海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
ズドン。
庭先で、乾いた炸裂音がした。
真崎勇気は、思わず身を屈めた。
「――なんだ、来ておったのか」
濡れ縁の先、猟銃を構えたまま、白髪の老人が振り返った。銃口は、隣家の一切ない崖側の松林に向けられている。庭木の梢で、撃ち落とされた椋鳥が一羽、朝露を散らしながら落ちていく。
大正三年(一九一四年)、早春。大磯・東小磯。潮の香りに、ほのかな梅の匂いが混じっていた。
帝国陸軍における「火力の祖」――
「鳥まで撃たれては、敵いませんな」
「ただの朝飯だ。気にするな」
庭には、村田自慢の黒松が三本、手入れの行き届いた枝ぶりを見せていた。その根元に、羽根の散った椋鳥が転がっている。使用人らしき老爺が、慣れた様子でそれを拾い上げ、勝手口へ消えていった。この家では、朝の一発は珍しくもないらしい。
村田は猟銃の脱包を確認し、縁側の銃架へ音を立てず置くと、真崎が差し出した風呂敷包みに目を留めた。待ちきれぬ様子で、指が包みの結び目にかかる。
「……ほう!」
現れたのは、ドイツ・モーゼル社製C96型自動拳銃。全長二百七十ミリ、口径七・六三ミリ。木製のショルダーストックを兼ねた専用ホルスターを備える、当時最先端の一挺である。内蔵された十連発マガジンの薬莢が、朝の光を受けて鈍く光っていた。老将の目が、少年のように輝いた。
「横浜の旧居留地で手に入れました」
「値は聞かん。野暮というものだ」
村田は老眼鏡を取り出し、機関部を覗き込んだ。分解、確認、また分解。撃鉄を親指で起こし、照準を庭先の松の幹に合わせては下ろす。老いた指が、まるで若返ったように滑らかに動いた。
「重心が前寄りだ……なるほど、送弾機構がまるで違う」
しばらくの間、村田は真崎の存在をすっかり忘れていた。真崎は黙って茶を飲みながら、その様子を眺めていた。
(この人が、帝国陸軍で最初に近代的な銃を作った人間か)
近く開かれる国防方針会議で、真崎は白兵主義の廃棄を訴えるつもりでいる。上官たちの反発は、目に見えていた。潰される前に、この老人にだけは筋を通しておきたかった。それが、真崎が大磯まで足を運んだ本当の理由だった。
「よくできた銃だ。……真崎、もう一つ見せたいものがあるのだろう」
見透かされていた。真崎は懐から、油紙に包んだ和紙を取り出す。
村田の指先が止まったのは、署名を見た瞬間だった。
『陸軍大将 乃木希典』
「……乃木さんの、直筆か」
「陸軍省の地下書庫に、偽装されて隠されておりました」
村田は一文字ずつ、指でなぞるように読み進めた。青葉を揺らす風の音が、やけに大きく聞こえた。
『――機関銃と大砲の前に、いかなる精神力も無力である。突撃は単なる自殺に等しい』
読み終えると、村田はしばらく黙った。それから、猟銃に残る硝煙の匂いを嗅ぐように、鼻を鳴らした。
「貧乏国が、機関銃の弾代を惜しんだ。それだけの話だ。精神論は、そのための言い訳に過ぎん」
「……そう、言い切ってしまわれますか」
「言い切らんで、なんとする」
村田は立ち上がり、C96をひとしきり撫でてから、真崎に向き直った。
「こいつは庭じゃ試せん。辻堂の海軍演習場を借りてある」
「は? 今からですか」
「貴様、日が沈むのを待つ気か」
村田は、下駄をつっかけたまま、もう玄関へ向かっていた。
*
大磯から茅ヶ崎・辻堂へ抜ける道中、馬車の中で村田は一言も喋らなかった。窓の外を流れる相模湾の水平線を、ただ眺めていた。膝の上のC96だけが、まだ油紙に包まれたまま揺れている。
「閣下は、陸軍籍のまま海軍の演習場を借りられるのですか」
「借りるのではない。頼まれてやるのだ」
シーメンス事件の余波、海軍は国民の不信を一身に浴びている。村田銃の父に「小銃射撃の指導」という名目で来てもらうこと自体が、海軍にとっては数少ない体面の立て直しになる。真崎には、その一言の意味が半分もわからなかったが、老人の口ぶりから、陸海の対立など村田にとっては小事に過ぎないことだけは伝わってきた。
