海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
「冴子。今月は、帽子が七つだぞ」
父が、請求書を朝の食卓に置いた。銀座の洋品店の、薄緑の紙である。
大正三年八月二十三日。赤坂の神林邸の食堂には、朝から蝉の声が詰まっていた。
「八つですわ、お父様」
「一つは、昨日の夕方に届きましたの。請求書は来月に回ると、お店の方が」
「……八つ」
陸軍省軍務局長・神林毅一郎少将は、請求書を裏返し、また表に返した。数字が変わるわけではない。
「どこに被っていく。八つも」
「被るためのものではございません。眺めるためのものです」
「眺めるだけのものに、この値段か」
「眺めるだけのものだから、この値段なのですわ」
母は黙って茶をすすっている。この家で、母が口を挟むのは、何かを決めるときだけだ。
父は溜息をつき、懐中時計を開いた。
「今日の正午で、ドイツへの期限が切れる。今夜は遅くなる」
「存じております」
「……存じておるのか」
「昨夜、書斎の電話が十一回鳴りました。先月までは、一晩に二回でしたもの」
父が、ちらりと娘の顔を見た。
「数えておったのか」
「眠れませんでしたの。お布団が、暑くて」
冴子は、そこで箸を置いた。
「それで、お父様。お願いがございます」
「帽子なら、もう買わん」
「寝台が欲しゅうございます。洋式の、ベッドと申しますの」
父の口が、わずかに開いた。
「……武家の家に、寝台などというものが」
「では、三日ねだりますわ」
「三日ねだっても同じだ」
「冴子」
母が、湯呑みを置いた。
「寝台は、なりません」
「なぜですの、お母様」
「なりません」
それで話は終わった。母が決めたことに、理由がついたためしはない。
父は咳払いを一つして、玄関へ向かった。靴を履きながら、振り返らずに言った。
「……三日だぞ。四日はねだるな」
冴子は、父の背中に向かって小さく頭を下げた。母は、聞こえないふりをしていた。
*
昼前に、女中のお
「お嬢様、また銀座からでございます」
「ありがとう。そこへ置いて」
「このつばでは、門を通りませんよ」
「横にして通るわ」
「帽子を、でございますか。お嬢様を、でございますか」
「両方よ」
お民が笑いをこらえて下がると、冴子は襖を閉め、箱の蓋を開けた。
つばの広い、麦わらの帽子である。冴子は帽子には目もくれず、内張りの絹を爪の先でめくった。
縫い目の内側に、折り畳んだ紙が一枚。洋装カタログの、頁を一枚だけ切り取ったものだ。
品番に、赤い丸が三つついている。
三十一番。七番。五十六番。
冴子は、カタログの束を本棚から引き抜き、同じ頁を開いた。帽子、手袋、日傘。品番の下の、誰も読まない細かい注記を、指でなぞっていく。
「……上陸地点。兵の数。期日」
呟いてから、紙を小さく畳み直し、帯の間に落とした。
正午を少し過ぎたころ、表通りを号外の鈴が駆け抜けていった。
ちりん、ちりん、ちりん。
窓の下で、誰かが万歳を叫んだ。一人が叫ぶと、三人になり、十人になった。
*
父が帰ってきたのは、夜の九時を回ってからだった。郷田中佐を連れていた。
表通りには提灯行列が続いている。赤い灯が、坂の下から上へ、切れ目なく流れていく。
冴子は盆に紅茶を二つ載せ、書斎の扉を叩いた。
「失礼いたします」
「おお、冴子さん」
郷田が、額の汗を拭きながら顔を上げた。机の上には地図が広げられ、鉛筆の書き込みのある書類が何枚も重なっている。
「提灯行列はご覧になりましたか。いやあ、赤坂見附まで人で埋まって、車が動かんのです」
「ここの窓からも、よく見えますわ」
郷田は紅茶に牛乳を入れて、音を立ててかき混ぜた。
「閣下。やはり、
「
「しかし、竜口は中立国の土地です。外務が嫌がります」
「外務は何でも嫌がる。参謀本部は、竜口で押し切るそうだ」
父は地図の上を、指で北から南へなぞった。
「第十八師団。九月の頭には、上がる」
郷田は書類の欄外に、鉛筆で何かを書き込んだ。書く前に一度、芯の先を舐める。
冴子は盆を胸に抱えたまま、扉のほうへ下がった。
「それと、閣下。
「特命観戦武官か」
「はい。真崎です」
郷田の口が、苦いものを噛んだように歪んだ。
「上海へ飛ばしたと思えば、今度は青島ですか。あの男は、どこへ行っても帳簿を開きますぞ」
「落ち着かない男だ」
父は、紅茶を一口飲んだ。
「……だが、ああいうのも要る」
