海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:吉田梅之助

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第二十三話 南洋の石貨

「素晴らしいワインです。赤道直下のこの島で、これほど見事に冷えたリースリングを味わえるとは」

 

 潮崎拓馬(しおざきたくま)は、薄いグラスを傾けながら、流暢な高地ドイツ語(ホッホ・ドイチュ)で言った。

 

 大正三年八月十一日、夜。ミクロネシアの西の端、ドイツ領ヤップ島。

 総督府官邸の広いテラスには真っ白なテーブルクロスが掛けられ、銀の燭台の火が、南国の生ぬるい夜風に揺れている。

 

 庭先には、差し渡し一メートルを超える円盤の形をした石――ヤップ島の昔からの貨幣「フェイ(石貨(せっか))」が、戦利品のように無造作に飾られていた。島の人々が何代もかけて刻んできた「価値」を、ドイツ帝国は庭の置物にしている。

 

 潮崎は、仕立ての良い真っ白な麻のスーツを着ていた。居留民の保護と引き揚げの交渉に来た、いかにも温厚な外務省の役人の姿である。

 その白い布地の下、左の脇腹には、刃が光らないよう黒く塗りつぶした軍用ナイフが、冷たく張りついていた。

 

「喜んでもらえて光栄だ、潮崎視察官。官邸の地下に氷室を設けてあるのだよ。本国からの補給船は数ヶ月に一度しか来ない。それを待つ間、文明的な暮らしを保つための、ささやかな抵抗さ」

 

 テーブルの向かいで、ヤップ島の行政官ケッセルが、形の良い顎を撫でて微笑んだ。

 

 給仕が、銀の皿を手際よく並べていく。瓶詰めのザワークラウトに塩漬けの豚、缶詰のソーセージ。主菜は、ヤシガニの香草焼きで、付け合わせに島で採れたヤムイモが添えてある。

 

「本国のジャガイモが恋しいが、このヤムイモのねっとりした舌ざわりも悪くない。……視察官。帝国は、こうして土地のものを、自分の胃袋に合わせて飲み込んでいくのだよ。庭の石貨も同じだ。彼らの値打ちを、我々の決まりで治める。それが文明というものだ」

「なるほど。島の巡警を使った見事な治安も、その文明の恩恵というわけですね」

「しかし、驚くべき語学力だ」

 

 ケッセルは、唐突に話を変えて、潮崎の目を見据えた。

 

「ベルリンに留学の経験がおありで?」

「ハイデルベルクに少々。書物を読む程度のものです」

「謙遜を。……君の発音は、外交官というより、プロイセンの士官学校のそれに近い」

 

 ケッセルの碧い瞳が、燭台の火を映して、すっと細くなった。

 潮崎はグラスを置き、薄く笑った。

 

「光栄な褒め言葉として、受け取っておきましょう」

 

 ケッセルは、目の前の日本人の青年が、ただの文官ではないと感じ取っていた。動きに無駄がなく、この殺人的な湿気の中で、汗を一滴もかいていない。よほど鍛えた者の体である。

 

「単刀直入に聞こう。貴国は、英国の同盟国として、我々ドイツ帝国に牙を剥くつもりか」

「我々の関心は、居留民の安全な退去だけです。大国同士の争いに、極東の島国が口を挟む余裕などありません」

「ならば良い」

 

 ケッセルは冷えたワインを一口飲み、何気ない調子で続けた。

 

「数日前、近くの漁師から妙な報告があってね。海の上に、鉄の鯨を見たそうだ」

 

 潮崎の指先が、ほんの数ミリだけ止まった。

 

「……潜水艦、ですか」

「ただの見間違いだろう。だが、時局が時局だ。念のため、無線局と陸揚局の警備を変えた」

 

 ケッセルが背後へ目をやると、部屋の薄暗い隅から、大きな影が一つ、音もなく前へ出た。

 

「海兵隊のシュミットだ」

 

 身の丈は百八十五センチほどで、目方は百キロ近いだろう。真っ白な熱帯用の軍装がはち切れそうな胸板と、丸太のような首をしている。

 潮崎が何より用心したのは、その静けさだった。これだけの図体なのに、一歩踏み出したときの足音がほとんどない。重心の動きを、完全に手の内に入れている。

 

 シュミットは一言も発さずに、氷のような青い目で潮崎の顔をひと撫でし、無表情のまま形だけの敬礼をした。腰には、銃身の長いルガーが収まっている。

 

「……頼もしい護衛ですね」

 

 男は、食卓につかなかった。給仕が椅子を勧めても、腰を下ろさない。潮崎の右斜め後ろ、壁を背にした位置に立ったまま、動かなかった。

 偶然の立ち位置ではない。灯りが逆光になって、潮崎からはシュミットの顔が読みにくい。向こうからは、食卓の全員の顔と手元が見渡せる。撃つ線も通っている。

 

(完全に、俺を的として見ている)

 

 潮崎は、ヤシガニの身を丁寧に口へ運んだ。香草がほのかに立つ、淡くて上等な甘みが舌に広がる。旨い。けれど、その味を楽しむ余裕は、頭のどこにも残っていなかった。

 

 シュミットが一度だけ、潮崎の左の脇腹に目を落とす。

 一秒にも満たない一瞬だったのに、その目は、白い麻を透かして、下に潜む金属の冷たさを確かめようとしていた。

 

