海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
「真崎さん。これ。見て」
八月も下旬に入ったある朝、拠点の地下で、黒石透がいつになく早口で真崎を呼んだ。
机の真ん中に、南洋から母船で運ばれてきた鉄の箱が据えてある。蓋が開いていて、中で真鍮のローターが三つ、鈍く光っていた。
「ヤップ島の、あれか」
「はい。キー、一つ叩く。ローター、一つ回る。回ると、中の回路が、切り替わる。見て。ほら」
黒石はキーを叩いた。カチャッ、と真鍮の歯車が一目盛り動く。叩く。カチャッ。叩く。カチャッ。
「同じAを打つ。一回目、G。二回目、X。三回目、Q。同じ文字が、二度と同じにならない。二つ目のローターは、一つ目が一周したら、一つ動く。三つ目は、二つ目が一周したら。二十六、掛ける二十六、掛ける二十六。……一万七千五百七十六。一万七千五百七十六回打つまで、同じ並びに戻らない」
「黒石」
「並べ方、入れ替えられる。三つなら、六通り。掛ける。……十万五千四百五十六。配線、ここ。つなぎ替えられる。つなぎ替えたら、また掛ける。……美しい」
「黒石、それは厄介なのか」
「厄介。美しい。厄介。美しい。以上。いや、以上じゃない」
黒石の頬に、赤みが差していた。美濃部の電報以来の顔色である。
真崎が口を挟む隙は、どこにもなかった。
「それと、ここを見てください、製造番号がやたらと若いんです、つまりこれは量産の前の試作機で、いや、量産どころか、こんな機械は世の中にまだないはずなんです、ドイツは本国で使う前に、わざわざ南洋の端っこで試していたということになります、本国にだってまだ何台もないはずで、ということは、これを今のうちに解いておけば、次に来る本物も同じ理屈で解けるわけで、本物が来る前にこっちは鍵を用意しておけるということなんですよ、真崎さん!」
黒石は、一息で言い切った。
真崎は、しばらく黙って黒石の顔を見ていた。
「……普通に喋れるなら、いつもそうしろ」
「疲れます。以上」
真崎が珈琲を淹れて戻ってきたときには、黒石はもうヘッドホンを耳に当て、真崎のことなど忘れたように、機械の中へ潜っていた。
唇から、数字と文字が、切れ目なく漏れ続けている。
部屋の隅で、真崎は角砂糖を三つ入れた珈琲を飲み干し、傍らの井川の肩を叩いた。
「おい、井川。そろそろ行こうか」
「いやはや……。あの方の熱に当てられますと、私の火薬まで湿気りそうです」
爆弾魔さえ辟易させる熱を地下室に残して、二人は逃げるように、上海の街へ出ていった。
*
その夜。上海の喧騒を足元に見下ろす老舗の料理屋「
円卓を囲んだのは、真崎、井川、黒石、そして愛玲の四人だった。明後日には「特命観戦武官」として青島へ発つ、真崎の壮行の宴である。
「ケイは来ないのか」
真崎が訊くと、黒石がヘッドホンを首にかけたまま答えた。結局、黒石も暗号機から引き剥がされて連れてこられたのだ。
「日本で婚礼。済ませて、そのまま艦隊へ。行き先、青島の沖。以上」
「……あいつらしいな」
真崎は、短く鼻を鳴らして、膝の脇に置いた包みを座布団の陰へ押しやった。レーン・クロフォードの、深紅のリボンがかかった包みである。
愛玲が、目ざとくそれを見ていた。
「それ、女への贈り物?」
「男だ」
「……それはそれで、面白いわね」
「秋月の結婚祝いだ。来るかと思って、持ってきた」
真崎は、杯を傾けた。
給仕が、大きな深皿を恭しく運んできた。細切りの田鰻を醤油で炒めた、上海の昔からの料理「
「熱いのでご注意を」
そう言うが早いか、小鍋で白い煙が立つほど熱したネギ油が、田鰻の上から回しかけられた。
ジュワァァッ!
