海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:yoshiume

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第二十七話 クルップ鋼鉄

 大正三年(一九一四年)八月十二日、午前二時。

 ヤップ島沿岸の暗い海中。

 視界が、急速に「針の穴」ほどに狭窄していく。

 

 医学的に言えば高炭酸ガス血症(ハイパーカプニア)による視覚狭窄であった。

 潮崎拓馬の脳内では、生存本能という名の猛獣が、海面への浮上を求めて絶叫を繰り返していた。

 肺が焼ける。

 こめかみを大型のハンマーで殴打されるような激痛が、心拍の早鐘に合わせて律動する。

 だが、潮崎の「兵士」としての理性が、その絶叫を力ずくでねじ伏せていた。

 

 原因は明白だった。

 ドレーゲル社製のリブリーザーの、呼吸嚢からソーダ石灰清浄缶へと続くバイパス・バルブの固着。

 吐き出した二酸化炭素が吸収されず、濃密な死のガスとなって再び肺に送り込まれているのだ。

 

(……スプリングの噛み込みか)

 

 意識の余命は、長くて一分。

 潮崎は暗黒の海中で、自らの身体という精密機械を客観的に観察した。

 感傷や祈りなど、この極限状態では鉛の重みにもなりはしない。

 必要なのは、物理的な解決のみだ。

 

 彼は胸元の真鍮製バルブの位置を手探りで特定すると、軍用ナイフの柄を逆手に握り、正確な角度で衝撃を叩き込んだ。

 コン、という硬質な金属音が、水中に伝播する。

 次の瞬間、詰まっていたスプリングが弾ける手応えがあった。

 清浄缶を通過した、ゴムと薬品の混ざったような生温かい酸素が、一気に肺胞を満たした。

 

 狭窄していた視界が、ゆっくりと広がっていく。

 潮崎は一つ、長く深く息を吐いた。

 機械は常に故障する。それでも死ななかった者だけが、次の仕事をする資格を持つ。

 

   *

 

 潮崎は海底ケーブルの点検用ハッチのレバーを回した。

 錆び付いたヒンジが不気味な悲鳴を上げ、彼は水滴を滴らせながら通信局舎の「床下ピット」へと滑り込んだ。

 海水が石床を叩く微かな音。それだけが、侵入の痕跡だった。

 

 ピットの天井は、潮崎が身を起こせばすぐ頭が触れるほどの低さだった。

 四方を囲むコンクリートは、長年の浸水で緑黒いコケに覆われており、指先で触れると粘土のような湿った感触が返ってくる。

 頭上の床板の隙間からは、発電機の重低音と、かすかな人の気配が滲み出ていた。

 潮崎はしばらく微動だにせず、敵の気配の密度を計った。

 

 すぐさまリブリーザーの吸口を外し、漆黒のラバー製潜水服を脱ぎ捨てる。

 陸上ではただの拘束具でしかないゴムの塊を剥ぐと、闇に溶け込むような海軍陸戦隊の黒い軽装が現れた。

 潜水具一式は、後で回収できるようハッチの影へと隠す。

 

 身軽になった潮崎が局舎の空気を吸い込んだ瞬間、独特の匂いが鼻腔を突いた。

 放電によって生じるオゾンの青臭い匂いと、過熱した絶縁ゴムが焦げるような甘く吐き気を催す匂い。

 腹の底を揺さぶる重低音の唸りが、コンクリートの壁を通じて伝わってくる。

 ジーメンス社製の巨大な発電機が、帝国の臓腑のように脈動しているのだ。

 

   *

 

 頭上の床板越しに、硬質な音が響いた。

 ザッ、ザッ、ザッ。

 等間隔で容赦のない歩様。靴底に鉄鋲を打ったジャックブーツが奏でる、死神の足音だ。

 

「Achtung!(アハトゥンク!)」

 

 低く、刃物のような号令。プロイセンの秩序そのものを擬人化したような、冷徹なドイツ語の響き。

 歩幅から推測される身長……一八五センチ。体重、百キロ近く。

 

(あいつか)

 

 昨夜の晩餐で、己の左脇腹をひと睨みした男。シュミットと断定した。

 潮崎は息を殺し、脳内で秒針を数えた。巡回が過ぎ去るまで、あと百二十秒。

 

 百二十秒。

 潮崎はピットの底で膝を抱え、息を限界まで浅くした。

 コンクリートの冷気が膝頭から這い上がってくる。

 頭上では床板一枚を隔てて、百キロの巨体が規則正しく往復している。

 足音が止まるたびに、潮崎の全神経が針の先ほどに凝縮した。

 動くな。存在するな。この暗闇の一部になれ。

 

