海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:yoshiume

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第三十四話 太平洋大横断

 大正三年(一九一四年)八月十二日、夕刻。

 

 北緯十八度、東経百四十五度――マリアナ諸島の北端、火山島パガン。

 ジャングルに包まれた孤島の入江に、五隻の鋼鉄の影が、夕陽を浴びて錨を下ろしていた。

 

 ドイツ帝国海軍東洋艦隊。

 装甲巡洋艦『シャルンホルスト』『グナイゼナウ』、軽巡洋艦『エムデン』『ニュルンベルク』、そして特設工作艦『ティタニア』。

 

 数日前まで白亜の艦体に黄土色の煙突という優美な平時塗装を纏っていた艦隊は、いまや乗組員たちの手によって、陰鬱(いんうつ)な暗緑色――戦時迷彩(クリークスアンストリヒ)へと塗り替えられていた。

 

 石炭運搬船から旗艦『シャルンホルスト』の側舷へ差し渡された木板の上を、半裸の水兵たちが石炭の麻袋を背負って蟻の行列のように行き来している。煤と汗にまみれ、瞳と歯だけが妙に白く浮き上がった顔。粉塵の中で、ドイツ語の罵声と咳き込む音が入り混じる。

 その地獄の労働風景を見下ろす艦尾、二十一センチ連装砲塔の影に、一人だけ汚れひとつない純白の熱帯勤務服を纏った老将が立っていた。

 

 マクシミリアン・フォン・シュペー伯爵中将。

 五十三歳。バルチック・ドイツ貴族の出自、痩身に長身、銀色がかった顎髭。ドイツ皇帝(カイザー)直属の東洋艦隊司令長官として、極東におけるドイツ帝国の武威(ぶい)そのものを体現する男であった。

 

 シュペーは葉巻の煙を、夕焼けに染まる西の水平線へとゆっくりと吐き出した。

 四千海里の彼方――極東の島国で、ついに最後の歯車が回り始めようとしている、その確かな予感を感じ取りながら。

 艦内、司令長官公室。

 厚いマホガニーの扉の奥、樫材の執務机の上には、革表紙の戦時日誌。

 シュペーは、十二日前――七月三十一日付の自らの筆跡を、もう一度、噛みしめるように読み返した。

 

『日本が参戦したる場合、青島(チンタオ)の維持は最早不可能なり』

『本国への帰還路は、英艦隊の地中海封鎖により、すでに完全に閉ざせり』

『艦隊が向かう可き方位は、アメリカ合衆国西海岸――あるいは、南米大陸の太平洋岸をおいて他になし』

 

 だが、ページの末尾に書き殴られた最後の一節こそが、シュペーをして極東からの脱出を決断させた、決定的な「物理の数式」であった。

 

金剛(コンゴウ)。三十六(センチ)砲八門。速力二十七節半』

『我が艦隊の片舷火力、二十一糎砲十二門の斉射弾量一千二百九十六(キログラム)は、彼女の主砲弾二発分の質量に過ぎず』

『水平線にその影を認めし瞬間――艦隊は終焉(ターミナル)を迎ふべし』

 

 シュペーは、その「コンゴウ」という極東の異教徒の言葉を、ドイツ語の発音で低く呟いた。神話の不死の怪物の名のように、その響きは舌の上に重く残った。

 一発の砲弾も撃たぬまま、たった一隻の鉄の城が、地球上で最も誇り高い装甲巡洋艦隊の司令長官を、こうして遥かな夜の机の前で慄かせている。

 

   *

 

 午後九時。

 

 司令長官公室に、艦長たちが集った。

 旗艦『シャルンホルスト』艦長フェリックス・シュルツ大佐、『グナイゼナウ』艦長ユリウス・メルカー大佐、『エムデン』艦長カール・フォン・ミューラー中佐。参謀長フィリップ・エンゲルス大佐、その他の艦長たち。

 

 長机に広げられた太平洋海図の前で、シュペーは極めて簡潔に、艦隊の南米回航計画を告げた。マジュロを経由し、マルケサス、イースター島、そしてチリ沿岸へ。地球の四分の一を旅する、絶望的な逃避行である。

 

「閣下」

 

 参謀長エンゲルスが口を開いた。

 

「青島の同胞たちを、見殺しにすることになりますが」

 

 シュペーは海図の上で、極東の小さな半島を指先で軽く弾いた。

 

「青島には、間もなく日本の三十六センチ砲弾が降る。我々が湾内に閉じ込められれば、最初の二発で『シャルンホルスト』が沈む。残る六発で、グナイゼナウとエムデンとニュルンベルクが順に砕け散る。……艦隊の死を半年遅らせるために、艦隊の生を半年早めに捨てに行く。そんな取引はせん」

 