爆ぜるような音とともに、焦がしニンニクと醤油の濃い香りが、卓の上で弾けた。
「いやはや、美しい!」
井川が、火薬で黄色く染まった指で箸を突き出し、身を乗り出した。白衣のボタンが、腹の上で悲鳴を上げている。
「この高い温度の油の、熱の伝わり方……まさに起爆の理屈です。大尉殿、ご覧ください。青島の分厚いコンクリートも、私の遅延信管で、この田鰻のように、内側からジュワッと……」
「食いながら喋るな」
「いやはや、失礼」
井川は熱々の田鰻を口に放り込み、火傷しそうな顔のまま、うっとりと目を細めた。
黒石は、一本つまんだきり箸を置いて、宙を睨んだまま、卓の上で指先をカタカタと動かしていた。見えない鍵盤を叩いている。
「……ローター三つ。……並べ替え。……配線、反転」
「黒石。食え」
「食べました」
「田鰻を一本だけだろう」
「十分。以上」
それから黒石は、卓の下から紙片を一枚、真崎の前へ滑らせた。几帳面な字で、数字が三行並んでいる。
「呼び出しの符号。周波数。時刻。夜の十時から、三分」
「毎晩か」
「毎晩。僕が、聞いてる」
黒石は、ヘッドホンのコードを指に巻いたまま、真崎の顔を見ずに付け足した。
「……困ったら、打って。困らなくても、打って。以上」
真崎は、紙片を黙って胸のポケットにしまった。
宴が終わりに差しかかったころ、愛玲が静かに口を開いた。
今夜の彼女は珍しく、西洋式のイブニングドレスに身を包んでいる。上海の社交界を渡り歩く、表の顔だった。
愛玲は、円卓の上に、折り畳んだ小さな紙を一枚、滑らせた。
「上海の
真崎は紙を受け取り、目を走らせた。人の名と、青島の中での接触の道筋が、几帳面な字で記されている。
「……なぜ、これを」
「あなたは、正面からぶつかる人だから。横の暗がりには、気が回らないでしょう。ドイツの守備隊より、その隣にいる連中のほうが、始末が悪いこともある」
愛玲は、紫煙を一筋、口元から吐いた。
それから、わずかに口角を上げて、真崎を正面から見る。その目に、いつもの棘はなかった。
「……上海に帰ってきなさい、ユウキ。マスターの盤面は、まだ始まったばかりだから」
真崎は、一拍置いて短く答えた。
「ああ。土産でも持って帰ってやる」
「ツケの利子の分も、それで払うつもり?」
「……青島ビールでどうだ」
「一本じゃ、足りないわよ。……期待しないで待っておくわ」
愛玲は薄く笑って、杯を傾けた。
*
真崎が席を立とうとしたとき、座敷の戸口に、音もなく長身の影が立っていた。
「……リーホォ。いつからそこにいた」
「今来たところさ。飯は、食わんよ」
李河は、座敷に上がらないまま、真崎より先に愛玲を見た。
「紙は、渡したか」
「渡したわ」
李河はそれ以上何も言わず、真崎のほうへ向き直った。
「大尉殿。一つだけ、土産を持たせておく」
「土産?」
「四メートル」
李河は、自分と真崎とのあいだの畳の目を、顎で数えてみせた。
「青島で、四メートルの間合いに、動かない男が立っていたら――撃つな。先に動いたほうが死ぬ」
「……拳銃の間合いだぞ」
「拳銃の間合いで、拳銃より速いのがいる。
李河の声は、いつもの陽気なままだった。けれど、目だけが笑っていなかった。
「……覚えておく」
「覚えておくだけでいい。考えたら、遅い」
それだけ言うと、李河はもう戸口から消えていた。
真崎は気を取り直して、帳場で財布を出す。
店主が、両手を振った。
「頂いております」
「誰から」
「上海の御隠居から。『大尉の分は、帰ってから払わせえ』と」
真崎は、しばらく財布を持ったまま立っていた。
後ろで、井川が「いやはや」と呟き、黒石が「以上」と付け足して、愛玲は何も言わずに笑っている。
外に出ると、黄浦江からの夜風が、まだ重く湿っていた。
明日の正午で、ドイツへの最後通牒の期限が切れる。
少しだけ種明かしを。
真崎たちが宴を開いた「老半斎」は、一九〇五年創業の実在する上海の老舗料理店です。淮揚料理(江南・上海系)の名店として租界時代から文人や政財界人に愛され、今も営業を続けています。
井川が「起爆の理屈」と喜んだ田鰻の料理は、熱したネギ油を目の前で回しかける「響油鱔糊」。油がはぜる音ごと味わう、上海の代表的な一皿です。
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