海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:yoshiume
第三十一話 竜口上陸
馬が、沈んでいた。
満洲の平原を駆けるために鍛え上げられた二百キロの軍馬が、黄土の濁流に四肢ごと吸い込まれ、白目を剥いて泡を噴いている。その背に縛りつけた野砲の車輪が、じわじわと大地に喰われていく。兵士たちが群がり、怒鳴り合い、綱を引く。だが粘土の底なし沼は容赦なく、馬と鉄塊を一緒に飲み込んだ。一度転倒した馬は、数十キロの装備の重みに引きずられ、もはや自力で立ち上がることはできない。白目を剥いて痙攣する馬体が、そのままヘドロの中に生き埋めとなって消えていく。
特命観戦武官・真崎勇気は、馬上からその光景を、冷徹な目で見つめていた。
大正三年(一九一四年)九月二日。山東半島・
神尾光臣中将率いる第十八師団の先遣隊は、
上陸初日にして、兵站は完全に崩壊していた。
竜口の海岸線は、もはや上陸拠点というよりただの巨大な茶褐色の沼底だった。容赦なく叩きつける雨の中、粘着力を持つ粘土層に軍靴を食い破られ、車輪はおろか軍馬の脚すら奪われて部隊は立ち往生している。兵士たちは腰まで黄土の濁流に浸かりながら、野砲の車輪に群がって必死に押し進めようとしていた。だが粘りつくヘドロは容赦なく車輪を噛み込み、前進するどころか徐々に大地へ沈み込んでいく。
茶褐色の波間をむなしく流れていくのは、無残に破れた白米の俵だった。補給線が断たれた将兵は食糧が底をつき、淀んだ濁水をすすった者から赤痢が蔓延し始めていた。腐敗した軍馬の臭気と汚物が混ざり合い、酸鼻を極める悪臭が一帯を覆っている。
大砲の砲弾も食糧も、兵士が自らの肩に担いで粘土層を這い進むしかない。行軍速度は通常の数分の一だ。
*
(……これが、世界に誇る帝国陸軍の現実か)
真崎は沈みゆく
「引けェッ! 歩みを止めるなッ!」
怒号が、暴風雨と波の音に一瞬でかき消された。
そこへ茶褐色の飛沫を上げて一人の将校が馬で乗り込んできた。大隊長・岩間少佐だ。日露戦争を現場指揮官として生き抜いた叩き上げの古参将校。旅順・二〇三高地で白兵突撃による勝利を幾度も掴み取ったという「強烈な成功体験」が、彼の思考を完全に固めていた。
岩間は馬上から軍刀を振りかざし、ヘドロにまみれた兵士たちを容赦なく怒鳴り散らす。
「足が動かぬなら手で這え! 手も動かぬなら歯で大地を噛んで進め! 陸軍の辞書に『不可能』の文字はない! 青島のドイツどもが我らを待ち構えておるのだ。ここで止まる者は、非国民としてその場で斬り捨てるぞ!」
真崎の胸の奥でどす黒い怒りが沸点に達した。
軍馬すらヘドロに飲み込まれていく。それを大和魂でねじ伏せろと喚く狂気。この男の目には、兵士が血の通った人間として映っていない。精神力を動力源とする使い捨ての肉部品だ。
真崎は馬を進め、岩間の前に立ちはだかった。
「少佐殿。これ以上の前進は不可能です。輜重隊は壊滅状態で、兵士たちには食糧すら行き渡っていません。まず高台へ後退し、補給線の回復を待つべきです」
岩間は顔を真っ赤にして激昂した。
「臆病者が! 補給が届かぬなら、現地で拾えばよかろうが!」
軍刀の切っ先が、雨に煙る向こうを指した。小さな中国人農村。
真崎が目を凝らすと、泣き叫ぶ農民から豚・鶏・
「少佐殿! あれは徴発ではなく略奪です! 我々は中立国の領土を侵犯している立場なのですぞ。現地民から恨みを買えば、将来の禍根となります!」
「黙れ、観戦武官!」
岩間は懐から真新しい紙束――軍票を取り出して見せた。
「略奪ではない。ちゃんと『軍票』を渡して買い上げているのだ。大日本帝国が保証する紙幣を受け取れるのだから、土民どもも本望であろうが」
真崎は奥歯を噛み締めた。血の味がした。
泥水に投げ捨てられた軍票を、顔から血を流す老人が氷のような憎悪の目で睨みつけている。占領地の軍票など、現地の民にはただの紙切れだ。敗戦すれば紙屑となり、物資との交換保証もない。自らの兵站失敗を棚に上げ、略奪を「合法な徴発」と強弁する。救いようのない傲慢さだった。
「兵站の失敗を略奪で補うなど、近代軍隊の恥です。自ら恨みを買ってどうするおつもりですか!」
「理屈をこね回すな、観戦武官! 上海帰りの貴様が欧米の真似事をして兵站だの国際法だのとのたまおうが、目の前の猛威も飢えも、大和魂で克服してみせよ! それが陸軍の伝統だ!」
岩間はそう吐き捨てると、再び馬を濁流の中へ進め、虚ろな目の兵士たちへ怒号を浴びせ始めた。
*
真崎は、その背中を見つめた。
その時、乗っていた馬が大きく体を揺らした。
前脚が粘土に取られたのだ。真崎は咄嗟に鞍を掴んだが、馬は首を激しく振り、横へ倒れ込もうとしている。
真崎は素早く
ズブリ、と。
両足が、腰まで黄土に吸い込まれた。
抜こうとすると、ヘドロが脚を締めつけてくる。軍靴ごと脱げそうになるほどの粘着力だ。真崎は歯を食いしばり、腿の筋肉をひねりながら一歩一歩引き抜いて、浅瀬へ移動した。
三歩で、息が上がった。
腹が鳴った。上陸から丸二日、まともなものを食っていない。口の中は土と血の味しかしなかった。
(……馬すら沈む場所で、俺は何をしているのか)
自嘲が、一瞬だけよぎった。すぐに消えた。
泥水に踏みにじられた軍票が、ひらひらと濁流を流れていく。あの紙切れ一枚が、いずれ無数の見えない刃となって帝国陸軍の背後に突き刺さる。上海で高杉晋作から「盤外の作法」を叩き込まれた真崎には、その未来が手に取るように見えた。
(……やはりこの軍は、外から物理で殴らねば目は覚めん)
その時。
隣で黙々と泥を踏み続けていた若い兵士が、ぽつりと呟いた。腰まで濁流に浸かった、二十歳そこそこの歩兵だった。泥と疲労にまみれていたが、目だけは死んでいなかった。
「……大尉殿の言う通りだと、俺も思います」
真崎は、その目を見た。
「名前は」
「歩兵二等卒、宮本であります」
「覚えた」
それだけ言い、馬を前へ進めた。
岩間を今すぐ変えることはできない。だがこの先の青島要塞で何が起きるか、すでに見えていた。近代戦の地獄が精神論の偶像を粉砕する、その瞬間に傍らにいる者を今から拾い上げておく。それが、高杉晋作に叩き込まれた盤外の戦い方だった。
懐の「乃木の隠し遺書」が、雨に濡れた軍服越しに、異様な熱を放っているように感じられた。
暴風雨が竜口の濁流を叩きつける。
真崎勇気は拳を固く握り、泥濘の先へと馬を進めた。
青島の要塞が、待っていた。
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