海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:yoshiume
漆黒の南太平洋。
ヤップ島を焼き尽くすイギリス艦隊の艦砲射撃の残光が、水平線の彼方で消え入ろうとしていた。
潮崎拓馬を乗せた潜水艇は、闇に紛れて待ち合わせ座標へと浮上した。
そこには、民間商船に偽装した特務母船が、巨大な鉄の城壁のように立ち尽くしていた。
「
母船の甲板から怒声が飛ぶ。
マニラ麻を幾重にも編み込んだ巨大なクッションが降ろされるが、波に揉まれる潜水艇と母船が接触するたび、それは「キシキシ」とおぞましい悲鳴を上げた。
鋼鉄同士が擦れ合い、闇夜に火花が散る。
司令塔のハッチが蹴り開けられ、潮崎ら乗員が波飛沫を全身に浴びて外へ出た。
数メートル上には、母船から垂らされた縄梯子が、振り子のように激しく揺れている。
波の頂点。
潜水艇が母船の舷側に最も接近した刹那、潮崎は全身のバネを爆発させた。
しかし、予想以上に身体が重かった。
格闘戦で蓄積したシュミットの打撃、海中での酸素不足、脱出時に岩礁へ叩きつけられた衝撃。
それらが一気に請求書を突きつけてくる。
濡れた縄梯子を掴む瞬間、右腕の筋肉が熱く悲鳴を上げた。
構わず、腕力だけで己の肉体を引き上げる。
甲板に這い上がった直後、潮崎は一秒だけ膝をついた。
肺が冷たい海の空気を求めて激しく動く。
頬の裂傷から血が顎を伝い、甲板の鋼鉄を叩いた。
それだけだった。次の瞬間には立ち上がっている。
潮崎は背負っていた重厚な防水袋を外し、出迎えた特務機関の連絡員に向けて無造作に放り投げた。
「ぐッ……!」
受け取った連絡員が、その暴力的なまでの密度と質量に思わず呻き声を上げ、甲板に膝を沈み込ませた。
「これを上海の黒石に届けろ」
潮崎は、顔にへばりついた濡れ髪を乱暴に掻き上げながら、波飛沫の舞う暗い海面を見下ろして冷徹に言い放った。
「俺は帰らん。秋月少佐の別命で、このまま赤道海域に残り、南遣支隊の道案内をする」
それだけを告げると、潮崎は振り返ることなく、甲板の反対側に横付けされていた偽装帆船へとひらりと飛び降りた。
やがて、潜水艇のキングストン弁が開かれ、鉄の鯨が最期の気泡を吹き出しながら暗黒の深海へと沈んでいく。
潮崎は、エンジンを唸らせて魔都・上海へと針路を取る特務母船の黒い船影を、シニカルな笑みを浮かべたまま静かに見送っていた。
*
八月下旬、魔都・上海。
影の奇兵隊の地下拠点は、真空管のむせ返るような熱気とオゾンの匂いに満ちていた。
奪取された暗号機を前に、暗号解読の天才・黒石透は、狂気じみた歓喜の声を上げていた。
「真崎さん、見てください! ただの機械じゃない。論理が歯車となって配列された『思考の迷宮』です!」
黒石は蓋を開け、震える指で真鍮製ローターを撫で回した。
息継ぎすら忘れた早口が、堰を切ったように溢れ出す。
「一回キーを叩くごとに、ローターがカチャッと回転して内部回路が物理的に切り替わる。同じ『A』を連続で打っても、一文字目は『G』、二文字目は『X』に変わる。ローターが三つ……初期配列は一万七千通りを超えます。ドイツ人は人間の言葉を、電気と歯車の迷宮に閉じ込めようとしたんだ!」
黒石の瞳は血走り、機械油と絶縁ゴムの匂いにすっかり酔いしれているようだった。
「これを解き明かすには、陸軍の連中が好きな気合や根性なんて一ミリも役に立ちません! 必要なのは純粋な論理のメス、そして敵の配線構造を読み解く数学的直感です。ああ、美しい……。この電気回路の論理美、まさにプロイセンの
なおもまくしたてようとする黒石の熱量に、部屋の空気が重く淀む。
部屋の隅でミルク入り珈琲を飲んでいた真崎勇気は、静かにふうと紫煙を吐き出し、傍らに立つ井川の肩をポンと叩いた。
「おい、井川。そろそろ行こうか」
「あ……あぁ……」
爆弾魔すら辟易させるマニア特有の狂気を地下室に残し、二人は逃げるように魔都のネオンの中へと歩み出た。
*
その夜。上海の喧騒を足元に見下ろす老舗高級店「
円卓を囲むのは、陸軍大尉・真崎勇気、井川、黒石、そして愛玲の四人であった。
明日にも青島戦線へ「特命観戦武官」として発つ真崎の壮行の宴である。
「ケイは来ないのか」
真崎が問うと、黒石がヘッドホンを首にかけたまま、気怠げに答えた。
「日本から戻ってきてもう発ちましたよ。艦隊と合流して、青島近海へ向かうとか」
「……あいつらしいな」
