海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:yoshiume

24 / 29
第二十四話 青島への切符

「……権藤(ごんどう)。貴様、顔色が良くないな」

 

 村田経芳(むらたつねよし)の一言が、奥座敷の静寂に鑿を打ち込んだ。

 

 帝都・東京。大正三年(一九一四年)八月中旬。

 高級料亭「星ヶ岡茶寮(ほしがおかさりょう)」の奥座敷には、香の煙と、戦場を渡り歩いた男たち特有の硝煙の記憶が漂っていた。

 

 上座に泰然と座るのは、陸軍の火器系統に絶大な影響力を持つ老将・村田経芳。

 正面に座る陸軍省軍務局軍事課長・権藤大佐の眉間には、消し去ることのできない深い影が刻まれていた。

 

「……お恥ずかしい限りです、閣下」

 

 権藤の声は、乾いた砂のようにかすれていた。

 

「二個師団増設問題に絡む派閥抗争の裏工作費が、不肖、私の個人負担となりまして。債権者どもが、軍務局の門前まで押し寄せる始末です。もはや……切腹で事態を収拾するほかないかと」

 

 村田は答えず、冷めた盃をゆっくりと弄んだ。

 

 次の動きが来たのは、それから数秒後だった。

 老将は傍らに置いた扇子を、何気なく権藤の方へと押しやった。竹の骨の下に、一通の分厚い封筒が音もなく忍ばされている。

 

「上海の知人から届いた。……余計な心配は、もう要らぬ」

 

 権藤の手が封筒を引き寄せた。

 

 中身を確認した瞬間、その手が止まった。

 横浜正金(よこはましょうきん)銀行から振り出された巨額の小切手。それだけなら「私財による救済」で説明がついた。だが、一緒に入っていた数枚の書状と写真が、権藤の背筋を氷点下まで凍らせた。

 

 権藤を借金地獄へ追い込んだ政敵たちと、列強資本との癒着を証明する裏帳簿の写し。密会の証拠写真。

 どちらも、鮮明すぎるほど鮮明だった。

 

「……これは」

「小切手で表向きの債務を清算しろ。そして、その材料で貴様をハメた連中の喉元を、力任せに踏みつけろ」

 

 村田は盃を置き、淡々と続けた。

 

「カネだけではネズミはまた戻ってくる。だが、喉元を潰された獣は二度と牙を剥かん。上海の老人は、貴様に金と力の両方を授けてくれたのだ」

 

 権藤はしばらく、書類を膝の上に置いたまま動かなかった。

 

(この情報の質量は……)

 

 三宅坂で起きているすべての権力闘争が、海を越えた上海の老人の掌の上で完璧に制御されている。

 その事実が、恐怖よりもはるかに大きな戦慄として、権藤の全身を貫いた。

 

「……閣下。このご恩、いかようにお返しすればよいか」

「恩を売ったつもりはない」

 

 村田は首を振った。

 

「借金に追われた軍人に、国の将来を語る資格はないと思うただけだ。もし本当に返したいと言うのなら……真崎という男を知っているな」

「……上海へ送られた、あの異端児ですか。火力主義の上申書を乱発し、上層部の不興を買った」

「あ奴は、今の陸軍で唯一、物理法則を理解している男だ。だが惜しいかな、正規の師団として青島《チンタオ》へ送り込んでも、精神論の肥溜めに沈められるだけだ」

 

 村田はゆっくりと権藤の顔を正面から見据えた。

 

「誰かが最前線で、三宅坂の連中が見たくない現実を正確に記録し、叩きつける必要がある。正規の指揮系統に縛られず、純粋に近代戦の実態だけを収集できる立場……。だが、そんな都合のいい座が、今の硬直した陸軍にあるはずもないか……」

 

 権藤はハッとして息を呑んだ。

 村田は対価を求めているのではない。腐りかけていた自分に向かって、「貴様にしか開けられない扉がある」と、静かに問いかけているのだ。

 

 胸の奥で、冷え切っていた軍人の矜持が、静かに熱を帯び始めた。

 

「……閣下。一つだけ、手がございます」

 

 権藤の背筋が、自然と伸びた。

 

「陸軍省直属の『特命観戦武官』という制度です。正規の師団から完全に独立し、純粋な視察と記録のみを目的とする特命の座。平時では埃を被っておりますが……私の権限であれば、今すぐこれを引き出せます」

