海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:吉田梅之助

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第二十九話 日独開戦

「東京発!」

 

 黒石透が、紙テープを握ったまま、地下室の階段を駆け下りてきた。

 

「本日正午、対独宣戦ノ詔書。……以上ッ」

 

 大正三年八月二十三日。大日本帝国は、ドイツ帝国に宣戦を布告した。

 

 上海の地下の拠点には、真空管と機械油の匂いが立ちこめている。明日の朝に青島(チンタオ)へ発つ真崎勇気は、出立の挨拶のために、いちばん奥の部屋に立っていた。

 

「大尉殿! 例の品、権藤大佐の裏の筋で、無事に陸軍の輸送船へ紛れ込ませましたよ」

 

 白衣の腹を揺らしながら、井川が駆け寄ってきた。手には、油にまみれた青写真が一枚握られている。

 

「私ども特製の『遅延信管』です。当たった瞬間に表で爆ぜるのではなく、ドイツの分厚いコンクリートの奥に食い込んでから起爆する。いやはや、あの頭の固い陸軍が、よくもまあ、こんな出どころの怪しい品を受け取ってくれたものです」

「権藤大佐が、書類の上では『新兵器効力検定』という名目でねじ込んでくれた。……これで、連中の自慢のビスマルク砲台も、ただの大きな墓標になる」

「それと、大尉殿。こちらを」

 

 井川は、背中に回していた紙の束を、うやうやしく差し出した。表紙に、角ばった字で『遅延信管 説明書』とある。辞書よりも厚い。

 

「書きましたとも。大尉殿に言われましたから」

「……何頁ある」

「百九十二頁です。前回の、ちょうど倍になりました」

「夜中に、手のかじかんだ一等卒が、これを読めると思うか」

「大事なことは、図の余白に書いておきました」

「余白に書くな」

 

 真崎は溜息をついて、その束を丸ごと鞄に押し込んだ。船の上で、読める一枚に書き直すしかない。

 

「ふん。三宅坂の青瓢箪(あおびょうたん)どもも、ようやっと少しは頭を使い始めたか」

 

 部屋の奥で三味線を爪弾いていた高杉晋作が、おもむろに立ち上がった。

 七十五歳の体でありながら、その目には、幕末の動乱をくぐり抜けた者だけが持つ、ぎらぎらした光が宿っている。高杉はゆっくり歩み寄って、真崎の肩を、骨ばった手でがしりと掴んだ。

 

「三宅坂の温室から、この街の饐(す)えた熱まで、よう潜り抜けた。……真崎。ここで覚えた盤の外の戦い方を、全部使うて、存分にやってこい。気合いや根性ではのうて、物の理屈の力で、あの白兵突撃の時代を終わらせてみせい」

「命に代えても、証拠は持ち帰ります」

「阿呆」

 

 高杉は、真崎の肩を掴んだ手に力を込めた。

 

「死んだら、証拠が届かん。生きて、持って帰れ」

 

 それから高杉は、懐から小さな風呂敷包みを取り出し、真崎の手に押しつけた。

 

「船で開けい。それまでは、開けるな」

「……何です、これは」

「開けたら分かる」

 

 真崎は包みを受け取り、深く一礼した。

 

「行ってまいります。……先生」

 

 軍帽を被り直し、迷いのない足取りで、地下室の階段を上っていく。

 一段、また一段と踏みしめるたびに、地下室の青白い光が薄れていく。黒石が紙テープと格闘する乾いた音、井川の口ずさむ鼻歌、そして三味線の、最後の一撥(ひとばち)。

 

(ここに戻ってくるかどうかは、分からない)

 

 その考えが一瞬だけ頭をよぎったけれど、次の瞬間にはもう消えていた。

 階段の上で、まぶしい夏の光が口を開けていた。

 

  *

 

 翌朝、黄浦江の埠頭。

 長江が遥か内陸から運んできた黄土色の泥水が、波打ちながら岸壁を叩いている。川面には無数の蒸気船がひしめき、石炭の真っ黒な煤煙を、遠慮もなく吐き出していた。

 

 上半身裸の苦力(クーリー)たちが、汗まみれの背中を光らせながら、「ヘイヤ、ホウヤ」と単調な掛け声を響かせて、木箱を担いでいる。竜口へ向かう陸軍の御用船への積み込みだった。

 その喧騒の中で、真崎は革のトランクを傍らに置き、積み込みの様子をじっと見ていた。手元の帳面に、上がっていく木箱の数を、一つずつ書き込んでいく。

 

