海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:yoshiume

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第三十五話 虚ろな海、泥の陸

 ズドォォォォン――。

 

 それは音というよりは、大気の塊が物理的な重量を持って鼓膜を圧し潰すような、凄絶な衝撃であった。

 

 膠州湾(こうしゅうわん)の沖合、帝国海軍第二艦隊旗艦「周防(すおう)」の甲板に立つ秋月慧少佐は、飛沫に濡れた手で手すりを掴み、陸の方角を凝視した。

 水平線の彼方、青島(チンタオ)要塞の背後にそびえるビスマルク山の稜線から、巨大な爆煙が立ち昇る。

 海軍の平射(へいしゃ)砲では決して届かなかった山の裏側。そこに、陸軍が運び込んだ「二十四センチのハンマー」がついに振り下ろされたのだ。

 

 周防の艦砲は、すでに沈黙していた。

 山の裏側を叩くのは陸軍の仕事だ。第二艦隊は今、砲艦ではなく「観測所」として膠州湾に浮いている。

 

 「……始まったか」

 

 秋月は誰に聞かせるでもなく、唇の端をわずかに吊り上げた。

 

 「陸のモグラどもが、ようやく重力と鉄塊の使い方を覚えたらしい」

 

 その轟音を背に、秋月の意識は数週間前、この海に立ち込めていた奇妙な静寂の中へと遡っていった。

 当時の帝国海軍にとって、この青島攻略戦の初動は「拍子抜け」以外の何物でもなかった。

 

 開戦前、膠州湾にはマクシミリアン・フォン・シュペー中将率いるドイツ東洋艦隊が鎮座していた。装甲巡洋艦『シャルンホルスト』『グナイゼナウ』といった精鋭艦を擁するこの艦隊は、極東におけるドイツ帝国の武威(ぶい)そのものであった。

 しかし、シュペーはリアリストであった。

 彼は特に日本海軍が誇る超弩級巡洋戦艦『金剛(こんごう)』の幻影を恐れた。三十六センチ砲という圧倒的質量を持つ「金剛」に閉鎖的な湾内で捕捉されれば、本格的な造修施設を持たない青島では、全滅を待つだけの「袋のネズミ」になる。

 彼は、日本の宣戦布告を水平線に認める前に、主力艦隊を率いて太平洋の彼方へと戦略的逃亡を図ったのである。

 

 九月上旬、秋月が目にした膠州湾は、まさに「虚ろな海」であった。

 

 主力に見捨てられた青島には、洋上行動能力の乏しい小型砲艦や、オーストリア=ハンガリー帝国の旧式防護巡洋艦『カイザリン・エリザベート』だけが取り残されていた。

 それらの艦も、もはや海を()く力はない。備砲のほとんどをもぎ取られて陸上砲台へと提供され、残された船体は自らの手で爆破・自沈していった。

 

 濁った海面に漂うのは、虹色の油膜と、主を失った軍艦の鉄屑ばかり。秋月はその虚無的な光景を、冷めた目で見つめていた。

 

 ふと、秋月は視線を東の水平線――この虚ろな海を生んだ張本人が、いまも遊弋(ゆうよく)しているはずの方角――へと向けた。

 遥か東経一三〇度の沖合。超弩級巡洋戦艦『金剛』は、この膠州湾に一度も姿を見せていない。来たるべき対米決戦に備えた「聖剣」として、鞘の中に収められたままだ。

 それで十分だった。

 金剛が太平洋のどこかに「在る」という事実だけで、シュペー艦隊を南米チリ沖まで追い落とし、赤道以北の海からドイツの影を完全に消し去ったのだ。

 

 (……不在こそが、最大の存在か)

 

 秋月は冷たい笑みを浮かべ、爆破自沈の鉄屑が漂う膠州湾の濁った海面へと視線を戻した。

 一方で、要塞の背後に位置する労山湾(ろうざんわん)では、正反対の光景が展開されていた。

 海軍が差配する大規模な輸送船団が、巨大な起重機(クレーン)を唸らせて物資を降ろしていく。

 「白い軍服の男たち」は、要塞砲の射程外という安全圏で、極めてシステマチックに、まるでピクニックの荷降ろしでもするかのように物資を砂浜へ届けた。

 そこにあるのは、近代工業化の粋を集めた「清潔な兵站」であった。

 しかし、砂浜から一歩、(おか)へ踏み出した瞬間、世界は一変する。

 

