海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:yoshiume

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第二十八話 九・二インチ砲の洗礼

 二人の距離、四メートル。

 シュミットの太い親指が、ルガーの左側面にあるセーフティ・レバーを押し下げる。

 カチッ、という硬質な金属音が、凍りついた空気を切った。

 

 この瞬間、潮崎の脳内で世界は極端なスローモーションへと移行した。

 思考を排する。筋肉の収縮と弛緩、網膜に映る光の反射のみに意識を限定する。

 

 シュミットの指がトリガーを引く。

 ルガー特有のトグルアクションが跳ね上がり、九ミリ・パラベラム弾が初速三百五十メートルで飛び出す。

 

 ダァァンッ!

 

 コンクリートの壁を抉る、乾いた破裂音。

 だが、弾頭が空気を裂くコンマ数秒前、潮崎の肉体はすでに射線から消えていた。

 膝のバネと足首の極限の捻りを利用した歩法。重力に逆らわず、自ら前傾して床を滑るように進む。

 

 ダァン! ダァン!

 

 九ミリ弾の嵐が容赦なく潮崎を追う。

 シュミットの射撃は、プロイセン軍人特有の冷徹で機械的な正確さを伴っていた。

 潮崎は溶け落ちたクルップ鋼の残骸と瓦礫を盾に、姿勢を極限まで低くして死の弾道を躱す。

 飛び散る火花と鋭利なコンクリートの破片が頬をかすめ、血が滲んだ。

 

 やがて装弾数八発のルガーが空を撃ち、トグルアクションが開いたまま固定される「ホールドオープン」の硬質な音が響いた。

 

「今だ……!」

 

 潮崎が瓦礫を蹴って肉薄する。

 逆手に握られた軍用ナイフが、下から上へと致命の弧を描いた。

 

 しかし、シュミットは慌てる素振りすら見せなかった。

 空になった拳銃を、迷いなく投げ捨てる。

 一八五センチ、百キロの質量の塊が、潮崎の刃を真正面から迎え撃った。

 

 ガシィッ!

 

 骨が軋む鈍い音。

 シュミットの丸太のような剛腕が、潮崎のナイフを持つ右腕を万力のように掴み止めていた。

 

「Stirb, Ratte!(死ね、ドブネズミ!)」

「くそッ……!」

 

 圧倒的な膂力(りょうりょく)であった。

 潮崎はそのまま空中に持ち上げられ、背後の石壁へと強かに叩きつけられた。

 肺から空気が搾り出され、一瞬、目の前が真っ白になる。

 

 続けざまに、シュミットの分厚い軍靴が潮崎の腹部を抉りに来る。

 潮崎は辛うじて体を捻って躱すが、蹴り飛ばされた重い通信機材がひしゃげ、壁に深くめり込んだ。

 一撃でもまともに食らえば、内臓が破砕される。

 

 潮崎は壁を蹴り、シュミットの太い腕に関節を仕掛けた。

 だが駄目だ。百キロの筋肉の鎧は、関節を極める隙すら与えない。

 

「Verdammt!(忌々しい!)」

 

 シュミットが咆哮し、潮崎を乱暴に振り払う。

 両者は再び数歩の距離を取った。

 燃え盛る部屋には、荒々しい呼吸音だけが重苦しく響いている。

 

 シュミットが再び、地鳴りのような足音を立てて突進してくる。

 潮崎は逃げなかった。

 相手の踏み込みのベクトルに合わせ、自らその懐へと飛び込む。

 シュミットの巨大な拳が潮崎の頬をかすめて肉を裂くが、意に介さない。

 

 間合い、ゼロ。

 

 潮崎は渾身の力を込め、シュミットの膝裏へ強烈な蹴りを叩き込んだ。

 巨体がわずかにバランスを崩した刹那、左腕で相手の首根っこを絡め取り、右手のナイフを頸動脈へと突き立てようとする。

 同時にシュミットもまた、血走った眼で潮崎の喉笛を巨大な指で握り潰しにかかった。

 

 互いの命を削り合う、極限の攻防。

 どちらかの刃と指先が、急所を完全に捉えようとした、まさにその瞬間――。

 

 圧倒的な、質量の蹂躙によって、その「ちっぽけな殺し合い」は完全な無意味へと還元された。

 

 沖合に停泊していたイギリス装甲巡洋艦「マイノーター」の主砲が、火を噴いたのである。

 

 九・二インチ砲。

 そこから撃ち出された百七十キログラムに達する鋼鉄の砲弾が、ヤップ島へと飛来した。

 音速の二倍を超える飛翔体である。ゆえに、発射の砲音は聞こえない。

 

 もつれ合っていた二人が床に倒れ伏した直後、バリバリバリッ! という、空気を無理やり引き裂く高周波の絶叫が局舎の屋根に降り注いだ。

 

 着弾。

 

 ――刹那、視界が純白の閃光に染まり、世界から一切の音が消え失せた。

 衝撃波という透明な圧力の壁がマッハの速度で放射状に広がる。

 炎が部屋を舐めるよりも先に、凄まじい気圧差によって局長室の窓ガラスが粉微塵に粉砕された。

 潮崎は、目に見えない巨大な鉄のハンマーで殴られたように、宙を舞って壁に叩きつけられた。

 肺から空気が強制的に搾り出される。

 

