海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
「東京発!」
黒石透が、紙テープを握ったまま、地下室の階段を駆け下りてきた。
「本日正午、対独宣戦ノ詔書。……以上ッ」
大正三年八月二十三日。大日本帝国は、ドイツ帝国に宣戦を布告した。
上海の地下の拠点には、真空管と機械油の匂いが立ちこめている。明日の朝に
「大尉殿! 例の品、権藤大佐の裏の筋で、無事に陸軍の輸送船へ紛れ込ませましたよ」
白衣の腹を揺らしながら、井川が駆け寄ってきた。手には、油にまみれた青写真が一枚握られている。
「私ども特製の『遅延信管』です。当たった瞬間に表で爆ぜるのではなく、ドイツの分厚いコンクリートの奥に食い込んでから起爆する。いやはや、あの頭の固い陸軍が、よくもまあ、こんな出どころの怪しい品を受け取ってくれたものです」
「権藤大佐が、書類の上では『新兵器効力検定』という名目でねじ込んでくれた。……これで、連中の自慢のビスマルク砲台も、ただの大きな墓標になる」
「それと、大尉殿。こちらを」
井川は、背中に回していた紙の束を、うやうやしく差し出した。表紙に、角ばった字で『遅延信管 説明書』とある。辞書よりも厚い。
「書きましたとも。大尉殿に言われましたから」
「……何頁ある」
「百九十二頁です。前回の、ちょうど倍になりました」
「夜中に、手のかじかんだ一等卒が、これを読めると思うか」
「大事なことは、図の余白に書いておきました」
「余白に書くな」
真崎は溜息をついて、その束を丸ごと鞄に押し込んだ。船の上で、読める一枚に書き直すしかない。
「ふん。三宅坂の
部屋の奥で三味線を爪弾いていた高杉晋作が、おもむろに立ち上がった。
七十五歳の体でありながら、その目には、幕末の動乱をくぐり抜けた者だけが持つ、ぎらぎらした光が宿っている。高杉はゆっくり歩み寄って、真崎の肩を、骨ばった手でがしりと掴んだ。
「三宅坂の温室から、この街の
「命に代えても、証拠は持ち帰ります」
「阿呆」
高杉は、真崎の肩を掴んだ手に力を込めた。
「死んだら、証拠が届かん。生きて、持って帰れ」
それから高杉は、懐から小さな風呂敷包みを取り出し、真崎の手に押しつけた。
「船で開けい。それまでは、開けるな」
「……何です、これは」
「開けたら分かる」
真崎は包みを受け取り、深く一礼した。
「行ってまいります。……先生」
軍帽を被り直し、迷いのない足取りで、地下室の階段を上っていく。
一段、また一段と踏みしめるたびに、地下室の青白い光が薄れていく。黒石が紙テープと格闘する乾いた音、井川の口ずさむ鼻歌、そして三味線の、最後の
(ここに戻ってくるかどうかは、分からない)
その考えが一瞬だけ頭をよぎったけれど、次の瞬間にはもう消えていた。
階段の上で、まぶしい夏の光が口を開けていた。
*
翌朝、黄浦江の埠頭。
長江が遥か内陸から運んできた黄土色の泥水が、波打ちながら岸壁を叩いている。川面には無数の蒸気船がひしめき、石炭の真っ黒な煤煙を、遠慮もなく吐き出していた。
上半身裸の
その喧騒の中で、真崎は革のトランクを傍らに置き、積み込みの様子をじっと見ていた。手元の帳面に、上がっていく木箱の数を、一つずつ書き込んでいく。
「……大尉さん」
足元で、小さな声がした。
擦り切れた布靴に、泥のこびりついた爪先。阿毛だった。
「どこ、行く」
「青島だ。戦をしに行く」
「帰ってくるか」
真崎は、帳面から目を上げずに答えた。
「帰ってくる。帰ったら、生煎をおごってやる」
「二つ」
「……二つだ」
阿毛は、それで満足したように頷き、人ごみの中へ走り去っていった。
ふいに、真崎の鼻が、場違いな匂いを捉えた。
汗と石炭の煤煙と、香辛料の重い湿気の中に、ジャスミンとバラ、その奥にナツメグの甘い粉っぽさが、幾重にも絡み合っている。
フランソワ・コティの『ロリガン』だった。
ただし、薄い。
長崎から上海へ向かう船の喫煙室で嗅いだときの、ちょうど半分ほどの濃さである。
「青島へ、赴かれるのですかな」
背後から、流暢な日本語が聞こえた。
真崎は足音を立てずに、ゆっくり振り返った。完璧な仕立ての背広を着た男が、髪を撫でつけ、
「あんたは……長崎から上海へ向かう船で会った」
「覚えていてくださいましたか」
男は口元に薄い笑みを浮かべ、ステッキの先で、軽く石畳を叩いた。
「香水は、言われたとおり、半分にしてみましたよ。……洒落て見えますか」
「こんな埃っぽい埠頭で、何をしている」
「海風に当たっていただけですよ。上海は、少し内側へ入ると、まだまだとんでもない熱気ですからね」
汗と石炭の粉にまみれた苦力たちの中で、男の佇まいだけが、気味が悪いほど浮き上がっていた。
「ところで……青島には、ドイツが堅固きわまる要塞を築いていることは、当然ご存じで?」
真崎の目が、わずかに険しくなった。民間人が軽々しく口にするには、生々しすぎる話である。
「あそこには、ドイツが極東の総力を集めて造った『ビスマルク砲台』がある。鉄血宰相の名を冠しているのだから、さぞ堅いのでしょうな。日本の陸軍さんは、いったいどうやって、あれに立ち向かうのでしょう……? ええ、実に楽しみですねぇ」
「……もう行かなければならない。立ち話をしている暇はないのでな。失礼する」
短く打ち切り、真崎が背を向けようとした、その瞬間だった。
――世界から、音が消えた。
黄浦江の波の音も、苦力たちの怒号も、けたたましい汽笛も、すべてが遠くへ退いていく。
殺気、というありふれた言葉では足りなかった。背広の男は一歩も動いていないのに、その内側に押し込められた途方もない力が、見えない刃になって、真崎の首筋に突きつけられている。
真崎は、目だけで間合いを数えた。
四メートル。
(……青島で、四メートルの間合いに、動かない男が立っていたら――)
李河は、青島で、と言った。その男は、船に乗る前の埠頭に、もう立っている。
腰のモーゼルに手が伸びかけて、真崎はそれを止めた。
(撃つな。先に動いたほうが死ぬ)
長い銃身を構える前に、見えない力が鳩尾を貫く。李河が言った、
(……アイリィンの紙。上海の
このロリガンの男は、その「側」の人間なのか。
真崎は、息を極限まで浅くして、膝から力みを抜き、その場に自分を縫いとめる。数秒のようでも、数時間のようでもある、濃い死の硬直だった。
やがて男は、ふっと、その異常な圧を消した。
「……よい旅を。日本の軍人さん」
男は優雅に会釈すると、踵を返し、黄浦江から立ちこめる煤煙の中へ、足音一つ立てずに消えていった。
真崎は、深く息を吐き出して、強ばった体をほどいた。
(あの男……何者だ)
岸壁に残ったロリガンの香りは、半分の量だったぶん、すぐに石炭の煤煙に紛れて、分からなくなった。
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