海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:吉田梅之助

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第二十六話 青島への切符

「……権藤(ごんどう)。貴様、顔色が良くないな」

 

 村田経芳(むらたつねよし)の一言が、奥座敷の静けさに鑿(のみ)を打ち込んだ。

 

 帝都・東京。大正三年八月、ヤップ島の鉄塔が英国の艦砲で崩れた、その翌日の夜。

 料亭「星ヶ岡茶寮(ほしがおかさりょう)」の奥座敷には、香の煙と、戦場を渡り歩いた男たちの硝煙の記憶が漂っていた。

 

 上座に泰然と座るのは、陸軍の火器の系統に今も大きな影響を持つ老将・村田経芳である。

 向かいに座る陸軍省軍務局軍事課長・権藤大佐の眉間には、消しようのない深い影が刻まれていた。

 

「……お恥ずかしい限りです、閣下」

 

 権藤の声は、乾いた砂のようにかすれていた。

 

「二個師団増設の問題にからむ派閥の裏工作の費用が、不肖、私一人の負担になりまして。債権者どもが、軍務局の門の前まで押しかける始末です。もはや……腹を切って始末をつけるほかないかと」

 

 村田は答えずに、冷めた盃をゆっくりと弄んでいる。

 

 次の動きが来たのは、それから数秒後だった。

 老将は、傍らの扇子を何気なく権藤のほうへ押しやった。竹の骨の下に、分厚い封筒が一通、音もなく忍ばせてある。

 

「上海の知人から届いた。……余計な心配は、もう要らぬ」

 

 権藤は封筒を引き寄せ、中を確かめた途端に、手が止まった。

 横浜正金銀行が振り出した、巨額の小切手。それだけなら「私財での救済」で説明がつく。だが一緒に入っていた数枚の書類と写真が、権藤の背筋を凍らせた。

 

 権藤を借金地獄へ追い込んだ政敵たちが、外国の資本と通じていたことを示す裏帳簿の写し。それに、密会の写真である。

 どちらも、鮮明すぎるほど鮮明だった。

 

「……これは」

「小切手で、表の借金を片づけろ。そして、その材料で、貴様をはめた連中の喉元を、力任せに踏みつけろ」

 

 村田は盃を置き、淡々と続けた。

 

「金だけでは、ネズミはまた戻ってくる。だが、喉を潰された獣は、二度と牙を剥かん。上海の老人は、貴様に金と力の両方をくれたのだ」

 

 権藤はしばらく、書類を膝の上に置いたまま動かなかった。

 

「……閣下。このご恩、いかようにお返しすれば」

「恩を売ったつもりはない」

 

 村田は首を振った。

 

「借金に追われた軍人に、国の先行きを語る資格はない、と思うただけだ。それでも返したいと言うのなら……真崎という男を知っているな」

「……上海へ飛ばされた、あの異端児ですか。火力主義の上申書を乱発して、上の不興を買った」

「あ奴は、今の陸軍でただ一人、物の理屈を分かっとる男だ。だが惜しいかな、正規の師団に入れて青島へ送っても、精神論の肥溜めに沈められるだけだろう」

 

 村田は、権藤の顔を正面から見据えた。

 

「誰かが最前線で、三宅坂の連中が見たくない現実を正確に書き留めて、叩きつけねばならん。正規の指揮系統に縛られず、近代戦の実態だけを集められる座……。だが、そんな都合のいい座が、今の固まった陸軍にあるはずもないか」

 

 権藤は、はっと息を呑んだ。

 冷え切っていた胸の奥に、軍人の意地が、静かに熱を帯びてくる。

 

「……閣下。一つだけ、手がございます」

 

 権藤の背筋が、自然と伸びた。

 

「陸軍省直属の『特命観戦武官』という制度です。正規の師団から完全に離れて、視察と記録だけを任とする特命の座。平時には埃をかぶっておりますが……私の権限であれば、すぐにでも引き出せます」

「手配できるか」

「至急、陸軍大臣の公印を仰ぎ、真崎勇気の名で官記を出させます」

 