(気づいているのか。それとも、全員に同じ目を向けているのか)

 

 見分けがつかないのが、何より厄介だった。潮崎は胸の中で、この無口な大男を、いちばん用心すべき相手に格上げした。

 

「島の巡警は下げて、正規の海兵隊を置いた。機関銃座も二つ増やしてある。……ネズミ一匹、あの鉄塔には近づけんよ」

 

(……なるほど。なら、残る道は一つしかない)

 

「それは心強い。治安が保たれれば、居留民も安心いたします。行政官閣下の素早いご判断に、感謝いたします」

「分かってもらえて嬉しいよ、視察官」

 

 互いに作った顔のまま、晩餐は静かに終わった。

 

  *

 

 官邸を辞して、港へ下る暗い道の途中で、潮崎は一軒の商館の軒先に寄った。

 南洋貿易の、日本人の出張所である。雨戸の隙間から灯りが漏れていて、中で、日焼けした小柄な男が帳面をつけていた。

 

「潮崎さん。晩餐は、いかがでした」

「ヤシガニが旨かった。それと、でかいドイツ人が一人、増えていた」

「シュミットですな。先週、本国から来た下士官です。あれが来てから、島の巡警は海の見張りに回されました」

 

 男は帳面を閉じ、声を落とした。

 

「局舎の裏、海に面した崖の下に、海底ケーブルの点検用のハッチがあります。潮が満ちれば水に沈む場所ですが、あそこからなら、通信室の床下へ直に出られるはずです」

「確かか」

「島の大工から聞きました。床を張ったのは、そいつですから」

 

 潮崎は頷き、礼を言って背を向けかけた。

 男が、その背中に声をかけた。

 

「それと。上海の御隠居に、よろしゅう」

 

 潮崎は、足を止めた。振り返ると、男はもう帳面を開き直していた。

 

(……あの人の根は、赤道まで伸びているのか)

 

  *

 

 ――深夜。

 密林の暗がりに踏み込んだ途端、容赦のない熱帯の空気が、潮崎を包み込んだ。

 

 雨期のただ中で、さっきのスコールが残した湿気が地面から立ち昇り、麻のスーツがみるみる重く肌にへばりついていく。

 

 熟れて落ちた果物の甘い腐った匂いが、官邸で嗅いだリースリングの香りを、あっさりと吹き飛ばしていく。顔の周りでは、無数の蚊が羽音を立てていた。

 

 木々の隙間から、夜空に向かってそびえ立つ鉄の塔が見えた。

 高さ百メートルに及ぶ、大出力の無線の鉄塔である。その足元、海岸の崖の下に、海底ケーブルの陸揚局が、要塞のような口を開けていた。

 

 潮崎は身を潜め、夜間用の大きな双眼鏡で局舎の周りをうかがう。

 ケッセルの言葉は、はったりではなかった。サーチライトの光が交差する中を、真っ白な熱帯用の軍装の兵が、この湿気の中でも汗ひとつかかずに、決まった歩幅で巡回している。

 ゼーバタリオン――ドイツ帝国の、正規の海兵隊だ。腰には、さっきの晩餐でシュミットが提げていたのと同じルガーが収まっている。

 

 陸からは、完全に塞がれた。

 潮崎は、島の裏手にある、人気のないマングローブの入り江へ向かった。

 

 膝まで沈む泥と、幾重にも絡み合うマングローブの根のあいだを、潮崎は音を立てないよう一歩ずつ体重を移しながら進んだ。足元すれすれを、ウミヘビか何かの細長い影が横切っていったが、足は止めなかった。

 

 泥だらけになった真っ白なスーツを、潮崎は無造作に脱ぎ捨てた。ネクタイを外し、シャツを引き剥がす。

 下から、体にぴったり張りついた、真っ黒なゴムの潜水服が現れる。

 

 白い麻が、泥の上に落ちた。

 

 潮崎は、入り江の泥に隠しておいた黒い防水袋を引き寄せ、中からリブリーザーを取り出した。吐いた息の二酸化炭素をソーダ石灰で吸い取り、泡を一つも出さずに潜るための道具である。

 

 酸素のボンベのバルブを開く。

 シュー、と、ガスがかすかに流れ出る音がした。

 吸い口をくわえて、深く息を吸う。ゴムと薬品の、味気ない匂いが肺の奥まで満ちていく。

 

 水際へ歩み寄り、腰まで黒い海に浸かると、蚊の羽音も、腐った甘い匂いも、だんだん遠のいていった。

 

(……異常なし。潜る)

 

 さらに深く息を吸い込んだ、そのときだった。

 

 ――チリッ。

 

 呼吸が巡る音の中に、金属同士が擦れ合うような、かすかで乾いた音が混じった。

 

 潮崎は、動きを止めた。

 循環のバルブがおかしいのか、ソーダ石灰が詰まりかけているのか。水の中で呼吸器が止まれば、誰にも知られずに溺れ死ぬだけだ。陸で待ち構えるルガーや機関銃より、背中に負った不完全な機械のほうが、よほど容赦のない死神だった。

 

 潮崎はバルブに手をやったまま、数秒、暗い水面を見つめた。

 引き返すという道は、とうに海へ捨ててきている。

 

 潮崎は深く顎を引き、泡を一粒も残さずに、暗い緑の深みへ身を沈めた。




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