真崎は短く鼻を鳴らし、杯を傾けた。
最初の皿は、黄金色に輝く皮をまとった地鶏の冷菜――「
十五年物の極上の紹興花彫酒にじっくりと漬け込まれたその肉から、芳醇な香りが立ち昇る。
愛玲は銀の箸でそれをつまみ、一滴のタレも衣服に落とさぬ洗練された所作で口に運んだ。
間髪を入れず、給仕が大きな深皿を恭しく運んできた。
「
「熱いのでご注意を」
給仕がそう言うが早いか、小鍋で白煙を上げるほど熱されたネギ油が、田鰻の上から「ジュワァァッ!」と豪快に振りかけられた。
爆ぜるような凄まじい音とともに、焦がしニンニクと中国たまり醤油の濃厚な香りが爆発する。
「ひゃははっ、素晴らしい!」
井川が、火薬の染み付いた黄色い指で箸を突き出し、熱狂的に叫んだ。
「この高温の油がもたらす爆発的な熱伝導……まさに完璧な起爆のメカニズムだ! 真崎大尉、見ていてください。青島の堅牢なコンクリートも、俺の遅延信管でこの田鰻のようにジュワッと内側から爆ぜてみせますよ!」
井川は、火傷しそうな田鰻を放り込み、咀嚼しながら恍惚とした表情を浮かべた。
宴が最高潮に達した時、円卓の中央に大皿を覆い尽くすほどの巨大な肉の塊が鎮座した。
「
真珠のように透き通った脂身が、わずかな振動でプルリと崩れ落ちる。
だが、黒石はその極上の脂身には一切目もくれず、虚空を睨みつけたまま、テーブルの上で指先をカタカタと見えない鍵盤を叩くように動かし続けていた。
「……ローターの初期配列が一万七千通り……いや、プラグボードを噛ませて電気回路の反転を考慮すれば……」
(……こいつらにとっては、戦争すらも極上の玩具というわけか)
真崎は短く鼻を鳴らすと、無骨な手つきで箸を突き立て、分厚い豚の肉塊を口に放り込んだ。
濃厚な豚の脂の甘みと醤油の深いコクが、脳髄を直接揺さぶる。
化学反応に涎を垂らす井川の狂気。見えない数字の海を泳ぐ黒石の執念。
彼ら異端児たちが見据えているのは、「精神」などという曖昧なものではない。
純粋な物理と計算の世界である。
宴も終わりに差し掛かった頃、愛玲が静かに口を開いた。
今夜の彼女は珍しく、中国式ではなく西洋式のイブニングドレスに身を包んでいる。
上海の社交界を渡り歩く「表の顔」そのものだ。
愛玲は円卓の上に、折り畳まれた小さな紙を一枚、静かに滑らせた。
「上海の
真崎は紙を受け取り、目を走らせた。
人名と青島内の接触ルートが、几帳面な字で記されている。
「……何故これを」
「あなたは正面からぶつかるタイプだから、側面の暗がりに気が回らないでしょう。ドイツ守備隊より、その隣にいる連中の方が始末が悪い場合がある」
愛玲は紫煙を一筋、口元から吐き出した。
それから、わずかに口角を上げ、真崎を正面から見据えた。
その視線には、普段の棘がなかった。
「……上海に帰ってきなさい。高杉先生の盤面は、まだ始まったばかりだから」
真崎は一拍置いて、短く答えた。
「ああ。土産でも持って帰ってやる」
「期待しないで待っておくわ」
愛玲は薄く笑い、杯を傾けた。
宴の締めを飾ったのは、小さな陶器の壺に入った黄金色のスープ「小壺入り佛跳牆《フォーティオウチャン》」であった。真崎は無言でそれを飲み干した。
*
宴が終わり、魔都・上海に青白い夜明けが訪れる。
朝靄の向こう、黄浦江には各国の軍艦のシルエットが幽霊のように浮かんでいた。
真崎勇気は、軍帽の庇を深く下げ、港へと向かう車に一人で乗り込んだ。
ポケットの中には、愛玲から受け取った紙片と、特命観戦武官の辞令が並んでいた。
「……行くか」
若き陸軍将校は静かに呟き、魔都を後にした。
ボォォーーーッ!
腹の底を揺るがす汽笛が、黄浦江に鳴り響いた。
少しだけ種明かしを。 真崎たちが宴を開いた「老半斎」は、一九〇五年創業の実在する上海の老舗料理店です。淮揚料理(江南・上海系)の名店として租界時代から文人や政財界人に愛され、今も営業を続けています。
締めに登場した「佛跳牆」は、フカヒレ・アワビ・干し貝柱など二十種以上の食材を壺に封じて長時間煮込む福建省の宮廷料理。店が真崎たちのために特別に用意したこのスープは、「あまりの香りに、修行中の僧侶でさえ塀を跳び越えてくる」という意味の名前です。
最後までお読みいただきありがとうございます。
※続きは明日19:40に更新予定です。
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