海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
「……やってられないな。こんな蒸し暑い夜に、海の見張りだなんて」
局舎の裏、崖の上の見張り小屋で、島の巡警が二人、ヤシの葉で巻いた粗末な煙草を吹かしていた。
若いほうが、まとわりつく湿気を手で払いながら、愚痴をこぼした。
「我慢しろ。本国から来た、あのシュミットとかいう下士官のせいだ。あいつらは人間じゃない。プロイセンの機械だ」
年かさのほうが、背後の局舎を忌々しげに振り返った。
「大方、本国から叱られるのが怖いんだろうさ。こんな真っ暗な海に、サメとウミヘビのほかに、誰が近づくって言うんだ。……火を貸してくれ」
二人は星を見上げて、紫の煙を吐いた。
崖の下の海は、泡ひとつ立てずに黒い。
*
二人が背にしている局舎の中枢――通信室は、外の熱帯夜とはまるで違う、張りつめた空気に満ちていた。
オゾンと機械油の匂いの中で、ドイツ海軍の通信兵が、汗だくになって受信機のダイヤルを回している。
――ツー、ト、ト、ツー。
絶え間なく続くモールスを、通信兵は素早い手つきでタイプライターに打ち出した。
「……またシュペー閣下の艦隊からか。太平洋を逃げ回りながら、よくもまあ、毎晩決まった時間に連絡してくるものだ」
通信兵は、打ち出した紙の束を引きちぎり、部屋の奥に据えられた黒光りする鉄の塊へ歩み寄った。
クルップ社製の、軍用の重い金庫である。
重いダイヤルを回し、分厚い扉を開ける。中には、真鍮のローターを持つ暗号機と、革表紙の分厚いコードブックが収まっていた。
通信兵は紙の束を中へ押し込み、扉を閉めた。
ガチャン。
*
大正三年八月十二日、午前二時。ヤップ島沿岸の、暗い海の中。
潮崎拓馬の視界が、急に「針の穴」ほどに狭まっていった。
肺が焼ける。こめかみを、大きな金槌で殴られるような痛みが、心臓の早鐘に合わせて打ちつけてくる。
体の奥で、生きようとする本能が、海面へ上がれと叫び続けていた。潮崎の兵士としての頭が、それを力ずくでねじ伏せている。
原因は、はっきりしていた。
リブリーザーの、呼吸袋からソーダ石灰の缶へ抜ける弁が、固まっている。吐き出した二酸化炭素が吸い取られずに、そのまま肺へ戻ってきているのだ。
(……ばねの噛み込みか)
意識がもつのは、長くて一分。
潮崎は胸元の真鍮の弁の位置を手探りで確かめると、軍用ナイフの柄を逆手に握り、決まった角度で一撃を叩き込んだ。
コン、と硬い音が、水の中に伝わる。
詰まっていたばねが弾ける手応えがあって、薬品の匂いの混じった生ぬるい酸素が、一気に肺を満たした。
狭まっていた視界が、ゆっくりと広がっていく。潮崎は一つ、長く深く息を吐いた。
*
海底ケーブルの点検用ハッチのレバーを回すと、錆びた蝶番が嫌な悲鳴を上げた。潮崎は水を滴らせながら、局舎の床下の穴蔵へ滑り込んだ。
穴蔵の天井は、身を起こせば頭がつかえるほど低い。四方のコンクリートは、長年の浸水で緑黒い苔に覆われていて、指で触れると粘土のように湿っていた。
頭上の床板の隙間からは、発電機の低い唸りと、かすかな人の気配が滲み出している。潮崎はしばらく身じろぎもせずに、敵の気配の濃さを計った。
リブリーザーの吸い口を外し、真っ黒なゴムの潜水服を脱ぎ捨てる。下から、闇に溶ける海軍陸戦隊の黒い軽装が現れた。潜水具一式は、あとで回収できるよう、ハッチの陰に隠しておく。
身軽になって局舎の空気を吸い込むと、放電で生まれるオゾンの青くさい匂いと、熱くなった絶縁ゴムの、甘く吐き気のする匂いが鼻を突いた。
腹の底を揺さぶる低い唸りが、壁ごと伝わってくる。シーメンス社の巨大な発電機が、帝国の内臓のように脈打っているのだ。
頭上の床板越しに、硬い音が響いた。
ザッ、ザッ、ザッ。
決まった間隔の、容赦のない足取りである。靴底に鉄の鋲を打った長靴の音だった。
