海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:yoshiume

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第二十三話 招待状

 魔都・上海の表通りが、欧州開戦の狂熱に浮かされ、英独の資本が互いに牙を剥き合っている裏側で、長江の泥水のように濁った裏路地には、いつの時代も変わらぬ非合法の静寂が広がっていた。

 

 陽の光すら届かない、共同租界の裏通りに潜む古びた骨董店。

 その前で、真崎勇気は足を止めた。

 

 薄汚れた軒先に、見覚えのある小さな影があった。

 擦り切れた布靴。泥のこびりついた爪先。十歳前後の痩せた少年――阿毛(アーマオ)だった。

 

 少年は真崎の顔を見た瞬間、一瞬だけ目を丸くした。

 だがすぐに無表情に戻り、顎をしゃくって店の奥を示した。

 

「……また来たのか」

 

 片言の日本語が、路地の湿気に溶けた。

 真崎は無言で銀貨を一枚、少年の手に押し込んだ。

 阿毛はそれをちらりと見てから、何も言わずに走り去った。

 

 奥の薄暗い部屋で、真崎は硝煙とカビの匂いが染み付いた椅子に腰掛け、目の前のビロードの布に置かれた「それ」を見つめていた。

 

「どうです、真崎の旦那。ドイツ本国から極秘ルートで流れてきた、まさに新品の極上品でさぁ」

 

 胡散臭い広東語訛りの英語を操る闇武器商人が、揉み手で笑う。

 彼が示したのは、鈍い黒光りを放つ精緻な金属の筒――ドイツ帝国が世界に誇る光学機器メーカー、カール・ツァイス社製の最新型狙撃用光学照準器(スコープ)であった。

 

 真崎は革手袋を外した手で、その冷たい金属の感触を確かめ、そっと接眼レンズを覗き込んだ。

 薄暗い部屋の中であるにもかかわらず、レンズの向こう側には、恐ろしいまでにクリアな視界が広がっていた。

 歪み一つない。まるで世界を切り取って、自らの手元に引き寄せたかのようだった。

 

 精緻なガラスの曲面研磨と、光の屈折を完璧に計算し尽くした光学技術の結晶。

 この小さな筒一つで、日本の首都に立派な家が一軒建つほどの価値がある。

 

「確かに、素晴らしい品だ。二つ頂こう」

 

 真崎は、持参した革鞄から、ずしりと重い金貨の束を無造作に卓上へ放り出した。商人の目が欲望に濁る。

 

「毎度あり。しかし旦那、あんたのような若手の将校さんが、一体誰の頭を吹き飛ばそうってんで?」

 

 商人の問いに、真崎はスコープを丁寧に特注の桐箱へ収めながら、ふっと口角を上げた。

 

「人殺しの道具ではありませんよ。一つはただの観察用。もう一つは、静かな余生を送る隠居人を、再び荒野へ引きずり出すための『招待状』です」

 

 

  *

 

 

 上海の地下、高杉晋作の拠点。

 真空管の青白い光が瞬く中、真崎は巨大な極東地図を前に、高杉と向き合っていた。

 

「東京の軍務局に、合法的な大穴を開けるじゃと?」

 

 高杉が、三味線の(ばち)を弄びながら面白そうに片眉を上げる。

 

「ええ。この誠意を東京へ送り届け、向こうで人を動かすための工作資金が要ります」

 

 真崎は、先ほど手に入れたばかりの桐箱を撫でた。

 

「ふむ。カネなら用意してやる。わしが長年、この魔都で転がしてきた裏金が腐るほどあるからな」

 

 高杉は事もなげに笑うと、背後の暗がりに声をかけた。

 

「アイリィン、出番じゃ」

 

 闇の中から、英国仕込みの洗練された西洋淑女の装いに身を包んだ、美しい茶髪の女性が姿を現した。

 高杉の手足として上海の表舞台を泳ぐ、有能なエージェントである。

 

横浜正金(よこはましょうきん)銀行の上海支店へ向かいなさい。東京の『指定口座』へ、即座に送金の手配を」

「人使いが荒いわね……まあいいわ。私の口座への莫大な仲介手数料も、忘れないでちょうだいね、マスター」

 

 愛玲《アイリィン》は優雅に一礼すると、風のように拠点を去っていった。

 

 当時の国際金融において、海を隔てた上海から東京へ、いかにして大金を「即座に」送ることができたのか。

 現金そのものを船で運ぶわけではない。電信送金(テレグラフィック・トランスファー)(T/T)という仕組みは、一九一四年のこの時代、すでに確立されていた。

 

