海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:yoshiume

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第三十六話 鳩の飛ぶ空  

 降り続いていた秋雨が、ほんのわずかな時間だけ止んだ。

 静かすぎた。

 

 大正三年(一九一四年)十月。山東(シャントン)半島に広がる黄色い泥の海の上に、重く垂れ込めていた雲間から一筋の冷たい陽光が射し込んでいた。

 

 最前線の陣地では、蒸気ウインチの唸り声と、汗にまみれた工兵たちの野太い掛け声が響き渡っていた。

 彼らが腰まで濁水に浸かり、腐敗した軍馬の死骸を越えて運び込んだ「四五式二十四(センチ)榴弾砲」の据え付けが、ついに完了しようとしていたのだ。巨大な砲床(ほうしょう)に固定された数十トンの鉄塊は、液状化した大地という前近代の地獄の中で、そこだけが切り取られたように「近代工業の結晶」たる無機質な機能美を放っていた。

 特命観戦武官・真崎勇気大尉は、その巨大な砲身の傍らで、薄汚れた野帳(スケッチ)に弾道計算の数式を書き込んでいた。

 温度、湿度、風向、装薬の温度。精神論など入り込む余地のない、冷徹な物理法則の羅列である。

 

 「――試射、撃て!」

 

 砲兵将校の号令とともに、轟音が大気を引き裂いた。

 重さ二百キログラムの榴弾が、黄色い硝煙と衝撃波を巻き起こしながら空高く打ち上げられる。真崎は双眼鏡を覗き込み、その巨弾が放物線を描いて青島要塞の背後、モルトケ山の斜面に着弾するのを見届けた。

 だが、真崎の表情は険しいままであった。

 土煙は上がったが、ドイツ軍の要塞の深部を穿つには、まだ着弾点が僅かにずれている。

 

 (砲弾の威力は申し分ない。だが、山越えの曲射射撃においては、正確な『着弾観測』による座標の修正が不可欠だ)

 

 砲兵にとって、「見えない敵」を撃つことほど弾薬の無駄はない。真崎は数式の修正に取り掛かろうと、再び野帳に目を落とした。

 その時である。

 

 ブブブブブッ――。

 

 泥をすする音と砲声に支配された戦場に、突如として「異質な脈動音」が降ってきた。

 それは、ロータリーエンジン特有の、規則的でありながらどこか油臭さを伴った機械音であった。

 

 「……鳥か?」

 

 ぬかるんだ塹壕に身を潜めていた歩兵の一人が、空を見上げて間の抜けた声を漏らした。

 真崎は、雨に濡れた軍服の懐から、鈍い黒光りを放つ金属の筒を取り出した。魔都・上海の裏路地で手に入れた、カール・ツァイス社製の光学照準器である。それを右目に当て、天空へと向けた。

 官給品の粗悪な双眼鏡では、ただの霞んだ点にしか見えない高度千メートルの空。それが、ドイツ光学技術の結晶である歪み一つないレンズ越しに、恐ろしいほどの解像度で真崎の眼前へと引き寄せられた。

 雲間から現れたのは、確かに鳥であった。いや、鳥の形を模した、巨大な機械仕掛けの怪鳥であった。

 

 半透明の羽布が張られた後退角のついた主翼。それは高度四百メートルの空の背景に溶け込むような、不気味なステルス性を備えていた。フランス軍から「見えない飛行機」と恐れられたドイツの偵察機、『ルンプラー・タウベ(鳩)』である。

 

 地べたを這いずり回り、腐敗した野営地の臭気に塗れた日本軍の兵士たちにとって、青空に透けるような白いタウベの姿は、あまりにも優雅で、そして圧倒的であった。

 それはまるで、天上の神が、這い回る虫けらを冷ややかに見下ろしているかのような、根源的な恐怖を真崎に抱かせた。

 

 この青島の空を支配していたのは、ギュンター・プリュショウ中尉という一人の天才的パイロットであった。

 当時、航空機に積載できるような実用的な小型無線機は存在しない。機体を軽くするため、プリュショウは偵察員を乗せず、常に単独で出撃していた。

 真崎の構えるツァイスのレンズは、その恐るべき光景をはっきりと捉えていた。上空を旋回するタウベの操縦席で、プリュショウはなんと両脚で操縦桿を挟み込んで機体を安定させ、両手に鉛筆を握って、眼下の日本軍陣地を猛烈な勢いでスケッチしているのである。

 

 (空からの目……! 奴ら、我々の二十四糎砲の座標を特定する気か!)