「手配できるか」

「至急、陸軍大臣の公印を仰ぎ、真崎勇気の名で官記を発行いたします」

 

 権藤は深々と頭を下げた。

 今度は、卑屈さの微塵もない、引き締まった軍人の顔だった。

 

「これが、私を絶望から救い出してくださった閣下への、せめてもの返答であります」

 

 村田は小さく頷き、冷めた盃を静かに一口飲んだ。

 それだけで、十分だった。

 

 

  *

 

 

 翌週。真崎は陸軍施設に顔を出した。

 田辺武人(たなべたけひと)少佐は、珍しく新聞を脇に置いて真崎を待っていた。

 

「真崎。座れ」

 

 声がいつもと違った。事務的な雑用を言いつける声ではなく、人間の声だった。

 

「お前の青島行きの辞令が下った。特命観戦武官の命だ」

「承知いたしました」

「……うむ」

 

 田辺は短く頷き、懐から折り畳んだ紙を取り出した。

 

「キイチから預かった。あいつの字は相変わらず汚いが、まあ読め」

 

 神林毅一郎(かんばやしきいちろう)の名があった。走り書きの文字でこう記されていた。

 

『田辺へ。真崎のことを頼む。あ奴が東京で上層部相手に牙を剥いていたのは、お前も知っているな? 青臭いにも程があるが……未来の陸軍には、ああいう手合いも必要だ。せいぜい頑張れ、と伝えておいてくれ』

 

「神林局長が……」

「同期なんだ、わしとあいつは」

 

 田辺は照れたように鼻を鳴らし、新聞を広げた。

 

「ほら、さっさと行け。欧州情勢の分析レポートはわしがやっておく」

 

 真崎は深く頭を下げた。

 田辺はすでに紙面に目を落としていたが、その口元がわずかに緩んでいた。

 

 

  *

 

 

 一九一四年八月十五日。夜。上海。

 真崎は地下室の隅で、出立の荷物を黙々と整理した。

 

 上海へ来た時のリネンの背広はもう着ない。

 代わりに畳んだのは、砂塵に耐えられる丈夫な野戦外套と、替えの軍靴。

 

 それから、桐箱に収めたカール・ツァイス社製のスコープ。

 最前線で使う「目」だ。白兵突撃という名の狂気が、要塞の機関銃の前でいかに無力かを、このレンズで余すことなく記録する。

 

 最後に、乃木大将の隠し遺書の写し。

 これだけは、胸ポケットに入れる。青島で怒りが冷えそうになった時、取り出して読む。

 

 机の上には、秋月へ書きかけた手紙がある。

 「祝言の頃には帰っている」と書いて、止まっていた。

 

 真崎はその紙を一度手に取り、それから静かに畳んで懐へ収めた。

 書き続けても、出す頃には状況が変わっている。それよりも、本物の祝いの言葉を、生きて帰った後に呉で直接言えばいい。

 

(生きて帰れれば、の話だが)

 

 苦笑が、一瞬だけ口元に浮かんだ。

 上海の夜気は、まだ重く蒸していた。

 

 同じ日、帝都・東京では、日本政府がドイツ帝国に対し、膠州湾(こうしゅうわん)租借地の無条件還付を求める最後通牒を発していた。

 猶予は一週間。外交の言葉が尽きれば、次は砲弾が語る。

 

 翌朝。真崎はその足で高杉の拠点へ向かった。

 高杉は三味線の撥を置き、紫煙を吐いた。

 

「……最前線で見たものをすべて記録してこい。白兵突撃という狂気が、砲弾の物理の前でいかに無力かを、数字で証明する。それが、いずれ西の大陸へ陸軍を引きずり出すための、最初の楔となる」

「……命を持って、行って参ります」

「阿呆。命より証拠の方が大事じゃ」

 

 高杉の目に、七十五年分の古い炎が燃えていた。




少しだけ種明かしを。
本話末尾の「最後通牒」は史実です。一九一四年八月十五日、日本政府はドイツ帝国に対し、膠州湾租借地の無条件返還と東洋海面からの軍艦退去を要求。期限は二十三日正午。ドイツ側が無視したため、日本は八月二十三日に宣戦を布告しました。
真崎が荷物を整えていたその夜、東京では本当にこの電報が打たれていました。

※続きは明日19:40に更新予定です。
★投票・ブックマークいただけると今後の執筆においてこれ以上ない大きな励みになります。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。