海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:yoshiume

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第三十二話 膠州湾の督戦

 砲弾が、また山の斜面を削った。

 炸裂音。土煙。そして、空しい沈黙。

 

 海軍少佐・秋月慧は、艦橋の測距儀架台に片手をかけ、双眼鏡を下ろした。叩きつける雨飛沫が、開け放たれた艦橋の側面から容赦なく吹き込んでくる。

 大正三年(一九一四年)九月。膠州湾(こうしゅうわん)

 山東半島を囲む海と空は、塗り潰したような鉛色に沈んでいた。黄海の荒波を衝いて進む旗艦「周防(すおう)」は、もとをたどれば日露戦争の鹵獲艦(ろかくかん)――ロシア帝国の戦艦「ポベーダ」だ。かつての敵の残骸を修理して使い続ける。当時の日本海軍の現実だった。

 

 ズドォォン、と。

 

 十インチ主砲が再び咆哮を上げた。衝撃波が艦橋の窓枠をビリビリと震わせ、測距儀架台に置かれた書類が数センチ跳んだ。黄色い硝煙が雨の匂いを掻き消す。

 砲弾はドイツ軍の誇る「ビスマルク砲台」を捉えたかに見えた。しかし着弾の瞬間に立ち上がったのは、コンクリートを砕く爆炎ではなく、山の斜面を無駄に削る空しい土煙に過ぎない。

 

 ――物理的な絶望、と言ってよかった。

 海軍の艦砲は、敵艦を水平に射抜く「平射」を前提として設計されている。初速が速く弾道が直線的であればあるほど、山の裏側に潜む要塞砲や、分厚い天蓋を持つ特火点には無力となる。砲弾はコンクリートの表面を浅く撫でるか、山の斜面に弾かれるだけだ。

 

 (巨大な偶像(アイドル)はあっても、鍵を開ける道具がない)

 

 秋月は内心で舌打ちした。

 帝国海軍には世界最強の切り札があった。超弩級巡洋戦艦「金剛(こんごう)」だ。十四インチ砲八門の暴力的な質量ならば、この山ごとドイツ要塞を粉砕できたはずだ。だが海軍上層部は、太平洋でアメリカ主力艦隊と決戦するための「神聖な偶像」を、こんな泥臭い沿岸掃討で擦り減らすことを断固として拒んだ。大英帝国の工業力の結晶たる無敵の巨砲を、機雷が浮かび要塞砲が睨みを利かせる海域で傷つけることなど、彼らの硬直した大艦巨砲の教義が許さなかったのだ。

 宝の持ち腐れとはこのことだ。

 

 秋月は、艦橋に吹き込む冷たい波飛沫を浴びながら、冷笑した。結局、コンクリートの壁を砕けるのは陸軍の榴弾砲しかない、という貧しい現実だけが残った。

 

 砲撃の間隙を縫って、従兵の水兵が銀の盆を艦橋の端に置いていった。乗っているのは、上等なコンビーフを挟んだサンドヰッチと魔法瓶に入った熱いコーヒー。硝煙と雨の臭気の中に一筋だけ立ち昇る加工肉の香りと、芳醇なコーヒーの湯気。砲撃の合間でも、飯の時間は来る。

 秋月がそれを手に取り、一口。

 陸では真崎たちが泥水をすすっているはずだ、という考えが、なぜか頭をよぎった。

 

 「秋月少佐。本国政府は貴国に『商船保護』を依頼しただけで――」

 

 ズドォォン。

 アーサー大尉の言葉が、十インチ主砲の轟音に完全にかき消された。艦橋の金属構造がビリビリと共鳴し、傍らに立つアーサーが手にしていたティーカップから、琥珀色の液体がソーサーへ飛び散る。

 男爵は溢れた茶をちらりと見下ろし、口元の皮肉な笑みをそのままに言い直した。

 

 「……青島のコンクリートを削れとは、頼んだ覚えはないのですがね」

 

 傍らに旧式戦艦「トライアンフ」が並走している。英国が急遽、極東へ送り込んだ監視役だ。日本軍の抜け駆けを牽制するように同じ砲撃を繰り返しながら、同じく空しい土煙を上げ続けている。

