海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:yoshiume
「……
帝都・東京。大正三年(一九一四年)八月中旬。
高級料亭「
上座に泰然と座るのは、陸軍の火器系統に絶大な影響力を持つ老将・村田経芳。
正面に座る陸軍省軍務局軍事課長・権藤大佐の眉間には、消し去ることのできない深い影が刻まれていた。
「……お恥ずかしい限りです、閣下」
権藤の声は、乾いた砂のようにかすれていた。
「二個師団増設問題に絡む派閥抗争の裏工作費が、不肖、私の個人負担となりまして。債権者どもが、軍務局の門前まで押し寄せる始末です。もはや……切腹で事態を収拾するほかないかと」
村田は答えず、冷めた盃をゆっくりと弄んだ。
次の動きが来たのは、それから数秒後だった。
老将は傍らに置いた扇子を、何気なく権藤の方へと押しやった。竹の骨の下に、一通の分厚い封筒が音もなく忍ばされている。
「上海の知人から届いた。……余計な心配は、もう要らぬ」
権藤の手が封筒を引き寄せた。
中身を確認した瞬間、その手が止まった。
権藤を借金地獄へ追い込んだ政敵たちと、列強資本との癒着を証明する裏帳簿の写し。密会の証拠写真。
どちらも、鮮明すぎるほど鮮明だった。
「……これは」
「小切手で表向きの債務を清算しろ。そして、その材料で貴様をハメた連中の喉元を、力任せに踏みつけろ」
村田は盃を置き、淡々と続けた。
「カネだけではネズミはまた戻ってくる。だが、喉元を潰された獣は二度と牙を剥かん。上海の老人は、貴様に金と力の両方を授けてくれたのだ」
権藤はしばらく、書類を膝の上に置いたまま動かなかった。
(この情報の質量は……)
三宅坂で起きているすべての権力闘争が、海を越えた上海の老人の掌の上で完璧に制御されている。
その事実が、恐怖よりもはるかに大きな戦慄として、権藤の全身を貫いた。
「……閣下。このご恩、いかようにお返しすればよいか」
「恩を売ったつもりはない」
村田は首を振った。
「借金に追われた軍人に、国の将来を語る資格はないと思うただけだ。もし本当に返したいと言うのなら……真崎という男を知っているな」
「……上海へ送られた、あの異端児ですか。火力主義の上申書を乱発し、上層部の不興を買った」
「あ奴は、今の陸軍で唯一、物理法則を理解している男だ。だが惜しいかな、正規の師団として青島《チンタオ》へ送り込んでも、精神論の肥溜めに沈められるだけだ」
村田はゆっくりと権藤の顔を正面から見据えた。
「誰かが最前線で、三宅坂の連中が見たくない現実を正確に記録し、叩きつける必要がある。正規の指揮系統に縛られず、純粋に近代戦の実態だけを収集できる立場……。だが、そんな都合のいい座が、今の硬直した陸軍にあるはずもないか……」
権藤はハッとして息を呑んだ。
村田は対価を求めているのではない。腐りかけていた自分に向かって、「貴様にしか開けられない扉がある」と、静かに問いかけているのだ。
胸の奥で、冷え切っていた軍人の矜持が、静かに熱を帯び始めた。
「……閣下。一つだけ、手がございます」
権藤の背筋が、自然と伸びた。
「陸軍省直属の『特命観戦武官』という制度です。正規の師団から完全に独立し、純粋な視察と記録のみを目的とする特命の座。平時では埃を被っておりますが……私の権限であれば、今すぐこれを引き出せます」
「手配できるか」
「至急、陸軍大臣の公印を仰ぎ、真崎勇気の名で官記を発行いたします」
権藤は深々と頭を下げた。
今度は、卑屈さの微塵もない、引き締まった軍人の顔だった。
「これが、私を絶望から救い出してくださった閣下への、せめてもの返答であります」
村田は小さく頷き、冷めた盃を静かに一口飲んだ。
それだけで、十分だった。
*
翌週。真崎は陸軍施設に顔を出した。
「真崎。座れ」
声がいつもと違った。事務的な雑用を言いつける声ではなく、人間の声だった。
「お前の青島行きの辞令が下った。特命観戦武官の命だ」
「承知いたしました」
「……うむ」
田辺は短く頷き、懐から折り畳んだ紙を取り出した。
「キイチから預かった。あいつの字は相変わらず汚いが、まあ読め」
『田辺へ。真崎のことを頼む。あ奴が東京で上層部相手に牙を剥いていたのは、お前も知っているな? 青臭いにも程があるが……未来の陸軍には、ああいう手合いも必要だ。せいぜい頑張れ、と伝えておいてくれ』
「神林局長が……」
「同期なんだ、わしとあいつは」
田辺は照れたように鼻を鳴らし、新聞を広げた。
「ほら、さっさと行け。欧州情勢の分析レポートはわしがやっておく」
真崎は深く頭を下げた。
田辺はすでに紙面に目を落としていたが、その口元がわずかに緩んでいた。
*
一九一四年八月十五日。夜。上海。
真崎は地下室の隅で、出立の荷物を黙々と整理した。
上海へ来た時のリネンの背広はもう着ない。
代わりに畳んだのは、砂塵に耐えられる丈夫な野戦外套と、替えの軍靴。
それから、桐箱に収めたカール・ツァイス社製のスコープ。
最前線で使う「目」だ。白兵突撃という名の狂気が、要塞の機関銃の前でいかに無力かを、このレンズで余すことなく記録する。
最後に、乃木大将の隠し遺書の写し。
これだけは、胸ポケットに入れる。青島で怒りが冷えそうになった時、取り出して読む。
机の上には、秋月へ書きかけた手紙がある。
「祝言の頃には帰っている」と書いて、止まっていた。
真崎はその紙を一度手に取り、それから静かに畳んで懐へ収めた。
書き続けても、出す頃には状況が変わっている。それよりも、本物の祝いの言葉を、生きて帰った後に呉で直接言えばいい。
(生きて帰れれば、の話だが)
苦笑が、一瞬だけ口元に浮かんだ。
上海の夜気は、まだ重く蒸していた。
同じ日、帝都・東京では、日本政府がドイツ帝国に対し、
猶予は一週間。外交の言葉が尽きれば、次は砲弾が語る。
翌朝。真崎はその足で高杉の拠点へ向かった。
高杉は三味線の撥を置き、紫煙を吐いた。
「……最前線で見たものをすべて記録してこい。白兵突撃という狂気が、砲弾の物理の前でいかに無力かを、数字で証明する。それが、いずれ西の大陸へ陸軍を引きずり出すための、最初の楔となる」
「……命を持って、行って参ります」
「阿呆。命より証拠の方が大事じゃ」
高杉の目に、七十五年分の古い炎が燃えていた。
少しだけ種明かしを。
本話末尾の「最後通牒」は史実です。一九一四年八月十五日、日本政府はドイツ帝国に対し、膠州湾租借地の無条件返還と東洋海面からの軍艦退去を要求。期限は二十三日正午。ドイツ側が無視したため、日本は八月二十三日に宣戦を布告しました。
真崎が荷物を整えていたその夜、東京では本当にこの電報が打たれていました。
※続きは明日19:40に更新予定です。
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