海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:yoshiume
――深夜。
ジャングルの暗がりに踏み込んだ瞬間、容赦のない自然の猛威が潮崎拓馬を包み込んだ。
八月のヤップ島は本格的な雨期である。
先ほどまでのスコールが残した猛烈な湿気が地表から立ち昇り、湿度はほぼ百パーセントに達していた。
仕立ての良いリネンのスーツが、みるみるうちに重く肌にへばりつく。
潮崎は、まるで温かい水の中で呼吸しているかのような極度の不快感を覚えた。
夜の匂いが、官邸のテラスで嗅いだリースリングの香りなど容易く吹き飛ばす。
熟れきって地に落ちたバナナやパイナップルの甘い腐敗臭。
現地の女たちが儀式で使うウコンの粉末の土臭さ。
そして、ヤシの実を乾燥させたコプラの油が酸化したような匂い。
それらが混ざり合い、熱帯特有の強烈な体臭となって鼻腔を打ち据えてくる。
加えて、デング熱やマラリアを媒介する無数の蚊の群れが、羽音を立てて顔の周りを執拗に飛び回っていた。
晩餐のテーブルでは、完璧な外交官の笑みを崩さなかった。
だが今は、その白いスーツが泥と汗を吸い込み、仮面ごと重くなっていく感覚があった。
*
密林の隙間から、夜空に向かってそびえ立つ巨大な無機物が見えた。
高さ百メートルに及ぶ、大出力無線の鉄塔である。
そしてその足元、海岸の断崖下には海底ケーブルの陸揚局が要塞のように口を開けていた。
潮崎は身を潜め、暗視鏡で局舎の周辺を窺った。
ケッセルの言葉はハッタリではなかった。
サーチライトが交差する中、歩哨に立つ兵士たちの姿が確認できる。
現地のチャモロ人警察隊とは、歩き方からして全く違っていた。
純白の熱帯用軍装を、この殺人的な湿気の中でも汗一つかかずに着こなし、極めて厳格なプロイセン式の規律を保って巡回している。
ゼーバタリオン――ドイツ帝国の正規海兵隊だ。
腰のホルスターには、ルガーP04が収まっている。
昨夜の晩餐で、シュミットが己の左脇腹へ向けたあの視線と、同じ銃が。
陸路は、完全に塞がれた。
潮崎は島の裏手にあたる人気のないマングローブの入り江へと向かった。
足を踏み入れた瞬間、膝まで沈み込む腐葉土と泥が全身の重さを増した。
生い茂るマングローブの複雑な根が幾重にも絡み合い、行く手を阻んでいる。
潮崎は音を立てないよう一歩ずつ体重を移しながら、根の隙間を縫うように進んだ。
泥の中で何かが動いた。
細長い影が、足元すれすれを横切っていく。
ウミヘビか、それとも浅瀬に迷い込んだサメか――判断する間もなく、影は暗い水の中に消えた。
潮崎は足を止めず、進んだ。
しつこいくらいの潮の匂い。
波の音だけが、等間隔で鼓膜を叩く。
頭上の空には、雲の切れ間から南十字星が冷たく瞬いていた。
潮崎は、ドロドロになった純白のスーツを無造作に脱ぎ捨てた。
ネクタイを外し、シャツを破るように脱ぐ。
現れたのは、過酷な訓練によって鋼のワイヤーのように引き絞られた肉体と、それに密着する漆黒のラバー製潜水服であった。
白いリネンが泥の上に落ちる。
外交官という仮面が、そこで完全に死んだ。
*
潮崎は素早く頭の中で作戦を組み直した。
昼間、南洋貿易の日本人商人から仕入れた情報が蘇る。
「潮崎さん。局舎の裏、海に面した断崖の下に、海底ケーブルの点検用ハッチがあります。潮が満ちれば水没する場所ですが、あそこからなら、通信室の床下へ直接出られるはずです」
海からの直接侵入。
機関銃座を迂回し、局舎の腹を底から食い破る。
陸路が塞がれた今、この機を逃せばイギリス軍が島を艦砲射撃で粉砕しに来る。