冴子は、そっと扉を閉めた。
*
郷田の人力車が帰っていったのは、夜中の一時だった。
父は書斎の机に鍵をかけ、その鍵を懐中時計の鎖に通して、寝室へ上がっていった。
家じゅうが寝静まるのを、冴子は自分の部屋で待つ。
表の提灯行列は、まだ続いている。窓から見える赤い灯を、冴子は数えかけて、やめた。三百を超えたところで、数える意味がなくなったからだ。
廊下に出る。足袋の裏で、床板の鳴らない場所だけを踏んでいく。
書斎の扉は、錠がかかっていない。かかっているのは、机の引き出しだけだ。
冴子は髪からピンを一本抜き、先を指で少し曲げた。
鍵穴に差し込む。
一つ、二つ、三つ、四つ――。
五つ目で、小さな音がした。
(五秒。……遅いわね)
引き出しの中に、さっきの書類がそのまま入っていた。
冴子は小さなランプの火を絞り、持ってきた薄い紙を書類の上に重ねた。
字を写していく。父の字は、父の字で。
欄外の郷田の書き込みは、郷田の字で。角張って、几帳面で、はねるところで必ず力が入る字だ。芯を舐めてから書くせいで、書き出しだけが濃くなる。その濃さまで、鉛筆の寝かせ方で真似る。
(先月の稟議書のときは、この字に三晩かかった。今夜は、一晩でいい)
最後の一枚は、地図だった。
冴子は帽子のピンを抜き、竜口に針の先を置いた。そこから、青島まで。ピンの長さで、何度か測り直す。
「……遠いわ」
声に出してから、冴子は口を押さえた。
書類の束のいちばん下に、辞令の写しが挟まっていた。
『特命観戦武官ヲ命ズ 陸軍歩兵大尉 真崎勇気』
冴子は、その名前をしばらく見ていた。
(ああ。真崎さん。左遷された大尉。さっきお父様が、落ち着かないとおっしゃっていた方)
左遷の朝に、目が死んでいなかった人。帳簿を開く人。上海へ飛ばされて、今度は青島へ行く人。
その名前も、郷田の字と同じように、薄い紙に写し取った。
廊下で、床板が鳴った。
冴子はランプを吹き消す。
足音が近づいてくる。父の、等間隔の足音だ。書斎の扉の前で、止まった。
冴子は息を止め、机の陰で身を縮める。薄い紙を、胸に押し当てる。
足音は、しばらく動かなかった。
それから、扉を開けることなく、また遠ざかっていった。厠のほうへ。
冴子は、暗闇の中で長く息を吐いた。
書類を元の順に戻し、引き出しを閉め、ピンを差し込んで錠を戻す。今度は、四秒で済んだ。
部屋に戻り、写した紙をどこにしまうかを考えた。
布団は、毎朝お民が上げる。枕の下も、敷布の下も、朝には全部ひっくり返される。
(寝台なら、上げる人はいないのに)
冴子は、昨日届いた麦わらの帽子を箱から出し、内張りの絹をもう一度めくった。
八つ目の帽子は、被るためのものではない。
*
翌朝。冴子は日傘を差して、三宅坂を上っていた。
手には、父が玄関に忘れていった扇子がある。忘れていったのか、忘れたふりをしたのかは、分からない。
陸軍省の門の脇に、荷車を引いた老爺が一人、店を出していた。冬には焼き芋を売っている荷車に、今は氷の塊と、赤い旗が載っている。
「おはようございます。一杯、いただけるかしら」
「へえ、みぞれで」
老爺はカンナで氷を削り、ガラスの器に山のように盛った。蜜をかけると、朝の光の中で、氷が薄い緑に透けた。
封筒の中には、ゆうべ帽子の内張りに隠した薄い紙が、注文書と一緒に入っている。
冴子は巾着から一銭を出し、それを洋品店の注文書の封筒の上に載せて、荷車の台に置いた。
注文書には、品番と数量だけが並んでいる。帽子が一つ、手袋が九組、日傘が十八本。
「あら、ごめんなさい。お店に出すものを一緒に置いてしまったわ」
「ようあることですけえ」
老爺は、一銭と封筒をいっしょに前掛けの隠しへ落とした。釣りは出てこなかった。
「冬には、また芋を?」
「へえ。芋は、冬まで待ってつかぁさい」
「冬には、何が上がるのかしら」
老爺は、氷を削る手を止めずに言った。
「さあ。わしは、氷を売っとるだけですんで」
冴子は、みぞれを一口すくった。冷たさが、こめかみまで抜けていく。
門の奥から、軍靴の音が絶え間なく出入りしていた。戦が始まった翌朝の陸軍省は、蜂の巣を突いたように騒がしい。
器を返し、日傘を開く。
扇子を門衛に預けると、冴子は坂を下りながら、小さく呟いた。
「帽子は、あと一つ要るわね」
最後までお読みいただきありがとうございます。
★投票・ブックマークいただけると今後の執筆においてこれ以上ない大きな励みになります。