 

 「おや。ならば我が艦隊はすぐにでも引き揚げて、南洋を遊弋するシュペー艦隊の相手でもしましょうか。大英帝国のアジア権益に悪影響が出てもよければ、ですが」

 

 秋月が冷ややかに応じると、アーサーは濡れたソーサーを脇に置き、双眼鏡を別の方向へ向けた。

 

 「……冗談ですよ。それより、あれを」

 

 アーサーが指差した先では、水上機母艦「若宮(わかみや)」が波に揉まれながら作業を続けていた。蒸気動力のデリックで吊り下げられた「モーリス・ファルマン機」が、いまにも海面へ叩きつけられそうになりながら降ろされていく。ロータリーエンジンの爆音と、焦げたひまし油の匂い。木枠に羽布を張っただけの「空飛ぶ凧」だ。固定武装は一切なく、爆撃といえば搭乗員が吹き晒しの操縦席から身を乗り出し、手製の爆弾を直接「手で投げ落とす」という代物である。

 

 「木と布の凧ですな」

 

 アーサーは新しいカップにティーを注ぎ直しながら、喉の奥で笑った。

 

 「一発の小銃弾でも当たれば火ダルマだ。貴国の勇敢な搭乗員諸君には頭が下がりますよ」

 「ええ」

 

 秋月は双眼鏡越しに、鉛色の空へと上昇していく機体を冷ややかに見つめた。

 

 「ただ、あの『凧』を笑い飛ばしていた提督たちの艦が、いずれあれに沈められる日が来るかもしれませんな」

 

 アーサーの顔から、笑みが消えた。

 

 「……物騒なことを言いますな、少佐」

 「ただの妄想ですよ」

 

 しばらく沈黙が続いた後、アーサーは視線を南の水平線へと向け、声のトーンをひとつ落とした。

 

 「ところで少佐。我が国の情報では、貴国の海軍がいくつか艦を南洋の方角へ向けているという話がありましてね。赤道以北の島々――ドイツ東洋艦隊が逃げた後の空白地帯です。一時的な『保護』という名目であれば、ロンドンの議会もとやかく言えませんが」

 「我が国は、英国から依頼された『商船保護』を誠実に遂行しているだけです」

 「ええ、もちろん」

 

 アーサーは微笑みの形だけを作り、ティーを最後の一口で飲み干した。

 二人の間に流れるのは、同盟という美名に隠された、剥き出しの不信と計算の空気だった。

 

 (……いまはただの脆弱な玩具に過ぎなくとも、あの空を飛ぶ機械が、大艦巨砲を海の底へと沈める時代が必ず来る)

 

 この青島の空で放たれた一発の手投げ爆弾こそが、のちに帝国の海軍ドクトリンを根底から覆す「航空主兵」の、微かだが確かな産声であった。

 

 「空を飛ぶ最新技術も、機雷一つ、コンクリート一つで立ち往生だ。……結局、陸軍の泥臭い重砲に頼るしかないのか」

 

 秋月の呟きは、雨音にかき消された。

 カップの底のコーヒーが、すっかり冷めていた。

 

   *

 

 泥濘の臭気が、海の塩気に取って代わった。

 特命観戦武官として前線に到着した陸軍大尉・真崎勇気は、最前線の有刺鉄線の手前で足を止めた。

 そこには、数日前の夜襲に失敗した支隊の残骸があった。「大和魂」を叫び、白刃を煌めかせて突撃したはずの若者たちは、いまや原型を留めない「物理的な肉塊」と化して鉄条網にぶら下がっていた。その傍らには、隊を率いていた将校のものだろう、折れ曲がった軍刀も転がっていた。

 闇夜を白日の如く照らし出したドイツ軍の探照灯。そして、その光の束の中へ吸い込まれるように放たれた、マキシム機関銃の正確無比な十字砲火。

 精神論という原始的な魔法が、近代兵器という冷徹な計算式によって粉砕された、無惨な等式がそこにあった。

 鉄条網に、一枚の軍帽が引っかかっていた。血で黒く染まっている。中の人間は、もうどこにもいない。

 

   *

 

 「――閣下! 砲撃ばかりに頼っては、歩兵の士気が腐りますぞ!」

 

