海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:yoshiume

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第三十三話 実験場への招待

 狂騒の嵐が去った後の司令官室には、ただ単調で重苦しい雨の音だけが響いていた。

 

 血気盛んに突撃を訴えていた幕僚たちは、神尾光臣(かみおみつおみ)中将の「下がってよい」という低く、しかし絶対的な威圧を伴った一言によって天幕から追い払われた。彼らが去り際に真崎へ向けた視線は、憎悪と殺意の入り混じった凄絶なものであったが、真崎は表情一つ変えずにそれを見送った。

 

 雨漏りのする薄暗い室内。机上に置かれたカンテラの頼りない炎が、空気の揺らぎに合わせて煤けた影を踊らせている。

 その炎越しに、神尾は深く椅子に沈み込んでいた。日清・日露戦争の死線をくぐり抜けてきた六十手前の老将の顔には、隠しようのない深い疲労の皺が刻まれていた。

 彼は無言のまま、真新しい葉巻の端を切り落とし、マッチを擦った。青白い煙が、雨の湿気に重くまとわりつきながら立ち昇る。

 

「……真崎大尉、といったな。まぁ座りたまえ」

 

 神尾の声は、先ほどまでの威圧的な響きを潜め、どこか乾いた響きを持っていた。

 真崎が泥にまみれた外套のまま木椅子に腰を下ろすと、神尾は葉巻を指に挟んだまま、降り続く雨の向こう、見えない要塞の方向へと視線を向けた。

 

「貴様は、先ほど『物理法則』と言ったな」

「はい」

「大和魂などという便利な言葉で、兵站の不備や情報収集の怠慢を隠蔽する連中を、私は心底軽蔑している」

 

 神尾の口からこぼれ落ちたのは、この時代の陸軍将官としては耳を疑うような、あまりにも冷徹で合理的な吐露であった。

 

「……旅順で、数万の兵がロシアのコンクリートの前に挽肉と化していた時」

 

 神尾は、ランプの炎を凝視しながら静かに語り続けた。

 

「私は大連で、そのうずたかく積まれた死体の山を、ただの『数字』として処理し、内地の遺族へ向けて送り出すしかなかった」

 

 葉巻の灰が、音もなく床に落ちた。

 

「前線で突撃を叫ぶ連中には、後方でその尻拭いをする人間の絶望など解らんのだ。……だからこそ、この青島(チンタオ)では、私の兵を一人たりとも無駄死にさせる気はない。歩兵の命は、大砲の弾よりも重いのだ」

 

 それは、情報と兵站の重要性を知る知将が抱え続けてきた、主流派(歩兵突撃派)への一種のコンプレックスであり、強烈な嫌悪の告白であった。

 真崎は、その重い言葉を受け止め、静かに頷いた。

 

「閣下のお考えは、すべて三宅坂の軍務局が承知しております。だからこそ、我々は『あれ』を用意しました」

 

 真崎の言葉に、神尾の双眸が微かに鋭さを増した。

 

「四五式二十四(センチ)榴弾砲……か。あれは、前線の要請で送られてきたものではなかったのだな」

「はい。軍務局の権藤(ごんどう)大佐が、自らの首を懸けて書類を書き換え、宇品港から異例の早さで送り込んできた『巨大なハンマー』です。ドイツの要塞を山ごと物理的に叩き割るための」

「ですが、気合いや大和魂で、重さ数十トンの大砲は一ミリも動きません」

 

 真崎は、窓の外の深い雨の闇を顎でしゃくった。

 

「いまこの瞬間も、最前線では、工兵たちが腰まで濁水に浸かりながら、重砲運搬用の『軽便(けいべん)鉄道』を敷設しています。蒸気ウインチと滑車で巨大な砲身をミリ単位で組み上げ、大砲の反動に耐えるための砲床(ほうしょう)を築いている。……精神論者が『早く突撃させろ』と騒いでいる裏で、兵士たちは黙々と土木作業を遂行しているのです」

 

 真崎の言葉には、確かな熱が帯びていた。

 

「大砲の準備が整えば、あとは二十四センチの鉄塊が空気を引き裂き、ドイツの分厚い要塞を跡形もなく粉砕してくれます。歩兵の血だけでなく、国家の工業力で敵を殺すのです」

 

 神尾は葉巻の煙をゆっくりと吐き出した。

 彼の目には、真崎という若き将校に対する深い共鳴の色が浮かんでいた。しかし、老将の眉間には、まだ拭いきれない深い苦悩の皺が刻まれたままであった。

 

「……理屈は、完全に正しい」

 

 神尾は重い口を開いた。

 

「だが、真崎大尉。ここで我々が白兵を完全に退け、火力だけで決着をつければ……それは、旅順で散った英霊たちと、乃木希典(のぎまれすけ)大将の武勲に、泥を塗ることになるのではないか。軍全体が、それを許さない」

 

 それは、当時の帝国陸軍の将官が等しく抱えていた、強烈な呪縛であった。

 だが、真崎はその言葉を待っていたかのように、足元の泥に塗れた革トランクを引き寄せた。

 カチャリ、と金属の留め具が外れる冷たい音が、雨音に混じって響く。

 

「……旅順の武勲、ですか」

 

 真崎はトランクの中から、防水布に厳重に包まれた一通の古い書状を取り出した。

 それは、三宅坂の地下書庫で発見し、上海の魔都を経て、真崎の命綱として機能し続けてきた至高の「楔」であった。

 

