海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:yoshiume

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第二十五話 南洋の石貨

「素晴らしいワインです。赤道直下のこの島で、これほど見事に冷えたリースリングを味わえるとは」

 

 潮崎拓馬(しおざきたくま)は、薄いグラスを傾けながら、流暢な高地ドイツ語(ホッホ・ドイチェ)で言った。

 

 大正三年(一九一四年)八月十一日、夜。ミクロネシアの西端、ドイツ領ヤップ島。

 総督府官邸の広々としたテラスには、純白のテーブルクロスが掛けられ、銀の燭台が南国の生温かい夜風に揺らめいていた。

 

 庭先には、直径一メートルを超える巨大な円盤状の石――ヤップ島の伝統的な貨幣「フェイ(石貨《せっか》)」が、列強の権力を誇示する戦利品のように無造作に飾られている。

 島の民が何世代もかけて刻み上げた「価値」を、ドイツ帝国は庭の置物にした。

 

 仕立ての良い純白の(リネン)のスーツ。

 潮崎の姿は、居留民の保護と引き揚げ交渉のために派遣された、いかにも温厚な外務省のエリート官僚のそれだった。

 

 だが、その白い布地の下、左脇腹には刃の乱反射を防ぐために黒く塗りつぶされた軍用ナイフが冷たく張り付いている。

 

「喜んでいただけて光栄だ、潮崎視察官。官邸の地下に氷室を設けてあるのだよ。数ヶ月に一度しか来ない本国からの補給船を待つ間、文明的な生活を維持するためのささやかな抵抗さ」

 

 テーブルの対面で、ヤップ島行政官のケッセルが、形の良い顎を撫でながら微笑した。

 

 給仕が手際よく、銀の皿に盛られた料理をサーブしていく。瓶詰めのザワークラウトと塩漬けの豚肉、缶詰のソーセージ。メインディッシュは、ヤシガニの香草ローストだった。付け合わせには、現地産のヤムイモが添えられている。

 

 ケッセルは、ドイツ風のマスタードソースを絡めたヤムイモをフォークで口に運び、満足げに頷いた。

 

「本国のジャガイモが恋しいが、このヤムイモのねっとりとした食感も悪くない。……視察官。帝国はこうして、現地の土壌を自らの胃袋に合わせて飲み込んでいくのだよ。島の庭に飾った石貨も同じだ。彼らの価値観を、我々のルールで支配する。それが文明というものだ」

 

 潮崎はヤシガニの身をナイフで上品に切り分けながら、相槌を打った。

 

「なるほど。チャモロ人を用いた見事な警察隊の運用も、その文明の恩恵というわけですね」

「しかし、驚くべき語学力だ」

 

 ケッセルは唐突に話題を変え、潮崎の目を見据えた。

 

「ベルリンに留学経験がおありで?」

「ハイデルベルクに少々。書物を読む程度のものです」

「謙遜を。……あなたの発音は、外交官というより、プロイセンの士官学校のそれに近い」

 

 ケッセルの碧い瞳が、燭台の火を反射して鋭く細められた。

 

 潮崎はグラスを置き、薄く笑った。

 

「光栄な賛辞として受け取っておきましょう」

 

 対話のテンポが、次第に短く、硬質なものへと変わっていく。

 ケッセルは、目の前の日本人青年が単なる文官ではないと直感していた。

 動作に無駄がない。殺人的な熱帯の湿気の中でも、一滴の汗もかいていない。それは極度に訓練された者の生理だった。

 

「単刀直入に聞こう。貴国は、我々ドイツ帝国に牙を剥くつもりか」

「我々の関心は、居留民の安全な退去のみにあります。大国間の争いに、極東の島国が口を挟む余裕などありません」

「ならば良い」

 

 ケッセルは冷えたワインを一口飲み、何気ない調子で切り出した。

 

「数日前、近海の漁師から奇妙な報告があってね。海面に、鉄の鯨を見たそうだ」

 

 潮崎の指先が、ほんの数ミリだけ止まった。

 

「……潜水艦、ですか」

「ただの幻覚だろう。だが、時局が時局だ。念のため、無線局と陸揚局の警備体制を変更した」

 

