海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
右舷に二隻、左舷に二隻。
黄浦江の河口を抜けて半刻もしないうちに、真崎勇気は上甲板を一周していた。ダビットに吊られた救命艇を、指を折って数えていく。
長崎から上海へ渡ったときの船は、八隻だった。
「大尉殿、それで三周目ですぜ」
赤銅色に焼けた甲板長が、ロープを巻きながら、呆れた顔で声をかけてきた。
陸軍が買い上げた、古い貨物船である。竜口へ向かう御用船で、船倉には陸軍の木箱と馬の飼い葉が、甲板には人間が、隙間なく積んであった。
「一隻に、何人乗れる」
「四十と聞いとります」
「四隻で百六十。この船には、何人乗っている」
「船乗りが三十八。兵站の兵隊さんが六十二」
「百か。……足りるな」
「それと」
甲板長は、ロープを巻く手を止めずに、顎で船首のほうをしゃくった。
船首の甲板に、上海で雇われた
「苦力が、四百。……苦力は、勘定に入っとりません」
真崎は、しばらく黙っていた。
足りない船には乗らん主義だ、と、あのとき自分は言った。
乗ってから数えても遅いと思いますがね、と、あの司厨員は言った。
その司厨員の言うとおりだった。この船は、もう河口を出ている。
「沈んだら、その四百は、どうなる」
「……泳げる者は、泳ぎます」
甲板長は、それだけ言って、次のロープのほうへ行ってしまった。
真崎は、胸のポケットから帳面を出した。
救命艇、四。定員、百六十。船員、三十八。兵站、六十二。そこまで書いて、鉛筆が止まった。
真崎は、その下に一行足した。
苦力、四百。
合計の欄の「百」を線で消して、「五百」と書き直した。
「大尉殿、何を書いておられるので」
通りかかった陸軍の輸送指揮官が、帳面を覗き込んだ。まだ若い中尉である。
「乗っている人数だ」
「苦力の頭数でしたら、陸軍の帳簿には載りませんよ。あれは、雇い入れの請負の帳簿のほうで」
「なら、どっちの帳簿に載っていれば、救命艇に乗れる」
「……は?」
中尉は、質問の意味が分からないという顔で、しばらく立っていた。それから敬礼して、そそくさと船尾のほうへ去っていった。
真崎は帳面を閉じ、船首のほうへ歩いていく。
膝を抱えた男たちのあいだを、足を踏まないように抜けていく。いちばん奥の、帆布を敷いた場所に、白髪まじりの苦力の頭が、煙管をくわえて座っていた。
「
李河に叩き込まれた片言の上海言葉で、真崎は訊いた。
頭は、煙管を口から離して、真崎の顔を下から上まで眺めた。
「……半分」
「半分か」
「なんで、訊く」
「数えているだけだ」
頭は、しばらく黙って真崎を見ていた。
それから、煙を細く吐いて、周りの男たちに何か短く言うと、男たちのあいだに、低い笑い声が広がった。
「何と言った」
「日本の兵隊が、俺たちを数えるのは、初めてだ、と」
頭は、また煙管をくわえた。
「……数えても、艇は増えないよ、大尉さん」
「分かっている」
真崎は、帳面を開き直して、「五百」の横に、小さく書き足した。
泳げる者、およそ二百。
*
その日の午後、真崎は船倉に降りた。
陸軍の木箱の山の中に、「新兵器効力検定」と墨で書かれた箱が、十四個ある。井川の遅延信管だった。
上海の埠頭で、帳面に書き込んだ数と同じである。真崎は、蓋の釘の頭まで一つずつ見て回り、どの箱にも打ち直した跡がないのを確かめてから、ようやく腰を下ろした。
真崎は鞄から、辞書より厚い紙の束を引っぱり出した。
『遅延信管 説明書』。百九十二頁。
一頁目から化学式が始まっていて、三頁目で、真崎はそれを読むのをやめた。十頁目で、図の余白の、蟻のような字を探すのもやめた。
代わりに、自分の帳面を一枚破り取って、鉛筆を舐める。
「おい。そこの一等卒」
木箱の陰で居眠りをしていた若い兵が、跳ね起きた。
「は、はいっ! 一等卒、古賀であります!」
「どこの出だ」
「久留米でございます!」
「字は読めるか」
「……ひらがなと、カタカナなら、ちいっと」
「十分だ。これを読んでみろ」
真崎は、一枚目の書き直しを古賀に渡した。
古賀は、紙を顔に近づけ、遠ざけ、また近づけてから、正直に言った。
「……読めまっせん。字が、難しかです」
真崎は紙を取り返し、漢字を片っ端から開いて書き直した。
「これならどうだ」
「……読めまっせん。何ば先にすっとか、分からんです」