 前線司令部の天幕の中では、異様な光景が繰り広げられていた。

 若手参謀たちが、雨漏りのする地図の上に身を乗り出し、司令官である神尾光臣(かみおみつおみ)中将を激しく突き上げていた。

 

 「『歩兵ハ常ニ優秀ナル射撃ヲ以テ敵ニ近接シ、白兵ヲ以テ最後ノ決ヲ与フヘキモノナリ』! これこそが我が陸軍の真髄。旅順の英雄たちの武勲を、閣下の臆病で汚すおつもりか!」

 

 彼らが口にするのは『歩兵操典』の一節だが、その響きは戦術論ではない。現実から目を逸らすための「神学論争」に近い狂気を帯びていた。

 神尾中将は、椅子に深く腰掛けたまま、紫煙の向こうで沈黙を守っている。日露戦争の凄惨を知る彼にとって、慎重な重砲戦こそが唯一の正解だった。だが、軍全体を覆う「突撃せよ」という猛烈な同調圧力の重みに、老いた背は今にも折れそうに見えた。

 その時、天幕の外から、かすれた声が聞こえた。

 

 「……申し上げます……夜間、山田支隊が……ビスマルク砲台から集中砲火を受け……全滅であります」

 

 入り口の布が内側へ倒れ込み、泥と血に汚れた伝令が膝から崩れ落ちた。

 神尾が鋭くカンテラを向ける。若い兵だった。竜口(りゅうこう)の濁流の中で、腰まで泥に浸かっていたあの顔だ。

 

 「貴様! 名は……?」

 「……宮本であります」

 

 神尾は一拍置き、天幕の端に控える衛生兵を一瞥した。

 

 「こいつを手当てしろ」

 

 ただそれだけを言い、葉巻の煙をゆっくりと吐き出した。

 そして。

 天幕の入り口が激しく撥ね除けられた。

 冷たい雨風とともに、全身を黄色い泥にまみれさせた一人の男が踏み込んでくる。

 幕僚たちが一斉に振り返る中、真崎勇気は泥だらけの手で内懐から一通の辞令を取り出し、机の上に叩きつけた。

 

 「特命観戦武官、真崎勇気。ただいま着任いたしました」

 

 幕僚の一人が、泥まみれの軍服を蔑むように睨みつけ、怒鳴った。

 

 「貴様、観戦武官だと? 遊びに来たのではないぞ! 今まさに、我が軍の精神をいかに示すべきか議論している最中だ!」

 

 真崎は、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、熱狂の欠片もない。ただ、凍りついたような理性の光だけがあった。

 

 「精神、ですか。表の有刺鉄線を見てきました。あなた方の仰る『精神の精華』が、マキシム機関銃の銃弾でひき肉にされ、犬の餌になっている光景をです」

 「貴様っ! 英霊に対する冒涜か!」

 「いいえ。物理法則の確認です」

 

 真崎の声は、驚くほど平坦であった。

 

 「ドイツの機関銃に操典そのままは通じません。コンクリートを砕くことができるのは、二十四センチ榴弾砲が投射する鉄塊だけです」

 

 真崎は一歩前へ踏み出した。軍靴が泥を蹴る、重苦しい音が響く。

 

 「神尾閣下。私には、三宅坂からもたらされた『道具』を使い分ける権限があります。神学論争ではなく物理の話をしましょう」

 

 天幕の中が、凍りついたように静まり返った。

 幕僚たちの目は、一斉にこの「異端児」への殺意で燃え上がった。

 しかし、その殺意の嵐の真ん中で。

 神尾中将だけが、ゆっくりと顔を上げ、真崎の目を見つめ返した。

 狂信の血気が支配する天幕の中に、初めて「理」が介入した瞬間であった。

 雨は、いまだ止む気配を見せない。

 膠州湾の鉛色の海面では、秋月の「周防」がいまも空しい砲声を上げ続けている。陸が泥の中で「物理学」への扉を開けようとしているその瞬間、海もまた同じ扉の前に立っていた。

 二人はまだ知らない。この泥濘の先で、鉄と火薬が同じ方向を向く時が来ることを。




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