海霧の中の奇兵隊―死んだはずの高杉晋作と、乃木大将が遺した隠し遺書―   作:yoshiume

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第三話 天保銭

 真崎勇気の運命が決まったのは、あんこう鍋の湯気の中だった。

 

 大正三年(一九一四年)春。赤坂の料亭『山月』の奥座敷。軍務局長・神林毅一郎(かんばやしきいちろう)少将が、芸妓たちを人払いで廊下へ下がらせた後、ぽつりとこぼした。

 

「――それで、郷田(ごうだ)。お前の局で、最近少しうるさいハエが飛んでいるようだな」

 

 日露戦争の激戦を潜り抜けた証である顔の傷跡が、微かに歪む。

 

 部屋の片隅では、熟練の仲居が一人、音もなく控えていた。将校たちの密談には一切耳を貸さぬ「見ざる、聞かざる」の体で、備長炭が赤々と熾おこる七輪の火加減を絶妙に操っている。今宵の主役、あんこうの肝をじっくりと鍋で煎いりつける。濃厚な脂が焦げる香ばしい匂いと、小気味よいジューという音が座敷に広がり、割り下と七つ道具が絶妙な順序で落とされていく。

 

 国家の軍略と一人の若手将校の運命が、まるで日常の雑事のように冷酷に決定されていく。その異常な緊張感はさておき、極上の鍋の熱気が座敷に満ちていた。

 

 赤坂から新橋にかけての花街は、政・財界人や高級軍人たちが夜ごと集う奥の院だ。後年に「質素勤勉の代名詞」として語られる乃木希典大将でさえ、若き日には料亭に足繁(あししげ)く通い、激しい放蕩(ほうとう)にふけった時期があるほどである。三宅坂での「昼の顔」を脱ぎ捨てた将校たちは、この密室で本来の顔を晒す。「大和魂」を声高に叫ぶ精神論者が、夜の赤坂では派閥の打算と予算のぶんどり合いに明け暮れる。それが帝国陸軍を深く蝕んでいた、もう一つの不治の病であった。

 

 神崎の向かいで九谷焼(くたにやき)の杯を傾けていた郷田龍一郎(ごうだりゅういちろう)中佐は、居住まいを正した。

 陸軍大学校を優秀な成績で卒業した者だけが佩用(はいよう)を許される真鍮製の卒業徽章――その形から隠語で『天保銭(てんぽうせん)』と呼ばれる――の持ち主だ。彼が飲んでいるのは灘の銘酒「剣菱(けんびし)」。赤穂浪士(あこうろうし)の討ち入りにも供されたという骨太でキレのある辛口が、あん肝の濃厚な脂をすっきりと洗い流す。日露を勝ち抜いた長州閥エリートたちの武骨さを、そのまま体現した「男酒」である。

 

「はっ。真崎勇気大尉のことかと存じます。近く開かれる『次期国防方針』の会議の場で、現行の歩兵操典を根本から否定し、火力戦への転換を訴える大がかりな上申を企てているようです」

 

 郷田は憂慮の表情を浮かべた。

 

「真崎の調査能力と欧州の分析は、確かに優秀です。しかし、今の血の気の多い局内で『白兵主義の否定』を公言すれば、過激な精神論者たちが黙っておりません。軍務局内の統制と秩序が、根底から崩壊しかねません。会議の前に、私が何らかの理由をつけて潰すべきかと」

 

 白兵主義は、単なる無知の産物ではなかった。欧州列強も開戦当初は似たような突撃思想を持っており、日本陸軍もまた「最後は肉薄突撃で決を与える」という消去法的な結論を当時の合理として選び取った。問題は欧州の軍隊が塹壕戦に直面して戦術を進化させたのに対し、帝国陸軍の進化だけがそこで止まったことだ。乃木の神格化が、その停止に決定的な拍車をかけた。

 

「……いや、構わん。発言はさせてやれ」

 

 神林は杯を置き、低く唸るように言った。

 

「奴の言う『火力の現実』は、理にかなっている。だが郷田、軍という巨大な組織は、正しい理屈だけでは動かせんのだ。二十万の将兵が血を流した日露の成功体験と、それにすがる者たちのメンツを無理に剥ぎ取れば、組織は必ず内側から割れる」

 

 神林の言葉には、才気走った若者を持て余す、老練なバランサー特有の苦渋が滲んでいた。

 

「真崎の青臭い正義は、今の帝国陸軍には劇薬すぎる。会議の場では存分に吠えさせ、ガスを抜かせてやれ。だが……その後は、軍の秩序を乱したという事実を理由に、彼には少し、三宅坂から離れて『頭を冷やしてもらう』必要がある」