「神尾閣下。これが、その軍神が遺した『本心』です」

 

 真崎が差し出した和紙の束を受け取った神尾は、そこに記された流麗な筆致を一瞥(いちべつ)した瞬間、息を呑んだ。

 それは、紛れもなく乃木希典本人の真筆であった。

 ランプの炎を頼りに、神尾の視線が文字の上を滑っていく。

 ――『白兵突撃ハ、モハヤ次代ノ戦ニ通用セズ』。

 ――『徒ニ兵ノ命ヲ散ラシタル己ノ無能ヲ、死ヲ以テ謝ス』。

 ――『後進ノ者ヨ、火力ト兵站ヲ以テ、陸軍ヲ近代化セヨ』。

 

「な……ッ」

 

 神尾の口から、声にならない呻きが漏れた。

 葉巻を持った彼の手が、小刻みに震えている。日露戦争以来、陸軍全体を縛り付け、神尾自身をも苦しめ続けてきた「旅順の幻影」。その神聖なる呪縛が、他ならぬ乃木本人の慟哭によって、音を立てて崩れ去っていく瞬間であった。

 

「乃木大将は、自らの戦術の古さを誰よりも悔い、次代の火力戦を懇願して自刃されました。主流派の連中は、この遺書を握り潰し、都合のいい『軍神の偶像(アイドル)』だけを利用しているに過ぎません」

 

 真崎は、冷徹に言い放った。

 

「閣下が二十四センチ砲で要塞を砕くことは、乃木大将の遺志を継ぐことであり、英霊を冒涜することには絶対になりません」

 

 沈黙が降りた。

 どれほどの時間が流れただろうか。神尾はゆっくりと遺書から目を離し、それを丁重に机の上に置いた。

 その顔から、先ほどまでの疲労と迷いは完全に消え去っていた。そこにあるのは、呪縛から解き放たれ、本来の冷徹な知将としての牙を取り戻した男の凄みであった。

 

「……見事だ」

 

 神尾は低く呟き、残っていた葉巻を灰皿で揉み消した。

 

「乃木大将の真意、確かに受け取った。私の中で、迷いは完全に断ち切られた」

 

 だが、神尾はすぐに現実の官僚システムへと思考を切り替えた。

 

「しかし、真崎大尉。理と大義が我々にあろうと、外で狂ったように突撃を叫ぶ幕僚たちを、どう『法的に』黙らせる? 彼らが軍令違反を犯してでも独断で突撃を強行すれば、私の権限でも止めきれんぞ」

 

 真崎は、唇の端をわずかに吊り上げた。

 

「ご安心を。そのための『第二の楔』も用意してあります」

 

 真崎はトランクから、今度は一枚の真新しい公文書を取り出した。

 そこには、陸軍省軍務局の正式な印が押されている。

 

「……『新兵器効力検定令』……?」

 

 神尾が文書の表題を読み上げる。

 

「はい。権藤大佐が陸軍省の裏をかいて発布した、特例の軍令です。神林局長にどうやって判を押してもらったかのカラクリはわからないのですが……」

 

 真崎は、文書の核心部分を指で叩いた。

 

「この文書に閣下が署名された瞬間から、この青島戦線はただの戦場ではなく、『四五式二十四糎榴弾砲の威力を測定するための、特設実験場(テストケース)』として法的に定義されます」

 

 神尾の目が、驚きに大きく見開かれた。

 

「実験場における最大の目的は『砲撃による破壊効果の正確な測定』です。したがって、砲撃効果が確認される前に、歩兵が無断で突撃し、敵陣地の状況を不用意に変化させる行為は……『国家の重要兵器開発に対する妨害工作(反逆罪)』として扱われます」

 

 官僚システムが作り出した、完全なる法的な檻。

 大和魂や精神論などという曖昧な言葉が入り込む余地のない、冷酷なまでのロジックであった。

「突撃すれば軍神」ではなく、「突撃すれば兵器開発を妨害した国賊」となる。これならば、いかに狂信的な幕僚であろうと、手も足も出ない。

 

「……くっ、ふふ……」

 

 神尾の肩が震えた。それはやがて、声を殺した深い笑いへと変わっていった。

 

「三宅坂の権藤大佐……いや、神林局長はとんだ悪党(ワル)を飼っているな。これほど見事な『官僚の牙』を見たのは初めてだ」

 

 神尾は机の引き出しから万年筆を取り出すと、一切の躊躇(ちゅうちょ)なく、その公文書の末尾に力強く「神尾光臣」と署名した。

 ペン先が紙を走る擦過音が、雨音に混じって小さく響く。

 それは、大日本帝国陸軍が長年囚われてきた精神論という呪縛に、決定的な死の宣告が下された音であった。

 

「……手続きは完了した」

 

 神尾は署名した文書を真崎へと押し戻し、鋭い眼光を窓の外へ向けた。

 

「ならば、実験を始めようか。大和魂が勝つか、二十四センチの鉄塊が勝つか。後方の連中に、たっぷりと物理の授業をしてやろう」

 

 外では、雨はいまだ降り続いていた。

 しかし、その単調な雨音の向こう側から、蒸気ウインチが唸りを上げ、巨大な鉄塊とコンクリートが組み合わさる、重々しい陣地構築の音が微かに、だが確実に響き始めていた。

 青島の実験場は、いま静かに起動したのである。




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