海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:yoshiume

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第三十話 日独開戦

 大日本帝国は、ドイツ帝国に宣戦布告した。

 大正三年八月二十三日のことである。

 

 帝都・東京は、底の抜けたような熱狂の渦に包まれていた。

 号外を配る新聞社手代の鈴の音が、蝉時雨すら掻き消す勢いで煉瓦通りに鳴り響く。

 日比谷公園や皇居前広場には、手作りの小旗を握りしめた群衆が押し寄せ、夜を徹した提灯行列が帝都の空を赤々と焦がしていた。

 

「日露戦争の再来だ!」

「ドイツ憎し! 東洋平和のために、あの野蛮な白人どもを追い払え!」

 

 新聞各紙もまた、「鎧袖一触(がいしゅういっしょく)で青島など落とせる」「我が陸軍の精鋭に敵なし」と、威勢の良い見出しを競うように踊らせている。

 大衆の顔には、戦争という名の非日常を楽しむ無邪気な興奮だけが貼り付いていた。

 

   *

 

 同じ頃、魔都・上海。影の奇兵隊の地下拠点。

 青島へと発つ真崎勇気は、出立の挨拶のため、真空管と機械油の匂いが立ち込める最奥の部屋に立っていた。

 

「真崎さん! 例のブツ、権藤大佐の裏ルートを使って、無事に陸軍の輸送船に紛れ込ませましたぜ!」

 

 興奮気味に駆け寄ってきたのは、火薬と兵器開発の天才・井川であった。

 その手には、油に塗れた一枚の青写真が握られている。

 

「俺たち特製の『遅延信管』です。着弾の瞬間に表面で爆発するんじゃなく、ドイツの分厚いコンクリートの奥深くに食い込んでから起爆する、悪魔のような代物ですよ。いやぁ、あの頭の固い陸軍が、よくこんな出所の怪しい代物を採用してくれましたね! 期待してますよッ!」

 

 井川の無邪気な笑顔に、真崎はわずかに口角を上げた。

 

「権藤大佐が、書類上は『新兵器効力検定』という名目でねじ込んでくれた。……これで、連中の誇るビスマルク砲台もただの巨大な墓標になる」

「ふん。三宅坂の青瓢箪(あおびょうたん)も、ようやく少しは頭を使い始めたか」

 

 部屋の奥、三味線を爪弾いていた高杉晋作が、おもむろに立ち上がった。

 七十五歳の老体でありながら、その双眸には幕末の動乱を潜り抜けた者特有の、ギラギラとした野獣の光が宿っている。

 高杉はゆっくりと歩み寄り、真崎の肩を無骨な手でガシリと掴んだ。

 

「三宅坂の温室から魔都の()えた熱気まで、よくぞ潜り抜けた。……真崎。ここで学んだ『盤外の戦い方』、すべて活かして存分にやってこい。気合いや根性じゃなく、圧倒的な物理の力で、あの愚かな白兵突撃の時代を終わらせてみせろ」

「行ってまいります。……先生」

 

 真崎は深く一礼すると、軍帽を被り直し、迷いのない足取りで地下室の階段を上っていった。

 一段、また一段と足を踏み出すたびに、地下室の青白い光が薄れていく。

 黒石が紙テープと格闘する乾いた音。井川の口ずさむ鼻歌。三味線の最後の一撥(ひとはち)

 

(ここに戻ってくるかどうかは、わからない)

 

 その考えが、一瞬だけ頭をよぎった。次の瞬間には、消えていた。

 階段の上、まぶしい夏の光が口を開けていた。

 

   *

 

 そして、黄浦江の埠頭である。

 帝都の華やかな熱狂とは無縁の、重い湿気がそこにはあった。

 長江が遥か内陸から運んできた黄土色の泥水が、波打ちながら岸壁を叩いている。

 川面には無数の蒸気船がひしめき合い、石炭の真っ黒な煤煙を無遠慮に吐き出していた。

 

 上半身裸の苦力(クーリー)たちが、汗まみれの背中を光らせながら「ヘイヤ、ホウヤ」という単調な掛け声を響かせ、荷役作業に追われている。

 その喧騒の中、真崎勇気は革トランクを傍らに、輸送船への搬入作業を冷徹な視線で監視していた。

 三宅坂の温室とは別人の眼光が、人ごみを切り裂いている。

 

