海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
ズドォォォォン――。
それは音というより、鼓膜を押し潰す衝撃だった。
水平線の彼方、
海軍の
周防の艦砲は、すでに沈黙していた。
山の裏側を叩くのは陸軍の仕事だ。第二艦隊は今、砲艦ではなく「観測所」として膠州湾に浮いている。
「……始まったか」
秋月は誰に聞かせるでもなく、唇の端をわずかに吊り上げた。
「陸のモグラどもが、ようやく重力と鉄塊の使い方を覚えたらしい」
その轟音を背に、秋月の意識は数週間前、この海に立ち込めていた奇妙な静寂の中へと遡っていった。
当時の帝国海軍にとって、この青島攻略戦の初動は「拍子抜け」以外の何物でもなかった。
開戦前まで青島を根城にしていたシュペー中将のドイツ東洋艦隊は、日本の参戦を待たずに、太平洋の彼方へ出ていった。日本海軍の巡洋戦艦『
九月上旬、秋月が目にした膠州湾は、がらんとした「虚ろな海」だった。
主力に見捨てられた青島には、洋上行動能力の乏しい小型砲艦や、オーストリア=ハンガリー帝国の旧式防護巡洋艦『カイザリン・エリザベート』だけが取り残されていた。
それらの艦も、もはや海を
濁った海面に漂うのは、虹色の油膜ばかり。秋月はその虚無的な光景を、冷めた目で見つめていた。
一方で、要塞の背後にあたる
海軍が差配する大規模な輸送船団が、巨大な
しかし、砂浜から一歩、
九月の異常な豪雨。
秋月の眼下では、海軍が降ろした「二十四糎榴弾砲」という数十トンの鉄塊を、カーキ色の軍服を着た陸軍兵士たちが、泥の中で押していた。
道とは名ばかりの底なしのぬかるみ。軍靴は吸い込まれ、軍馬は過労で次々と泡を吹いて倒れ、その死骸が泥の中に踏み固められていく。
その馬の死骸を越えて、腰まで泥に浸かった工兵たちが、うめき声を上げながら巨砲をミリ単位で前進させていた。
秋月は双眼鏡を上げた。
砲車一台に、綱が何本も掛かっている。数十人の兵が綱を肩に食い込ませ、掛け声に合わせて体を前へ倒すたびに、車輪がわずかに進み、また沈む。
「……あれで、一回の掛け声に何センチ進んでいる」
秋月が呟くと、傍らで手旗を巻いていた信号兵が、自分の双眼鏡を目に当てた。
「はっ。……十センチ、でしょうか。進んだぶん、また沈んでおります」
「青島の前まで、ここから何キロある」
「さあ……二十キロか、三十キロか、と聞いております」
「十センチずつ三十キロなら、掛け声は三十万回だな」
信号兵が、目を丸くして双眼鏡を下ろした。
(……真崎のやつなら、本当に数えながら押すだろうな)
「少佐。うちの短艇員を、手伝いに出しますか」
「やめておけ。白い服が泥に入れば、陸の参謀どもは顔に泥を塗られたと騒ぐだけだ」
信号兵は黙って手旗を巻き直した。
浜の向こうで、また一つ、掛け声が上がった。
「あんなものは、人間のやる仕事ではないな」
旗艦の甲板で秋月の傍らに立ったのは、英国海軍の連絡将校、アーサー大尉だった。
アーサーは、手に持ったティーカップを秋月の方へ向け、皮肉げな笑みを浮かべた。
「勇敢なる貴国の陸軍諸君は、泥の中で死ぬために生まれてきたようです。……もっとも、彼らが要塞を落とした後は、速やかにこの山東半島を中国へ返していただきたいのですがね。火事場泥棒的な領土拡張は、我が国王陛下がお望みではありません」
「返還?」
秋月は、手にしたブラックコーヒーのカップを傾けた。
「極東の掃除を我々に押し付けておいて、それはないでしょう。お駄賃くらいは頂きますよ。でなければ、あそこで泥水をすすっている陸軍を、我々海軍でも止めきれなくなる」
「……脅しかね、秋月少佐」
「いいえ。ただの予測ですよ」
*
ズォォォォン――。
再び、空気を引き裂く重低音が、秋月の回想を現在へと引き戻した。
二十四糎榴弾砲の第二射、第三射。
双眼鏡を覗き込んだアーサー大尉の顔から、先ほどまでの余裕が消えていた。
ドイツ軍の誇る堅牢なコンクリートの天蓋が、二十四糎という巨大な鉄塊の前に、まるでもろい煎餅のように叩き割られていく。その惨状は、彼の想像を絶していた。
「……正気か、日本軍は。これほどまでの鉄量を、この短期間に注ぎ込むなど……」
秋月は薄笑いを浮かべたまま、カップに残ったコーヒーを飲み干した。
「さて、大尉。ここからは砲の番だ」
秋月はそう言うと、虚ろな海を見限るようにして、背後の司令塔へと歩き出した。
ふと、胃の腑が鈍く疼く。
砲撃が始まる前、艦橋でサンドヰッチを掻き込んでいた。戦闘中の飯など、腹の足しにはならない。ひと段落した今になって、じわりと空腹が戻ってきた。
(……陸と海が同じ標的を叩く。動機はどうあれ、歯車が噛み合っている間は使い倒せばいい)
砲声は止まない。
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※続きは明日19:40に更新予定です。
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