 権藤は、深々と頭を下げた。今度は、卑屈さのかけらもない、引き締まった軍人の顔だった。

 

「私を崖っぷちから引き戻してくださった閣下への、せめてものお返しであります」

 

 村田は小さく頷き、冷めた盃を一口だけ飲んだ。

 

  *

 

 八月十五日。

 日本政府は、ドイツ帝国に対し、膠州湾(こうしゅうわん)の租借地を無条件で返せと求める最後通牒を突きつけた。

 期限は、八月二十三日。外交の言葉が尽きれば、次は砲弾が語る。

 

  *

 

 それから数日して、真崎は上海の駐在武官室に呼ばれた。

 田辺武人(たなべたけひと)少佐は、珍しく新聞を脇に置いて、真崎を待っていた。

 

「真崎。座れ」

 

 声がいつもと違った。雑用を言いつける声ではなく、人間の声だった。

 

「お前の青島行きの辞令が下りた。特命観戦武官の命だ」

「承知いたしました」

「……うむ」

 

 田辺は短く頷くと、懐から折り畳んだ紙を取り出した。

 

「キイチから預かった。あいつの字は相変わらず汚いが、まあ読め」

 

 神林毅一郎(かんばやしきいちろう)の名があった。走り書きの字で、こう記されている。

 

 『田辺へ。真崎のことを頼む。あ奴が東京で上に牙を剥いていたのは、お前も知っているな? 落ち着きのないにも程があるが……先々の陸軍には、ああいう手合いも要る。せいぜいやれ、と伝えておいてくれ』

 

「神林局長が……」

「同期なんだ、わしとあいつは。……向こうは局長、こっちは上海で新聞係だがな」

 

 田辺は照れたように鼻を鳴らし、新聞を広げ直した。

 

「ほら、さっさと行け。欧州情勢の分析のレポートは、わしがやっておく」

「……少佐が、ですか」

「お前のを、全部読んどったからな。書き方くらいは覚えた」

 

 田辺は、紙面から目を上げなかった。

 

「途中から、枚数を半分にしたろう。中身は、半分にならんかった。……すごいな、と思うとった」

 

 真崎は、しばらく何も言えなかった。

 それから深く頭を下げたけれど、田辺はもう紙面に目を落としていて、その口元だけが、わずかに緩んでいた。

 

  *

 

 その夜。真崎は拠点の地下の隅で、出立の荷物を黙々と整えた。

 

 上海に来たときのリネンの背広は、もう着ない。代わりに畳んだのは、砂埃に耐える丈夫な野戦の外套と、替えの軍靴だ。

 それから、桐箱に収めたツァイスのスコープ。最前線で使う「目」である。白兵突撃が要塞の機関銃の前でどれほど無力かを、このレンズで、余すところなく書き留める。

 

 最後に、乃木大将の遺書。これだけは、胸のポケットに入れる。青島で怒りが冷えそうになったら、取り出して読む。

 

 机の上には、秋月に宛てて書きかけた手紙があった。

 「結婚おめでとう。銀のナイフとフォークは、」と書いたところで、筆が止まっている。レーン・クロフォードで買った銀の包みは、まだ棚の上で、渡す相手を待っていた。

 

 真崎は手紙を一度手に取り、それから静かに畳んで、懐へしまった。書き続けても、出すころには、何もかも変わっている。本物の祝いの言葉は、生きて帰ってから、呉で直接言えばいい。

 

(生きて帰れれば、の話だが)

 

 苦笑が、一瞬だけ口元に浮かんだ。

 上海の夜気は、まだ重く蒸していた。

 

 最後通牒の期限、八月二十三日まで、あと三日。

 真崎は、指を折らずに数えた。




少しだけ種明かしを。
本話の「最後通牒」は史実です。一九一四年八月十五日、日本政府はドイツ帝国に対し、膠州湾租借地の無条件返還と東洋海面からの軍艦退去を要求。期限は二十三日正午。ドイツ側が無視したため、日本は八月二十三日に宣戦を布告しました。

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