海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
二人の距離、四メートル。
シュミットの太い親指が、ルガーの左の安全装置を押し下げた。カチッ、という硬い音が、凍りついた空気を切る。
その瞬間から、潮崎の目には、何もかもがひどくゆっくり動いて見えた。考えるのをやめ、筋肉の縮みと緩みと、目に映る光の照り返しだけに意識を絞る。
シュミットの指が、引き金を引いた。
ダァァンッ!
コンクリートの壁が抉れ、乾いた破裂音が弾けた。
けれど弾が空気を裂くよりわずかに早く、潮崎の体はもう射線の外にあった。膝のばねと足首のひねりで、自分から前へ倒れ込み、床を滑るように進む。
ダァン! ダァン!
九ミリ弾が、容赦なく潮崎を追ってくる。シュミットの射撃は、プロイセンの軍人らしく、冷たく、機械のように正確だった。潮崎は溶け落ちたクルップの残骸と瓦礫を盾にして、身を低く低く伏せる。飛び散る火花とコンクリートの破片が頬をかすめ、血が滲んだ。
やがて、八発を撃ち尽くしたルガーの上の遊底が、開いたまま止まった。
「今だ……!」
潮崎は瓦礫を蹴って飛び込んだ。逆手に握ったナイフが、下から上へ、命を取る弧を描く。
シュミットは、慌てもしなかった。空になった拳銃をためらいなく投げ捨てると、百キロの体で、真正面から刃を迎え撃った。
ガシィッ!
骨の軋む鈍い音がした。
丸太のような腕が、ナイフを握った潮崎の右腕を、万力のように掴み止めている。
「Stirb, Ratte!(死ね、ドブネズミ!)」
「くそッ……!」
恐ろしい
続けざまに、分厚い軍靴が腹を抉りにくる。辛うじて体をひねってかわすと、蹴り飛ばされた重い通信機材がひしゃげて、壁に深くめり込んだ。まともに一撃食らえば、内臓が潰れる。
潮崎は壁を蹴って、シュミットの太い腕に関節技を仕掛けた。
駄目だ。百キロの筋肉の鎧は、関節を極める隙さえ与えない。
「Verdammt!(くそったれ!)」
シュミットが吠えて、潮崎を乱暴に振り払った。二人は、また数歩の間合いを取る。燃える部屋に、荒い息の音だけが重く響いている。
シュミットが、地鳴りのような足音を立てて突っ込んできた。
潮崎は、逃げなかった。相手の踏み込む向きに合わせて、自分から懐へ飛び込む。大きな拳が頬をかすめて肉を裂いたが、構わなかった。
間合い、ゼロ。
潮崎は、シュミットの膝の裏へ渾身の蹴りを叩き込んだ。巨体がわずかに傾いた刹那、左腕で首根っこを絡め取り、右手のナイフを首の太い血管へ突き立てにいく。
シュミットもまた、血走った目で、潮崎の喉を大きな指で握り潰しにかかった。
刃と指先が、互いの急所に届く、その寸前――。
バリバリバリッ!
空気を無理やり引き裂く甲高い絶叫が、局舎の屋根に降ってきた。
沖に停泊していた英国の装甲巡洋艦「マイノーター」の、九・二インチ砲の弾だった。百七十キロの鋼の砲弾は、音の二倍を超える速さで飛んでくる。撃った音は、弾より後から届く。
着弾。
視界が真っ白な閃光に染まり、世界から、音という音が消えた。
目に見えない圧力の壁が、四方へ弾け飛ぶ。炎が部屋を舐めるより先に、通信室の窓ガラスが粉々に砕け散り、潮崎は、見えない巨大な鉄槌で殴られたように宙を舞って、壁に叩きつけられた。
炸薬の炎が局舎の天井を吹き飛ばし、足元のコンクリートの床を、紙細工のように陥没させる。床の破片が、散弾のように降り注いだ。
「……ッ!」
潮崎は呻き声を噛み殺して、血まみれの額を拭い、暗号機とコードブックの入った防水袋を抱え込んだ。
平衡の感覚が狂った目で、床に開いた大穴――さっきまでの床下の穴蔵を見る。
砲弾が、ハッチの陰に隠しておいた命綱を、瓦礫ごとさらけ出していた。真っ黒なゴムの潜水服と、真鍮のリブリーザーである。
潮崎は、崩れ落ちる瓦礫の底からそれを引きずり出し、小脇に抱えて、骨組みだけになった局舎の裏口から外へ飛び出した。
*
岩場の陰に身を滑り込ませ、潮崎は潜水服を広げた。
汗と血で湿りきった肌に、冷えたゴムがべたりと張りつく。右足を突っ込んだ途端、ゴムが「ぎゅむっ」と逆らった。腿まで引き上げようとすると、今度は膝の裏がすっぽり捕まって離さない。
(……クソッ)
背後では局舎が燃え盛り、崖の上でドイツ兵の怒声が飛び交っている。
歯を食いしばって、両腕で強引に引き上げる。脇腹の皮膚まで一緒に挟まれる。肩を押し込もうとすると、今度は腕が詰まった。
体を斜めにひねって、ゴムを押し込む。ぱちっ、という嫌な音と一緒に、ようやく両腕が通った。
「Da ist er!(あそこだ!)」
頭上の崖に、燃える炎を背負った人影がいくつか浮かび上がった。砲撃を逃れた海兵隊の兵たちで、真ん中の巨体はシュミットだ。
ルガーが火を噴いた。九ミリ弾が足元の岩を穿って、鋭い破片を撒き散らす。けれど崖の上から、荒れる波打ち際までは遠く、拳銃の弾は届かなかった。
「Verdammt! Gib mir das Gewehr!(くそッ! 銃をよこせ!)」
シュミットは、隣の兵の手から、制式の小銃を乱暴にむしり取った。
ボルトを引き、弾を送り込み、肩に銃床を押し当てる。その息が、ぴたりと止まった。
潮崎の背筋を、死の悪寒が走る。
リブリーザーの吸い口を乱暴にくわえ込むと同時に、潮崎は背中から、真っ黒な海へ身を投げ出した。
ズダァァァンッ!