 直後、炸薬の炎が局舎の天井を吹き飛ばし、足元のコンクリート床を紙細工のように陥没させた。

 床の破片が、散弾のように降り注ぐ地獄。

 

「……ッ!」

 

 潮崎は呻き声を殺し、血まみれの額を拭った。

 暗号機とコードブックを収めた防水袋を抱き抱える。

 衝撃で平衡感覚が狂う中、視線は、ぽっかりと口を開けた床の大穴――かつての「床下ピット」へと向けられた。

 

 艦砲の威力が、ハッチの影に隠しておいた命綱――ラバースーツとリブリーザーを、瓦礫ごと曝け出していたのだ。

 

 潮崎は崩れ落ちる瓦礫の底から、漆黒のゴムの塊と真鍮の装置を強引に引きずり出した。

 それらを小脇に抱え、骨組みだけとなった局舎の裏口から外へと飛び出す。

 

 その時である。

 

 頭上の断崖に、オレンジ色の業火を背負った数個のシルエットが浮かび上がった。

 砲撃の難を逃れたゼーバタリオンの兵士たち。真ん中の巨体は、シュミットだ。

 

「Da ist er!(あそこだ!)」

 

 暗闇を裂いて、シュミットのルガーが火を噴いた。

 九ミリ弾が潮崎の足元の岩礁を穿ち、鋭い破片を撒き散らす。

 だが断崖の上から荒れ狂う波打ち際までは距離があり、拳銃弾では届かない。

 

「Verdammt! Gib mir das Gewehr!(糞ッ! 銃を貸せ!)」

 

 シュミットは横の兵士の手から、制式小銃「ゲヴェーア九八式歩兵銃」を乱暴に毟り取った。

 ボルトを引き、七・九二ミリ・モーゼル弾を薬室に送り込む。

 強靭な肩に銃床を押し当て、シュミットの呼吸がピタリと止まった。

 怒りに我を忘れた獣ではなく、標的を確実に排除する冷徹な精密機械へと回帰した瞬間であった。

 

 潮崎の背筋に、絶対的な死の悪寒が走る。

 彼はリブリーザーの吸口を乱暴に咥え込むと同時、背後の漆黒の海へと背中から身を投げ出した。

 

 ズダァァァンッ!

 

 モーゼル小銃特有の、腹の底を揺らす轟音。

 初速八百メートルを超える尖頭弾が、潮崎の頭部があった空間を寸分違わず貫き、岩礁を抉り込んだ。

 だが、冷たい海水が、一瞬早く潮崎の肉体を呑み込んでいた。

 

 格闘戦と逃走で火照った筋肉が、急速に冷却されていく。

 頭上の水面では、イギリス艦隊の砲火と、水面を穿つドイツ兵の銃弾が、赤いフラッシュとなって瞬いている。

 しかし、海中数メートルの世界は、恐ろしいほどの静寂に包まれていた。

 

 潮崎はコンパスを頼りに、沖合の指定座標へとフィンを動かし始めた。

 

 やがて、暗い海の中に、巨大な黒い影が浮上してくるのが見えた。

 民間商船に偽装した特務母船から、密かに進水させていた日本帝国海軍の小型潜水艇である。

 

 潮崎は潜水艇のハッチに手をかけ、司令塔へと這い上がった。

 狭く、油臭い艦内に滑り込む。

 出迎えた乗員が、無言で潮崎から防水袋を受け取った。

 

 潮崎はハッチを閉める直前、最後にもう一度、水面からヤップ島を眺めた。

 夜空を焦がす炎。イギリスの装甲巡洋艦が、無骨な艦砲射撃を繰り返している。

 

 大英帝国は鉄塔を破壊して勝ったつもりでいる。

 だがドイツの声帯は、砲弾が届く前に日本の「影」が抜き取っていた。

 

 潮崎の口元に、冷徹で不敵な笑みが浮かんだ。

 秋月(あきづき)少佐が描いたグランド・デザイン。その最初の歯車が、今、完璧な形で噛み合った。

 

「潜航せよ」

 

 潮崎の短い命令とともに、ハッチが密閉される。

 鉄の鯨は、重苦しいディーゼルの産声を残し、深い夜の海へと静かに潜っていった。

 南洋の風は、やがて来る地球規模の大戦の血の匂いを運んで、いつまでも荒れ狂っていた。




少しだけ種明かしを。
本話に登場した装甲巡洋艦「マイノーター」は実在の艦です。一九一四年八月、英国東洋艦隊はヤップ島の大出力無線局を実際に砲撃し、ドイツの太平洋通信網を破壊しました。
おそらく史実では、無線局の中にあった機器の類は海の藻屑になっていることでしょう。
地球の裏側の南洋の孤島でも、大戦の波は容赦なく押し寄せていました。

最後までお読みいただきありがとうございます。
※続きは明日19:40に更新予定です。
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