 ふいに、真崎の鼻腔が微かな「異物」を捉えた。

 汗と石炭の煤煙、香辛料の重濁した湿気の中にあって、あまりにも場違いな香りだった。

 ジャスミンやローズの奥に、ナツメグのスパイスと粉っぽい甘さが幾重にも絡み合っている。

 フランソワ・コティの『ロリガン』の匂いである。

 退廃的で、どこか血の匂いを薄化粧で隠したような、致死量の甘さ。

 

青島(チンタオ)へ、赴かれるのですかな」

 

 背後から響いた流暢な日本語に、真崎は足音を立てずにゆっくりと振り返った。

 そこには、完璧な仕立ての西洋スーツを纏った一人の男が立っていた。

 髪を撫でつけ、鼈甲縁(べっこうぶち)の眼鏡の奥から涼しげな視線を投げかけている。

 

「あんたは……長崎から上海行きの船で会った」

 

 真崎は、トランクを持ったまま油断なく相手の全身を観察した。

 

「こんな埃っぽい埠頭で、何をしている」

 

 男は口元に薄い笑みを浮かべ、ステッキの先で軽く石畳を叩いた。

 

「海風にあたっていただけですよ。上海は、少しでも内側へ踏み入ると、まだまだとてつもない熱気ですからね」

 

 周囲の苦力たちが汗と石炭の粉にまみれて働く中、男のたたずまいだけが不気味なほど浮き上がっている。

 

「ところで……青島には、ドイツが堅牢極まる要塞を築き上げていることは、当然ご存じで?」

 

 真崎の目が微かに険を帯びた。

 一介の民間人が軽々しく口にするには、あまりに生々しい軍事情報である。

 

「あそこには、ドイツが極東における総力を結集して築き上げた『ビスマルク砲台』がある。鉄血宰相の名を冠しているのだから、その物理的な堅牢さは抜群なのでしょうな」

 

 男の声には、奇妙な愉悦が混じっていた。

 

「日本の陸軍さんは、いったいどのようにアレに立ち向かうのでしょうか……? ええ、実に楽しみですねぇ」

 

 それは、遠くから見世物を楽しむ傍観者の顔ではなかった。

 盤上の駒がどう血を流すかを値踏みする、列強の謀略の側に立つ者の冷酷な響きであった。

 真崎は、それ以上相手のペースに巻き込まれることを良しとしなかった。

 

「……もう行かなければならない。立ち話をしている暇はないのでな。ここで失礼する」

 

 短く打ち切り、真崎が背を向けようとした、その瞬間である。

 ――世界から、音が消えた。

 

 黄浦江の波音も、苦力たちの怒号も、けたたましい蒸気船の汽笛も、すべてが遠くへ退いた。

 殺気、というありふれた言葉では足りない。

 完璧なスーツ姿の男から、突如として放たれた絶対的な暴力の気配である。

 男は一歩も動いていない。

 ただ、その内側に圧縮された途方もない質量のエネルギーが、見えない刃となって真崎の首筋に突きつけられていた。

 

(――発勁(はつけい)か)

 

 いつか地下室で、暗殺者李河(リーホォ)が語っていた恐怖が、真崎の脳髄を直接殴りつけた。

 体内の運動エネルギーを一点に凝縮させ、一撃で内臓を破裂させる拳法。

 腰のモーゼルC96に手が伸びかけ――真崎は止めた。

 この距離では抜く意味がない。

 長い銃身を構える前に、その見えない力が真崎の鳩尾を貫く。

 四メートルという間合いは、モーゼルの射程でも、李河が「死の間合い」と呼んだ発勁の射程でもある。

 先に銃口を向けた方が負ける。

 

(……アイリィンの情報。青幇(チンパン)の特務工作員が、青島に入っている)

 

 このロリガンの男は、その「側」の人間か。

 ここで一歩でも不用意に動けば、その『(きょ)』の空間に飲み込まれ、物理的に臓腑を叩き潰される。

 真崎は呼吸を極限まで薄くし、膝の「居着き」を消し去って、必死に自らの存在を空間に繋ぎ止めた。

 数秒にも数時間にも感じられる、濃密な死の硬直。

 

 やがて、男はふっとその異常な圧力を霧散させた。

 

「……よい旅を。日本の軍人さん」

 

 男は優雅に会釈をすると、踵を返し、黄浦江から立ち込める深い煤煙の中へと、足音一つ立てずに姿を消していった。

 真崎は深く息を吐き出し、強張った筋肉を解いた。

 

(あの男……何者だ)

 

 岸壁には、ただ『ロリガン』の退廃的な甘い香りだけが、石炭の煤煙に溶けながら、いつまでも漂っていた。




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