 九月の異常な豪雨。

 秋月の眼下では、海軍がスマートに降ろした「二十四センチ榴弾砲」という数十トンの鉄塊を前に、カーキ色の軍服を着た陸軍兵士たちが、地獄の如き苦行を強いられていた。

 道とは名ばかりの底なしのぬかるみ。軍靴は吸い込まれ、軍馬は過労で次々と泡を吹いて倒れ、その腐乱した死骸が泥の中に踏み固められていく。

 その馬の死骸を越えて、腰まで泥に浸かった工兵たちが、うめき声を上げながら巨砲をミリ単位で前進させていた。

 

 「あんなものは、人間のやる仕事ではないな」

 

 旗艦の甲板で秋月の傍らに立ったのは、イギリス海軍の連絡将校、アーサー大尉であった。

 バーナディストン少将の部下である彼は、手に持ったティーカップを秋月の方へ向け、皮肉げな笑みを浮かべた。

 

 「勇敢なる貴国の陸軍諸君は、泥の中で死ぬために産まれてきたようです。……もっとも、我々大英帝国としては、彼らがその泥にまみれて要塞を落とした後、速やかにこの山東半島を我々の管理下に返還していただきたいのですがね。火事場泥棒的な領土拡張は、我が国王陛下がお望みではありません」

 

 秋月は、手にしたブラックコーヒーのカップを傾け、苦い熱気が鼻をつくのを感じながら応じた。

 

 「返還、ですか。アーサー大尉、貴国が欧州の西部戦線で、まさに今我々が見ているような『泥沼』に足を取られ、ドイツ軍の機関銃の前に若者を無駄死にさせていることは承知しています」

 

 秋月の声には、隠そうともしない冷徹な響きがあった。

 

 「極東の掃除を我々に押し付けた以上、相応の『お駄賃』は頂きますよ。でなければ、我が国の世論……いえ、あそこで泥水を啜っている陸軍の暴走を、我々海軍ですら止めきれなくなりますのでね」

 「……脅しかね、秋月少佐」

 「いいえ。ただの予測ですよ」

 

 二人の間に流れるのは、同盟という名の美名に隠された、剥き出しの不信と計算であった。

 イギリス軍がこの攻略戦に参加しているのは、日本の戦力を補うためではない。日本の独断専行を監視し、戦後の利権分配のテーブルで主導権を握るための「監視役」に過ぎなかった。

 

   *

 

 ズォォォォン――。

 再び、空気を引き裂く重低音が、秋月の回想を現在へと引き戻した。

 二十四センチ榴弾砲の第二射、第三射。

 陸上の真崎たちが放った物理的質量の暴力は、もはや外交の言葉など必要としないほどに圧倒的であった。

 双眼鏡を覗き込んだアーサー大尉の顔から、先ほどまでの余裕が消えていた。

 ドイツ軍の誇る堅牢なコンクリートの天蓋が、二十四センチという巨大な鉄塊の前に、まるでもろい煎餅のように叩き割られていく。その惨状は、観戦武官である彼の想像を絶していた。

 

 「……正気か、日本軍は。これほどまでの鉄量を、この短期間に注ぎ込むなど……」

 

 秋月は薄笑いを浮かべたまま、カップに残ったコーヒーを飲み干した。

 

 「さて、大尉。ここからは物理が政治を圧倒する時間だ」

 

 秋月はそう独白すると、虚ろな海を見限るようにして、背後の司令塔へと歩き出した。

 ふと、胃の腑が鈍く疼いた。

 砲撃が始まる前、艦橋でサンドイッチを掻き込んでいた。戦闘中の飯など、腹の足しにはならない。ひと段落した今になって、じわりと空腹が戻ってきた。

 

 (……陸と海が同じ標的を叩く。動機はどうあれ、歯車が噛み合っている間は使い倒せばいい)

 

 陸の泥濘(でいねい)で、真崎が「精神」を「物理」で粉砕している。ならば、自分はこの「白」と「青」の世界で、その物理を「利権」へと変換する計算を始めなければならない。

 砲声は止まない。




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