 

 真崎の背筋を、氷のような戦慄(せんりつ)が駆け抜けた。

 

   *

 

 タウベが日本軍の陣地を悠然と旋回し、青島要塞の方向へと飛び去ってから、数十分後のことである。

 プリュショウが投下した通信筒、あるいは彼自身の持ち帰った精密なスケッチは、要塞深部に隠されたドイツ軍の砲兵司令部へと即座に伝達されていた。

 ヒュルルルゥゥ……。

 空気を切り裂くような、死の飛翔音が降ってきた。

 それは、海軍の平射砲でも、日本軍の野砲でもない。ドイツが誇る二十八センチ要塞砲が放った、恐るべき大質量の落下音であった。

 

 「伏せろッ!!」

 

 真崎の怒号と同時に、ズドガァァァン!! という大爆発が、試射を終えたばかりの二十四糎榴弾砲陣地のすぐ傍らで巻き起こった。

 大地が、文字通り「捲れ上がった」。

 何十トンもの黄色い泥土、土嚢、そして先ほどまで大和魂を叫んでいた兵士の肉体が、圧倒的な破壊のエネルギーによって天高く噴き上げられる。

 凄まじい衝撃波に突き飛ばされ、冷たい土の中に叩きつけられた真崎は、耳鳴りに顔をしかめながら身を起こした。

 

 「なぜだ! なぜ奴らは、我々の重砲陣地の位置をこれほど正確に知っているのだ!」

 

 司令部の天幕から飛び出してきた幕僚の一人が、顔を真っ赤にしてパニック状態に陥っていた。

 

 「あれが『情報』と『火力』の融合です!」

 

 真崎は口の中の砂を吐き捨てながら叫んだ。

 

 「我々が平面の地図で弾道計算をしている間に、奴らは上空から我々を覗き込み、三次元の座標で照準を合わせている!」

 

 狂乱状態に陥った幕僚たちは、理解の及ばない近代戦の絶望を前に、すがりつくように古き精神論へと逃げ込んだ。

 

 「撃て! あの忌々しい怪鳥を撃ち落とせ!」

 「野砲の車輪を土塁に乗り上げろ! 仰角を稼いで空へ放て!!」

 

 怒号が飛び交う中、歩兵たちは三八式歩兵銃を空へ向け、一斉に無意味な乱射を始めた。砲兵たちもまた、指示されるままに野砲の片輪を土嚢の上に無理やり乗り上げさせ、天空に向かって盲滅法(めくらめっぽう)に砲弾を放つ。

 だが、結果は火を見るより明らかであった。

 重力と物理法則の前に、歩兵の小銃弾も、無理やり仰角をつけた野砲の弾も、タウベが飛ぶ遥か手前の空域で虚しく失速し、放物線を描いて自らの足元の中へと落ちていった。

 真崎は、土塁に背を預けながら、手帳に冷ややかに書き留めた。

 

 『対空火器の決定的な欠如。陸軍は空からの攻撃に対して完全に無防備なり』

 

 怒号を上げて空撃ちを続ける幕僚たちの姿は、近代という冷酷なシステムの前で滑稽な踊りを踊る、哀れなピエロのように見えた。

 

 ヒュルルルゥゥ……ズドガァァァン!!

 

 再び、ドイツ軍の要塞砲が着弾した。

 今度の着弾点は、先ほどよりもさらに二十四糎砲の砲床に近い。いわゆる「夾叉(きょうさ)」である。目標の手前と奥に着弾させることで、次弾での直撃を確実にする砲兵の基本戦術だ。

 

 (次第に座標が狭まってきている。このままでは、数時間以内に我が軍の重砲陣地は全滅する……!)

 

 真崎は、泥まみれの手で己の顔を覆った。

 地上の大砲という「物理」をいくら揃えたところで、空を飛ぶタウベという「視界(情報)」を奪われた状態では、一方的な(なぶ)り殺しに遭うだけだ。

 二次元の論理で構築された帝国陸軍は、三次元の空間を支配するドイツ軍の前に、完全に詰の盤面に立たされていた。

 

   *

 

 ――その同じ時刻。

 真崎が空からの目に蹂躙(じゅうりん)されている青島から、東に四千キロ。

 太平洋上では、巡洋戦艦『金剛』が、無傷のまま静謐(せいひつ)な航跡を引いていた。

 一発の砲弾も撃たぬまま、水平線上の影だけで、ドイツの主力艦隊を地球の裏側へと追い立てている。帝国海軍は、太平洋の半分を、たった一隻の鉄の城だけで支配していたのだ。

 だが、その絶対的な優位を享受している海軍上層部のもとに、いま青島の泥水を啜る陸軍からのSOSは届かない。届くはずもない。

 同じ帝国の中で、海軍は神の如く海を支配し、陸軍は虫けらの如く空に蹂躙されている。

 大日本帝国は、二つの戦争を、二つの組織で、二つの倫理で戦っているのだった。

 

 「……地上の物理だけでは、空の目には勝てない」

 

 その時である。

 真崎の脳裏に、上海の魔都で暗躍する一人の老人の姿が閃いた。

 和装に三味線を抱えた七十五歳のトリックスター、高杉晋作。

 

 (……あの老人なら、この詰みをとうの昔に読んでいるはずだ)

 

 ドォォン! と、すぐ近くで再び土砂が噴き上がる。

 真崎は手帳を懐にねじ込むと、狂乱する幕僚たちを突き飛ばすようにして、司令部天幕の奥に鎮座する無線機へと走った。

 




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