 

「……左遷、でありますか」

 

 郷田はわずかに目を瞬かせた。

 

「真崎を参謀本部付とし、上海駐在として飛ばせ。あそこはイギリスやアメリカが牛耳る共同租界、フランス租界、そして華界と、三つの領域が複雑に入り組む世界でも類を見ないモザイク都市だ。法も警察権も統一されておらず、法の隙間を縫って青幇(チンパン)のような裏社会の顔役や、列強各国の諜報機関が血で血を洗う暗闘を繰り広げている」

 

 神林はわずかに目を細め、続けた。

 

「三宅坂で正論を振りかざしても国は動かん。あそこは大砲の数も理屈も通用せぬ、列強が鎬を削る謀略の最前線だ。頭でっかちのあの男に、世界の『国力と狡猾さ』を肌で学ばせろ。己の無力を知り、泥にまみれて現実を直視してくるのも……あの優秀な頭脳には、必要な冷却期間だ」

 

「なるほど。単なる厄介払いではなく、外の風に当てて『現実の冷酷さ』を叩き込むと。見事なご差配であります」

 

 郷田は深く頭を下げた。

 だが、神林の瞳の奥には、優秀すぎる部下をあえて修羅場へ突き落とす、老練な武将特有の冷徹な期待が微かに揺れていた。

 

   *

 

 座敷の空気がふっと弛緩した。

 弛緩した空気の中で、郷田は手酌で杯を満たしながら、何気なく話を向けた。

 

「そういえば閣下、令嬢のご縁談は、その後いかがでございますか。先日、参謀本部の桐島大佐からも、ぜひにというお話があったと伺いましたが」

 

 神林は、それまでの冷徹な少将の顔を脱ぎ捨て、深い溜息をついた。

 

「……桐島の話は、立ち消えになった」

「はあ。それはまた、なぜ」

「見合いの席に、あれが何を着てきたと思う」

 

 郷田は首を傾げた。

 

「パリの婦人雑誌で見たとかいう、膝が見えるほど丈の短いワンピースとやらだ。つばの広い帽子まで被って。桐島は開口一番、『令嬢は……洋行のご経験が?』と聞いてきた。そのまま話は終わった」

 

 郷田は咳払いで笑いを押し殺した。

 

「家に戻れば戻ったで、外国の婦人雑誌だの、百貨店の洋装カタログだのを山と積み上げて、一日中それを眺めている。縁談に全く興味がない。先週は銀座の洋品店から、帽子だけで三点も届いた。陸軍少将の娘が何をしているのか」

 

「は、はあ……」

 

「困ったものだ」と神林は言ったが、その声にはどこか諦念の中に、父親特有の甘さが混じっていた。

 

「まあ、頭だけは切れる。切れすぎて、周りが見えておらんのかもしれんが」

 

 郷田は神妙な顔で頷きながら、内心では(そのお嬢さんを嫁にもらいたい若手将校など、この帝国には一人もおるまい)と思っていた。

 

   *

 

 翌日、三宅坂の陸軍省において、真崎勇気の上海への左遷辞令の起案が始まった。

 それは、真崎という一人の若手将校の青き正義が、厚さ数十メートルにも及ぶ「巨大な官僚組織の壁」に弾き返された瞬間であった。

 だが、赤坂の料亭で己の保身と組織の論理に酔いしれていた彼らは、この時まだ誰も気づいていなかった。

 巨大なインテリジェンス都市・上海へと追放したその異端児が、帝国陸軍そのものを根底からひっくり返す巨大な爆弾となって、自分たちの頭上に舞い戻ってくるということを。

 




◆あとがき◆
少しだけ舞台裏の話を。

当時の帝国陸軍は「軍政」と「軍令」という二つの巨大な車輪で動いていました。兵員の徴募、兵器の調達、予算獲得、議会との政治折衝を担うのが陸軍省。作戦立案や部隊運用を担うのが、天皇直隷の参謀本部です。

参謀本部がいかに壮大な作戦を立案しようとも、陸軍省が予算をぶんどり、大砲と食料を調達しなければ、兵は一歩も動けない。

神崎少将たちが料亭で密談する「軍務局」とは、その陸軍省の中枢——編制、動員、予算の実務を牛耳る最大の権力機関です。純粋な戦術家ではなく、国家予算と軍政策を左右する「制服を着た官僚」たちの巣窟でした。

真崎が対峙しているのは、敵国ではなく、この巨大な官僚機構です。

次話もお付き合いください。

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