 エンゲルスは沈黙した。反論の余地を完全に塞いだ、提督の論理であった。

 その時、長机の最も若い席から、一人の中佐が静かに挙手した。

 

「閣下。一つ、ご提案がございます」

 

 カール・フォン・ミューラーであった。

 

「本隊が東へ向かわれるなら、私の『エムデン』を――西へ。インド洋へお放ち下さい。一隻の軽巡洋艦が英国の通商路を荒らし続ければ、連合軍の艦隊配備を分散させ、本隊の追跡を遅らせる『煙幕(シュライアー)』となります」

 

 ミューラーの瞳には、自らの命と艦を本隊の犠牲として差し出すことへの、一切の躊躇(ためら)いがなかった。

 シュペーは、長い沈黙の後、低く呟いた。

 

「……Ja(承知した)、ミューラー殿」

「貴官の艦は、囮ではない。本隊が南米で死ぬまでの、最後の煙幕だ」

 

 ミューラーは席を立ち、踵を打ち鳴らして敬礼した。

 シュペーは、その背中を見送りながら確信していた。この若く優秀な男に、自分はもう二度と会えないだろうということを。

 

 艦長会議が散会したのは、深夜を回ってからであった。

 艦橋甲板に出たシュペーの白い熱帯勤務服を、ジャングルから吹き下ろす夜風と、月光に照らされた珊瑚礁(さんごしよう)の青白い反射とが、静かに洗っていた。

 

 その時、舷側の縄梯子から、軽巡洋艦『ニュルンベルク』の連絡艇に乗ってきた一人の若い士官が、踵を打ち鳴らして甲板に上がってきた。

 二十四歳。シュペーと同じ銀色がかった髪と、痩身に長身の体格。

 長男オットー・フォン・シュペー少尉。『ニュルンベルク』の砲術士官として乗務する、シュペーの息子であった。

 

「閣下」

 

 オットーは公式の敬礼で、父に挨拶した。

 

少尉(レオトナント)

 

 シュペーも、公式の階級でのみ応じた。

 

「明朝、本国連絡のためホノルル方面へ単艦で派遣されると伺いました」

「Ja(然り)」

 

 オットーは短く頷いた。

 

「再会の保証は」

「ない」

 

 父子の間に、それ以上の言葉は不要であった。

 二人は艦橋甲板の手すりに並んで肘をつき、月光に光る珊瑚礁(さんごしよう)の海を、ただ静かに見つめた。

 シュペーには、もう一人の息子がいる。次男ハインリヒ少尉。二十二歳。『グナイゼナウ』の航海士官として、本隊の旗艦に隣接する僚艦に乗務している。

 二人の息子を、一人ずつ、別々の艦に、別々の海へと送り出す。長男はハワイへ、次男は南米へ。少なくとも、ハインリヒの死は、自分の眼で看取れる。

 オットーは敬礼して連絡艇へと去っていった。

 シュペーは葉巻に火を点け直し、誰にも聞こえぬ声で次男の名を呟いた。

 

   *

 

 八月十三日、夜明け前。

『エムデン』が、本隊から静かに分離した。煙突から細い黒煙を一筋たなびかせ、インド洋の死地へと進路をとっていく。

 シュペー主力艦隊は、その白い航跡を見送りながら、東へ針路を定めた。

 艦橋に立つシュペーの視線は、しかし東ではなく、その遥か北――内地と太平洋の哨戒線をゆるりと往復しているはずの、見えざる巨砲の方角へと向けられていた。

 彼の艦隊を、英国艦隊が追っているのではない。日本艦隊が包囲しているのでもない。

 ただ一隻、水平線の彼方に存在するかもしれぬ『コンゴウ』の影だけが、シュペーの誇り高きドイツ装甲巡洋艦隊を、地球の四分の一の彼方まで追い立てているのだ。

 一発の砲弾も撃たれぬまま。一度たりとも、その影を目視されぬまま。

 近代という時代が生み出した、最も合理的で、最も理不尽な「不在の威圧」が、ここにあった。

 

「コンゴウ」

 

 シュペーは、その異教徒の神の名を、もう一度、誰にも聞こえぬ声で呟いた。

 パガン島の珊瑚礁の海に、夜明けの最初の陽光が、冷たく差し始めていた。

 




少しだけ解説を。

シュペー中将は、二人の息子を別々の艦に乗せたまま太平洋へ旅立ちました。長男オットーは「ニュルンベルク」、次男ハインリヒは「グナイゼナウ」。この話から四ヶ月後の1914年12月8日、フォークランド沖海戦で父と二人の息子は、それぞれ別の海に沈みます。三人が再会することはありませんでした。「コンゴウ」は一発も撃たずに、この一家を地球の裏側まで追い立てたのです。

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※続きは明日19:40に更新予定です。
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