナが一行だけ並んでいる。

 

 ――チカヂカ チンタオニテ ジッショウノ キカイヲ エタシ マサキ

 

 村田は、無骨な指で桐箱の紐を解き、蓋を開けた。

 夏の陽を受けて、箱の中のカール・ツァイスのレンズが、吸い込まれるような深い青緑に光った。

 

「ほう……」

 

 老人の喉の奥から、息が漏れた。

 

「鴨を持ってこい、と言うたんじゃがな」

 

 村田はレンズを光に透かし、しばらく覗き込んでいた。

 この春、辻堂の浜で、自分は若い大尉にモーゼルを押し戻して言った。誰かが計算を尽くして作ったものは、裏切らん、と。

 その若造が、今度は鴨の代わりに、計算を尽くして磨いたガラスを寄越してきた。銃ではなく、目を。

 

「精神論に精神論で挑むな、実績を持ってこい、と言うたのも、わしじゃったな」

 

 電報の「ジッショウ」の四文字を、村田はもう一度指でなぞった。

 それから、口元に静かな、けれど獰猛な笑みが浮かぶ。久しく忘れていた、戦場へ向かう武人の顔だった。

 

「よかろう。今の腐りきった陸軍に風穴が開くというのなら、この老骨に鞭打ってやるか」

 

 村田は桐箱の蓋を閉じ、立ち上がった。

 

「東京へ出る。支度をせい」

「今からでございますか。今朝の椋鳥は、いかがいたしましょう」

「帰ってから食う」




最後までお読みいただきありがとうございます。
★投票・ブックマークいただけると今後の執筆においてこれ以上ない大きな励みになります。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。