 足音が遠のく。

 潮崎は音もなくピットから這い上がり、床板を押し上げて局長室へと侵入した。

 

 室内は暗黒だった。

 稲光はまだない。窓の外は黒一色だった。

 潮崎は視覚を捨て、聴覚と嗅覚だけで部屋の輪郭を描いた。

 機械油の匂いが濃い方角に、金庫はある。壁際の空気が冷えている。

 指先を壁に這わせながら一歩、また一歩と進む。

 靴底がコンクリートの砂粒を踏む、その微かな摩擦音にさえ神経を尖らせた。

 

 窓の外で稲光が走り、その一瞬、部屋の隅に鎮座する巨大な黒い影が浮き彫りになった。

 クルップ社製の軍用重金庫。

 銃弾を弾き返す表面硬化処理鋼。いかなる穿孔機をもってしても破れない、鋼鉄の沈黙。

 

 当時の帝国陸海軍の技術者が束になって挑んでも、この金庫を物理的に開けるには数時間と専用機材が必要だった。

 そんな時間も、そんな機材も、潮崎には存在しない。

 だが、鋼鉄は熱に勝てない。どれほど硬く鍛えようとも、三千度の化学反応の前では、鉄も鉛も等しく液体に過ぎなかった。

 クルップを殺すのは、より強い鋼鉄ではない。化学式だ。

 

 灰黒色のざらついた粉末――酸化鉄とアルミニウムの混合物、「テルミット粉末」。

 潮崎の手つきは、神聖な儀式を執り行う司祭のように、丁寧で無駄がなかった。

 金庫のヒンジとダイヤル錠の隙間に、粉末をギュッと押し固めるように詰め込んでいく。

 導火線代わりに、一本のマグネシウム・リボンを差し込んだ。

 

 局長室のドアに耳を当てる。

 外には依然として、プロイセンの秩序が静かに息づいている。

 

 マッチを擦った。

 

 バチバチッ、という鋭い火花が闇を切り裂いた。

 次の瞬間。「シュゴォォォォッ!!」という、地獄の業火が咆哮を上げるような音が密室に響き渡った。

 

 三千度の暴力が、爆発した。

 

 太陽の欠片を直接見たかのような、網膜を焼き焦がす強烈な白光が弾ける。

 爆発音はない。

 ただ化学反応という絶対的な法則が、周囲の空気を一瞬で膨張させ、潮崎の肌に熱波を叩きつけた。

 金属の焼ける臭気と、白い酸化アルミニウムの煙が充満する。

 

 世界最強を誇ったクルップの鋼鉄が、テルミットの白熱に舐められた瞬間、真っ赤に、そして透明に近い白熱状態へと変貌した。

 銃弾を弾き返してきた無敵の装甲が、ドロドロのマグマとなって床に流れ落ちていく。

 

 潮崎はアスベスト製の手袋越しに、崩落した扉の奥へと手を伸ばした。

 指先に触れたのは、真鍮製の複雑なローターが噛み合う、重厚な機械の手応え。

 そして、油が染み付いた革表紙のコードブック。

 

 ドイツ東洋艦隊の最高機密。太平洋の「言葉」を司る暗号機。

 

 潮崎はそれを防水袋に押し込み、ジッパーを閉じた。

 

   *

 

 一拍だけ、静寂があった。

 

 防水袋を胸に抱いた瞬間、潮崎は自分の手が微かに震えていることに気づいた。

 恐怖ではない。これが何であるかは、自分でも分からなかった。

 訓練でも演習でもない。本物の戦争の、最初の一手を、今この手が掴んだ。

 

 煙が充満する暗闇の中で、潮崎は口の中で呟いた。

 

(……取った)

 

 だが、安堵の息を吐く間もなかった。

 背後で、冷たい音を立ててドアノブが回った。

 ギィ、という微かなヒンジの鳴り。

 

 入り口に立つのは、逆光に照らされた巨大な影。

 ジャックブーツの鋲をコンクリートに軋ませ、長銃身のルガーを構えたシュミット下士官だった。

 白い煙と、溶け落ちたクルップ鋼の残骸を、その氷のような青い瞳が捉えた。

 

「――Wer da?(誰だ?)」

 

 低く、震え一つない声。

 潮崎は暗号機を抱えたまま、逆手に握ったナイフを水平に構えた。

 ヤップ島の静寂は、一瞬にして殺戮の舞台へと変貌した。




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