「……大尉さん」

 

 足元で、小さな声がした。

 擦り切れた布靴に、泥のこびりついた爪先。阿毛だった。

 

「どこ、行く」

「青島だ。戦をしに行く」

「帰ってくるか」

 

 真崎は、帳面から目を上げずに答えた。

 

「帰ってくる。帰ったら、生煎をおごってやる」

「二つ」

「……二つだ」

 

 阿毛は、それで満足したように頷き、人ごみの中へ走り去っていった。

 

 ふいに、真崎の鼻が、場違いな匂いを捉えた。

 汗と石炭の煤煙と、香辛料の重い湿気の中に、ジャスミンとバラ、その奥にナツメグの甘い粉っぽさが、幾重にも絡み合っている。

 フランソワ・コティの『ロリガン』だった。

 

 ただし、薄い。

 長崎から上海へ向かう船の喫煙室で嗅いだときの、ちょうど半分ほどの濃さである。

 

「青島へ、赴かれるのですかな」

 

 背後から、流暢な日本語が聞こえた。

 真崎は足音を立てずに、ゆっくり振り返った。完璧な仕立ての背広を着た男が、髪を撫でつけ、鼈甲(べっこう)縁の眼鏡の奥から、涼しい目をこちらに向けている。男が立っていたのは、陸軍の木箱が積み上げられた、そのすぐ脇だった。

 

「あんたは……長崎から上海へ向かう船で会った」

「覚えていてくださいましたか」

 

 男は口元に薄い笑みを浮かべ、ステッキの先で、軽く石畳を叩いた。

 

「香水は、言われたとおり、半分にしてみましたよ。……洒落て見えますか」

「こんな埃っぽい埠頭で、何をしている」

「海風に当たっていただけですよ。上海は、少し内側へ入ると、まだまだとんでもない熱気ですからね」

 

 汗と石炭の粉にまみれた苦力たちの中で、男の佇まいだけが、気味が悪いほど浮き上がっていた。

 

「ところで……青島には、ドイツが堅固きわまる要塞を築いていることは、当然ご存じで?」

 

 真崎の目が、わずかに険しくなった。民間人が軽々しく口にするには、生々しすぎる話である。

 

「あそこには、ドイツが極東の総力を集めて造った『ビスマルク砲台』がある。鉄血宰相の名を冠しているのだから、さぞ堅いのでしょうな。日本の陸軍さんは、いったいどうやって、あれに立ち向かうのでしょう……? ええ、実に楽しみですねぇ」

「……もう行かなければならない。立ち話をしている暇はないのでな。失礼する」

 

 短く打ち切り、真崎が背を向けようとした、その瞬間だった。

 

 ――世界から、音が消えた。

 

 黄浦江の波の音も、苦力たちの怒号も、けたたましい汽笛も、すべてが遠くへ退いていく。

 殺気、というありふれた言葉では足りなかった。背広の男は一歩も動いていないのに、その内側に押し込められた途方もない力が、見えない刃になって、真崎の首筋に突きつけられている。

 

 真崎は、目だけで間合いを数えた。

 四メートル。

 

(……青島で、四メートルの間合いに、動かない男が立っていたら――)

 

 李河は、青島で、と言った。その男は、船に乗る前の埠頭に、もう立っている。

 腰のモーゼルに手が伸びかけて、真崎はそれを止めた。

 

(撃つな。先に動いたほうが死ぬ)

 

 長い銃身を構える前に、見えない力が鳩尾を貫く。李河が言った、発勁(はっけい)の間合いだった。

 

(……アイリィンの紙。上海の青幇(チンパン)の一派が、ドイツ側について青島に入っている)

 

 このロリガンの男は、その「側」の人間なのか。

 真崎は、息を極限まで浅くして、膝から力みを抜き、その場に自分を縫いとめる。数秒のようでも、数時間のようでもある、濃い死の硬直だった。

 

 やがて男は、ふっと、その異常な圧を消した。

 

「……よい旅を。日本の軍人さん」

 

 男は優雅に会釈すると、踵を返し、黄浦江から立ちこめる煤煙の中へ、足音一つ立てずに消えていった。

 真崎は、深く息を吐き出して、強ばった体をほどいた。

 

(あの男……何者だ)

 

 岸壁に残ったロリガンの香りは、半分の量だったぶん、すぐに石炭の煤煙に紛れて、分からなくなった。




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