「Achtung!(アハトゥング!)」
低く、刃物のような号令が落ちる。歩幅からすると、背丈は百八十五センチ、目方は百キロ近い。
(あいつか)
晩餐の席で、自分の左の脇腹をひと睨みした男――シュミットだ。
潮崎は息を殺し、頭の中で秒を数えた。巡回が通り過ぎるまで、あと百二十秒。
百二十秒のあいだ、潮崎は穴蔵の底で膝を抱え、息を限界まで浅くしていた。
コンクリートの冷たさが、膝頭から這い上がってくる。床板一枚を隔てた頭上を、百キロの巨体が規則正しく往復している。足音が止まるたびに、全身の神経が針の先ほどに縮んだ。
動くな。いないものになれ。この暗闇の一部になれ。
足音が遠のいた。
潮崎は音もなく穴蔵から這い上がり、床板を押し上げて、通信室へ忍び込んだ。
部屋は真っ暗で、稲光もまだない。
潮崎は目を捨て、耳と鼻だけで部屋の輪郭を描いていった。機械油の匂いが濃いほうに、金庫がある。壁際の空気が冷えている。
指先を壁に這わせて一歩、また一歩と進むあいだ、靴底がコンクリートの砂粒を踏むかすかな音にさえ、神経を尖らせていた。
窓の外で稲光が走り、その一瞬だけ、部屋の隅の大きな黒い影が浮かび上がった。
クルップ社製の軍用金庫。表面を硬く焼き締めた、銃弾も弾き返す鋼である。どんな穿孔機でも破れない、鋼鉄の沈黙だった。
だが、鋼は熱には勝てない。どれほど硬く鍛えても、三千度の化学反応の前では、鉄も鉛も等しく液体になる。
潮崎は、灰色のざらついた粉――テルミットを、金庫の蝶番とダイヤル錠の隙間に、押し固めるように詰め込んでいった。神事を執り行う神主のように、丁寧で、無駄のない手つきだった。
火口の代わりに、マグネシウムのリボンを一本差し込む。
通信室のドアに耳を当てる。外では、プロイセンの秩序が、まだ静かに息をしていた。
瓶の札の文句が、頭に浮かんだ。
一、詰メル。二、火ヲ点ケル。三、見ルナ。
潮崎はマッチを擦り、リボンに火を移すと、札のとおりに顔を背けた。
バチバチッ、という鋭い火花が闇を裂いた。
次の瞬間、シュゴォォォォッ! と、地獄の炉が吠えるような音が、密室を満たした。
背けた顔の横で、壁が真昼のように白く照らし出される。爆発の音はない。化学反応が周りの空気を一瞬で膨らませ、熱の波が、潮崎の肌を叩いた。
金属の焼ける臭いと、白い煙が部屋に満ちていく。
(……見ていたら、目を焼かれていたな)
潮崎が顔を戻すと、世界最強を誇ったクルップの鋼鉄が、真っ赤に、そして白に近い色に灼けていた。銃弾を弾き返してきた扉が、どろどろに溶けて床へ流れ落ちていく。
アスベストの手袋越しに、崩れた扉の奥へ手を伸ばす。
指先に触れたのは、真鍮のローターが噛み合う、重い機械の手応えと、油の染みた革表紙のコードブックだった。
ドイツ東洋艦隊の、最高の機密。太平洋の「言葉」を司る暗号機である。
潮崎はそれを防水袋に押し込み、袋の口を紐で固く縛った。
防水袋を胸に抱いた瞬間、潮崎は、自分の手が微かに震えていることに気づいた。怖いのではない。それが何なのかは、自分でも分からなかった。
訓練でも演習でもない、本物の戦争の最初の一手を、今、この手が掴んでいる。
(……取った)
煙の立ちこめる暗闇の中で、潮崎は口の中で呟いた。
背後で、ドアノブが冷たい音を立てて回った。
ギィ、と、蝶番がかすかに鳴る。
入り口に、逆光を背負った大きな影が立っている。鋲を打った長靴をコンクリートに軋ませ、銃身の長いルガーを構えた、シュミット下士官だった。
白い煙と、溶け落ちたクルップの残骸を、氷のような青い目が捉えた。
「――Wer da?(誰だ?)」
低く、震え一つない声だった。
潮崎は暗号機を抱えたまま、逆手に握ったナイフを、水平に構えた。
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