 ケッセルが背後へ視線を向けると、部屋の薄暗い隅から、ひとつの巨大な影が音もなく一歩前へ出た。

 

「海兵隊のシュミットだ」

 

 潮崎の観察眼が、瞬時にその男を測った。

 

 身長、一八五センチ前後。体重は百キロ近いか。純白の熱帯用軍装がはち切れんばかりの分厚い胸板と、格闘技で鍛え抜かれた丸太のような太い首。プロイセンの軍事教育特有の、背骨に鋼鉄の棒を通したような硬質な姿勢だった。

 

 だが、潮崎が最も強い警戒を覚えたのは、その「静けさ」である。

 これだけの巨躯でありながら、一歩踏み出した際の足音が極端に少ない。重心の移動を完全にコントロールしきっている証拠だ。

 

 シュミットは一言も発さず、氷のように冷たい青い瞳で潮崎の顔をひと撫でし、無表情のまま儀礼的な敬礼をしてみせた。

 その腰には、長銃身化された「ルガーP04」が、鈍い鉄の光を放って鎮座している。

 

「……頼もしい護衛ですね」

 

 潮崎はグラスを口に運びながら、視線だけでシュミットを観察し続けた。

 

 男は食卓につかない。給仕が椅子を勧めても、一度も腰を下ろさなかった。

 部屋の隅、ちょうど潮崎の右斜め後方に当たる位置に、壁を背にして仁王立ちのまま微動だにしない。

 

 あの立ち位置は偶然ではない。

 室内灯が逆光になり、潮崎からはシュミットの表情が読みにくい。一方でシュミットからは、食卓の全員の顔と手元が完全に見渡せる。射線も確保されている。あの位置から抜刀までコンマ二秒。ルガーの残弾は八発。

 

(完全に、俺を標的として見ている)

 

 潮崎はヤシガニの身をフォークで丁寧に口に運んだ。

 ほのかに香草の香りが立つ、淡泊で上質な甘みが舌に広がる。旨い。

 だが今この瞬間、その味を楽しむ神経は、脳の片隅にも残っていなかった。

 

 シュミットは一度だけ、潮崎の左脇腹に視線を落とした。

 一秒にも満たない、ほんの一瞬。

 だがその眼光は、白いリネンの布地を透かして、その下に潜む金属の冷たさを確認しようとするかのように鋭かった。

 

 潮崎は微笑んだまま、グラスを置いた。

 

(気づいているのか。それとも、全員に同じ目を向けているのか)

 

 判断がつかない。それが最も厄介だった。

 だが胸の中では、この無口な巨漢を即座に「最重要警戒目標」へと格上げしていた。

 

「現地の緩いチャモロ人警察隊を下げ、正規の海兵隊を配置した。機関銃座も二箇所増設してある。……ネズミ一匹、あの鉄塔には近づけんよ」

 

(……なるほど。ならば、残された道は一つしかない)

 

 潮崎の脳裏に、客室の木箱に隠した「リブリーザー」の冷たい感触が蘇った。

 サメが泳ぐ赤道直下の夜の海を、気泡一つ出さずに潜水行軍する。

 死と隣り合わせの、狂気的な「裏」のプランである。

 

「……それは心強い。治安の維持は、居留民の安心にも繋がります。行政官閣下の素早いご決断に、感謝いたします」

「わかってもらえて嬉しいよ、視察官」

 

 互いに虚像を演じきったまま、晩餐は静かに幕を閉じた。

 

 

  *

 

 

 官邸を辞した潮崎は、テラスの端に立ち、眼下の夜の海を見下ろした。

 

 黒い水面が、月光を鈍く照り返している。

 どこかでヤシの葉が風に擦れ、虫の声だけが満ちていた。

 

 陸路は塞がれた。

 シュミットという男が機関銃と共にあの鉄塔を守る限り、表のプランに勝ち目はない。

 だが、海はまだ、誰のものでもない。

 

 潮崎は白いスーツの胸元に手を当て、内側のナイフの冷たい感触を確かめた。

 

(秋月少佐が描いた大絵図の、最初の泥仕事だ)

 

 しくじるわけにはいかない。

 

 彼は踵を返し、船へ戻る夜道を、足音ひとつ立てずに歩き始めた。




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