 銀行員は、顧客からの送金依頼を受けると、分厚い「銀行間暗号コードブック」を開く。そこには、金額や口座番号、送金目的が、無意味なアルファベットの羅列に変換されるよう定められている。この暗号化された電文が、海底の闇を這うケーブルを通じて打電されると、数時間後には東京の銀行で解読され、帳簿上の数字が書き換えられる。

 

 まさに、資本が実体を捨て、電気信号という魔法の粉となって一瞬で海を越える「近代的魔術」であった。

 高杉はこの巨大なインフラを、自らの神経網のように使いこなしていた。

 

 

  *

 

 

 一方、赤道を目指して南下する一隻の大型貨客船があった。日本の南洋貿易株式会社が運航する定期船である。

 

 その最上甲板にある優雅な一等客室で、潮崎中尉は極上の冷えた白ワインを傾けながら、鍵をかけた室内の床に鎮座する「厳重な木箱」を見下ろしていた。

 

 表向き、彼の身分は「南洋居留民の安全確認」を担う海軍の公式な視察官である。

 そしてこの木箱は、書類上は新型の「海洋測量儀器(ぎき)」として、堂々と船載を許された代物だ。

 

(秋月少佐の書類仕事には、毎度ながら舌を巻く)

 

 潮崎は、わずかに口角を上げた。

 ありもしない「幽霊商会」を一夜で立ち上げ、海軍の調達部門の検品をいともたやすく潜り抜けた、あの少佐の手腕。ほとんど魔法の域だ。

 

 潮崎はグラスを置くと、木箱の蓋を静かに開けた。

 中には、今回の任務――ドイツの暗号機奪取――を成功させるための「鍵」が収められていた。

 

 一つは、ドイツのドレーゲル社から極秘裏に入手した「循環式呼吸器(リブリーザー)」。

 海面に気泡を出すことなく、完全に気配を消して敵拠点へ潜入するための禁断の装備。

 

 一つは、灰色の不気味な粉末が詰まった硝子瓶。「テルミット粉末」である。

 数千度の熱で、いかなる強固な鋼鉄の金庫も飴細工のように溶かし切る。

 

「秋月少佐が描く大絵図。その最初の泥仕事を、しくじるわけにはいかん」

 

 潮崎は冷たい鉄の壁に背を預け、ゆっくりと目を閉じた。

 窓の外では、やがて彼が地獄の火を放つことになる青い南洋の海が、どこまでも平和に広がっていた。

 

 

  *

 

 

 同じ頃。帝都・東京の喧騒を離れた相模の海辺。

 潮風が松林を抜ける大磯(おおいそ)の別邸では、縁側で古びた村田銃の銃身を無言で磨いていた老人の元に、書生が一つの桐箱と、短い電報の束を持ってきた。

 

 老人の名は、村田経芳(むらたつねよし)

 帝国陸軍の伝説的な銃器開発者であり、退役した今も軍の技術畑に隠然たる影響力を持つ大物である。

 

「……真崎か」

 

 村田は、深い皺に囲まれた鋭い眼光で、届けられた桐箱を見つめた。

 電報には、ただ一言、「近々、青島(チンタオ)にて実証の機会を得たく候」とだけ記されていた。

 

 村田は無骨な指で桐箱の紐を解き、蓋を開けた。

 途端に、夏の陽光を反射して、箱の中の「カール・ツァイス」のレンズが、吸い込まれるような深い青緑色の輝きを放った。

 

「ほう……」

 

 老人の喉の奥から、感嘆の息が漏れた。

 

 かつてこの場所で、若き真崎が持参したのはモーゼルの拳銃であった。「お前が使え」と突き返したあの拳銃を、今度は光学技術の粋という「物理の結晶」に替えて突きつけてきた。

 銃ではなく、目を寄越してきたのだ。

 

「真崎め……わざわざこんな礼を尽くしてきよったか」

 

 村田は、ツァイスの冷たい金属の感触を慈しむように撫でると、口元に静かな、しかし獰猛な笑みを浮かべた。

 それは、久しく忘れていた、戦場に向かう武人の顔であった。

 

「よかろう。今の腐りきった陸軍に風穴が開くというのなら、この老骨に鞭打って、一肌脱いでやるか」

 

 その夜。虫の音が響く静寂の中、村田経芳は陸軍省の中枢を動かすべく、漆黒の外套を羽織り、大磯駅へ向かう馬車へと乗り込んだ。




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