そうなれば暗号機もコードブックも海の藻屑だ。
潮崎は入り江の泥に隠しておいた黒い防水嚢を引き寄せ、中からリブリーザーを取り出した。
呼気の二酸化炭素をソーダ石灰で吸収し、気泡を一切出さない無音の潜水器だ。
酸素ボンベのバルブを開く。
シュー、という微かなガスの流出音。
マウスピースを口に咥え、深く息を吸い込む。
ゴムと化学薬品の無機質な匂いが、肺の奥まで満たしていく。
血中の酸素濃度が上がり、視界の端が異常に冴え渡る。
潮崎は泥を抜け、水際へ歩み寄り、腰まで黒い海に浸かった。
波の冷たさが、ラバー越しに体温を奪っていく。
頭上を飛び交う蚊の羽音も、腐敗した甘い匂いも、次第に遠ざかっていく。
(……異常なし。潜行する)
決意と共に、さらに深く息を吸い込んだ、その時だった。
――チリッ。
呼吸の循環音の中に、微かな、だが異質なノイズが混じった。
金属同士が擦れ合うような、乾いた音。
潮崎は動きを止めた。
循環バルブの異常か、ソーダ石灰の目詰まりか。
水中で呼吸器が停止すれば、それは誰にも知られることのない無残な溺死を意味する。
陸上に待ち構えるルガーや機関銃よりも、背負った不完全な機械の方がはるかに無慈悲な死神であった。
潮崎はバルブに手をやり、数秒間、暗い水面を見つめた。
引き返す選択肢は、とうの昔に海へ捨ててきた。
彼は深く顎を引き、一粒の気泡も残すことなく、暗緑色の深淵へとその身を沈めた。
*
まさにその頃。
潮崎の頭上十数メートルにそびえる断崖の監視ポストでは、現地採用された二人のチャモロ人警察隊員が、ヤシの葉で巻いた粗末なタバコを吹かしていた。
「……やってられないな。こんな蒸し暑い夜に海の見張りだなんて」
若い隊員が、まとわりつくような湿気を手で払いながら愚痴をこぼした。
「我慢しろ。本国から来たあのシュミットとかいう下士官のせいだ。あいつらは人間じゃない、プロイセンの機械だ」
年配の隊員が、背後の局舎を忌々しげに振り返る。
「大方、本国から怒られるのが怖いんだろうさ。こんな真っ暗な海に、サメとウミヘビ以外に誰が近づくって言うんだ。……火を貸してくれ」
彼らは星空を見上げ、紫色の煙を吐き出した。
足元の暗い波間で、極東の島国から来た工作員が死の淵を歩いていることなど、彼らの緩慢な想像力が及ぶべくもなかった。
*
二人が背にしている局舎の中枢――通信室は、外の熱帯夜とは全く異質の、張り詰めた空気に支配されていた。
オゾンと機械油の匂いが立ち込める室内で、ドイツ海軍の通信兵が汗だくのまま受信機のダイヤルを微調整している。
――ツー、ト、ト、ツー。
絶え間なく響くモールス信号を、通信兵は素早い手つきでタイプライターに打ち出した。
「……またシュペー閣下の東洋艦隊からか。太平洋を逃げ回りながら、よくもまあ定時連絡をしてくるものだ」
通信兵は印字された紙の束を引きちぎると、部屋の奥に鎮座する黒光りする鉄の塊へと歩み寄った。
クルップ鋼製の軍用重金庫である。
重々しいダイヤルを回し、分厚い扉を開ける。
中には、真鍮製の複雑なローターを持つ暗号機と、革表紙の分厚いコードブックが静かに眠っていた。
ガチャン、という暴力的なまでの金属音が、密室に響き渡った。
大英帝国の巨砲すら撥ね返す絶対的な装甲の音であった。
この小さな箱一つが、今まさに世界大戦の盤面を左右する生きた兵器なのだ。
その強固な金属音が、海底を這う潮崎の耳に届くはずもなかった。
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