腹の底を揺らす轟音とともに、尖った小銃弾が、潮崎の頭のあった場所を寸分たがわず貫いて、岩を抉った。
冷たい海水が、ほんの一瞬早く、潮崎の体を呑み込んでいた。
格闘と逃走で火照った筋肉が、みるみる冷えていく。
頭上の水面では、英国の艦の砲火と、ドイツ兵が水面を撃つ弾が、赤い光になって瞬いているのに、海の数メートル下は、恐ろしいほど静かだった。
潮崎は羅針盤を頼りに、沖の決められた地点へ、足ひれを動かし始めた。
やがて、暗い海の中に、大きな黒い影が浮き上がってくる。商船に見せかけた母船から、ひそかに下ろしておいた、日本海軍の小型の潜水艇である。
潮崎は司令塔のハッチに手をかけ、油くさい狭い艇内へ滑り込んだ。出迎えた乗員が、黙って防水袋を受け取る。
「潜航せよ」
ハッチが閉まり、鉄の鯨は、電動機の低い唸りを残して、夜の海へ静かに沈んでいった。
*
夜明け前、潜水艇は待ち合わせの地点で浮上した。
そこには、商船に見せかけた母船が、鉄の城壁のように待っていた。
「
母船の甲板から、怒鳴り声が飛ぶ。
麻縄を何重にも編んだ大きなクッションが下ろされたけれど、波に揉まれる潜水艇と母船がぶつかるたびに、それは、キシキシと嫌な悲鳴を上げた。
波が持ち上がり、潜水艇が母船の舷側にいちばん近づいた刹那、潮崎は全身のばねを爆発させて、縄梯子に飛びついた。
体が、思っていたより重い。シュミットの打撃と、海の中の息苦しさと、岩に叩きつけられた衝撃が、いっぺんに請求書を突きつけてくる。濡れた縄を掴んだ右腕の筋肉が、熱く悲鳴を上げた。
構わずに、腕の力だけで体を引き上げる。
甲板に這い上がると、潮崎は一秒だけ膝をついて、冷たい海の空気を肺に入れた。頬の傷から、血が顎を伝って甲板に落ちる。
次の瞬間には、もう立ち上がっていた。
背負っていた防水袋を外し、出迎えた連絡員に放り投げる。受け止めた連絡員が、その重さに呻いて、甲板に膝を沈めた。
「それを、上海の黒石に届けろ」
「中尉は」
「俺は帰らん。秋月少佐の別命で、このまま赤道の海に残って、南へ向かう艦隊の道案内をする」
それだけ言うと、潮崎は振り返りもせずに、甲板の反対側に横付けされた、帆船に見せかけた船へ飛び移った。
*
二日後。上海、高杉の拠点の地下。
紙テープを引き出していた黒石の手が、止まった。
黒石は鉛筆を走らせ、一枚の紙を、三味線を抱えた高杉の前に置いた。
「高杉先生。南洋、母船より。以上」
――ハコ アイタ ナカミ ブジ
高杉は、紙切れを灯りに寄せた。
それから、撥で一度だけ、弦を打った。
「……開いたか。今度は、早かったのう」
壁際で地図を見ていた真崎が、顔を上げた。
「今度は、とは」
「前のは、開くまでに一年と四ヶ月かかった」
高杉は、紙切れを袂に落とした。
「三宅坂の地下の、綴じの話じゃ」
少しだけ種明かしを。
本話に登場した装甲巡洋艦「マイノーター」は実在の艦です。一九一四年八月、英国東洋艦隊はヤップ島の大出力無線局を実際に砲撃し、ドイツの太平洋通信網を破壊しました。
おそらく史実では、無線局の中にあった機器の類は海の藻屑になっていることでしょう。
地球の裏側の南洋の孤島でも、大戦の波は容赦なく押し寄せていました。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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