真崎は、また紙を取り返して、手順の頭に、一、二、三と番号を振った。
「これならどうだ」
「……読めまっせん」
「今度は何だ」
「字が小さかです。夜やったら、見えんです」
真崎は、黙って紙を裏返し、同じことを、倍の大きさの字で書き直した。
四枚目を受け取った古賀は、紙を膝の上に置いて、指でなぞりながら、声に出して読み始めた。
「……いち、ふたを、あける。に、あかい、ねじを、みぎへ、ふたつ、まわす。さん、みどりの、ねじには、さわるな。……さわるな、ですか」
「触るな、だ」
「し、ぬれたら、つかうな。……読めました、大尉殿!」
古賀は、顔を真っ赤にして叫んだ。
真崎は、四枚目の紙をそのまま古賀に持たせ、同じものを自分の帳面に写し取った。
「大尉殿」
古賀が、おずおずと訊いた。
「大尉殿のごと偉か人が、なんで、こげなこつまで」
「読めんで死なれたら、俺の勘定が合わん」
古賀は、きょとんとしていた。
それから、ふと甲板のほうを見上げて、小さな声で言った。
「……おい、泳げんとです。救命艇、乗せてもらえるとですかね」
真崎は、鉛筆を止めた。
「乗れる」
「ほんなこつですか」
「俺が数えた。乗れる」
古賀は、ほっとしたように笑って、また木箱の陰へ戻っていった。
真崎は、帳面の「五百」の字を、しばらく見ていた。
*
三日目の夕方、船は山東半島の南の沖を北へ上っていた。
水平線に、煙を細く吐く軍艦の影が、いくつも並んでいる。青島を塞ぐ、封鎖の艦隊だった。
そのうちの一隻が、進路を変えて、こちらへ寄ってきた。マストの上で、信号灯が瞬き始める。
「
船橋で、信号係の水夫が読み上げた。船長が船名と行き先を告げ、水夫が信号灯の覆いをカシャ、カシャと鳴らして答えていく。
真崎は、その横に立った。
「最後に、一行足してくれ」
「は?」
「秋月少佐ニ伝ヘラレタシ。ケッコン オメデトウ。ギン ノ ナイフ アズカッテイル」
水夫は、たっぷり三秒、真崎の顔を見た。
「……軍務で、ありますか」
「軍務だ。急げ」
光の点と線が、夕暮れの海の向こうへ飛んでいった。
艦は、了解の短い光を一つ返しただけで、また封鎖の線へ戻っていく。私信など、握り潰されて終わりだろうと、真崎は思っていた。
半刻ほどして、日が落ちかけたころ、同じ艦が、もう一度信号灯を瞬かせた。水夫が、それを一文字ずつ読み上げていく。
「……アキヅキ ヨリ マサキ ヘ。……アイソワライ レンシュウチュウ」
真崎は、思わず吹き出した。
光は、まだ続いていた。
「……ワカミヤ トブ。……以上であります」
「若宮が、飛ぶ?」
「若宮丸という、海軍の船がありますが。飛ぶ、というのは、自分にはさっぱり」
水夫は、首をひねりながら信号灯の覆いを閉めた。
「海軍さんは、戦の最中に呑気なもんですな」
「……昔から、ああいう男だ」
真崎は、足元に置いた深紅のリボンの包みを、もう一度抱え直した。
*
船室に戻って、真崎は、高杉の風呂敷包みを初めて開いた。
中から出てきたのは、手のひらほどの、小さな
黒檀の枠が、長年の手の脂で、飴色に光っている。その玉のあいだに、紙切れが一枚挟まっていた。
――ミナ カゾエテ カエレ
真崎は、しばらくその紙切れを見ていた。
皆を、数えて、帰れ。
皆、数えて、帰れ。
どちらに読んでも、あの老人の言いそうなことだった。
真崎は算盤を膝に置き、玉を弾いた。
五百から、百六十を引く。
パチ、パチ、と、狭い船室に乾いた音が鳴った。
三百四十。
真崎は、その数を、帳面の「五百」の横に書き込んだ。書き込んだまま、長いあいだ、鉛筆を置かなかった。
*
船団が揃うのを待って、竜口の沖で何日も錨を下ろしたままの日が続いた。
九月二日、夜明け前。竜口の沖。
船が錨を下ろすと、あたりの暗い海に、同じような輸送船の影が、何十と浮かんでいるのが見えた。どの船からも、
真崎は、上甲板の手すりにもたれて、隣の船から吊り下ろされる馬を数えた。
一頭、二頭。白い息を吐き、目を剥いて、宙で脚を掻いている。
三頭、四頭。
甲板の向こうで、古賀が、四枚目の説明書を胸のポケットにしまうのが見えた。
十一頭目で、頬に冷たいものが当たった。
十二頭目が艀に下ろされたとき、雨が、本降りになった。
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