海軍が管理する辻堂の砂浜は、本来、陸軍出身の男爵など用のない場所である。だが村田経芳という名は、薩摩閥の長老にして貴族院男爵、二十二年式村田連発銃を装備する海軍にとっても「恩人」であった。日露の海戦で、連発銃を握った水兵は数知れない。
現場の海軍士官は、村田の姿を認めるなり、直立不動で敬礼した。若い水兵の一人が、隣に小声で「あの爺さん、何者だ」と聞いているのを、真崎は聞き逃さなかった。士官が耳打ちすると、水兵の顔から一瞬で血の気が引いた。
「弾を貸せ」
村田は短く言い、砂浜の先、古びた木製の標的に狙いを定めた。潮風が、白い硝煙の匂いを運んでいく。
パァン。一発。
「田原坂だ」
村田は撃鉄を起こしながら、ぽつりと言った。
「明治十年。俺が三十八の時だ」
パァン。もう一発。
「政府軍と薩摩軍が、あの丘の斜面で十七日、毎日ぶつかった。退けば、死ぬからだ」
真崎は、銃声のたびに肩を震わせる自分に気づいた。村田は、震えもしない。次弾を装填する手つきに、迷いがなかった。
「一日に、政府軍だけで三十万発。砲弾も千発撃った。数字だけ聞いても、わからんだろうな」
「……わかりません」
「素直な奴だ」
村田は、初めて小さく笑った。
「三月の末、弾が底をついた夜があった」
パァン。
「その夜、前線の将兵は、刀を抜いた」
「……幕末の侍と、同じ武器で」
「そうだ」
村田は、次弾を装填する手を止めなかった。
「だが翌朝、補給が届いた。ガトリング砲を引き出した。ズダダダダダ、と」
老人は、その音を口の中で確かに転がした。
「機械が、人間を、草刈りのように薙ぎ倒した。俺はそれを見て、銃を作ると決めた。精神論ではない。物理で戦争を変えると決めた」
真崎の背筋に、冷たいものが走った。喉が渇いていた。手にした空のC96の重みが、急に増したように感じられた。
波の音だけが、二人の間を埋めていた。
「だがこの国は、俺の銃を使いながら、その意味をわからなかった。弾が足りねば精神で補え、と本気で言い出した」
村田は、最後の一発を撃った。
パァン。標的の中心が、乾いた音を立てて砕けた。
「遅すぎた。いまの陸軍中枢に、乃木さんの遺書を受け止める器量はない」
「私は、諦めません」
真崎が言うと、村田は初めて銃口を下ろし、真崎を見た。
「精神論には、精神論で挑むな。冷酷な『論理』と『実績』を持ってこい。大和魂は大砲の一発で消し飛ぶが、計算された弾道は裏切らん」
村田は、脱包を確認し、空になったC96を真崎の手に押し戻した。
「持っていけ。三宅坂だろうと、どこだろうとな。迷った時は、この送弾機構の精巧さを思い出せ。誰かが計算を尽くして作ったものは、裏切らん」
真崎は両手でそれを受け取り、深く一礼した。
「閣下、本日のお礼は、いずれ必ず」
「礼はいらん。次に来る時は、鴨でも土産に持ってこい」
真崎は、思わず噴き出しそうになるのを堪えた。この老人は、乃木の遺書を前にしても、朝飯の心配をする。
海風が、硝煙の匂いを攫っていく。老人は振り返らず、次の標的を寄越すよう、海軍士官に無造作に手を挙げていた。
その背中は、七十六歳にはとても見えなかった。
◆あとがき◆
少しだけ種明かしを。
村田経芳は実在の人物です。薩摩出身の陸軍軍人で、明治13年(1880年)に日本初の国産制式小銃「十三年式村田銃」を完成させた、帝国陸軍における「火力の祖」です。
田原坂の「一日三十万発の銃弾、千発の砲弾」も史実の数字です。明治10年(1877年)の西南戦争で、政府軍と西郷隆盛率いる薩摩軍がわずか数百メートルの丘を巡って17日間撃ち合い続けました。
その現場にいた村田が、物理と弾道で戦争を変えようとした。しかし彼が作った銃を手にした陸軍は、その意味を理解しなかった。
真崎が継ごうとしているのは、その「未完の志」です。
次話もお付き合いください。
最後までお読みいただきありがとうございます。
※続きは明日19:40に更新予定です。
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