海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:yoshiume
海軍特務員、潮崎拓馬中尉の肩に黒い欠片が落ちた。
巡洋戦艦『
潮崎は、その黒い汚れを指先で無造作に弾き飛ばし、皮肉げな冷笑を浮かべた。
彼の手には、上海の暗号解読者・黒石透から届いたばかりの極秘電報が握られていた。
大正三年(一九一四年)十月上旬。北緯九度の洋上。
見渡す限りエメラルドグリーンに透き通るサンゴ礁の海を、大日本帝国海軍・第一南遣枝隊の旗艦、鞍馬の巨大な
甲板には、強烈な熱帯の陽射しを反射するような純白の第二種軍装(夏服)に身を包んだ海軍陸戦隊の将兵たちが整列していた。一滴の泥もはねていない純白の隊列は、洗練された近代海軍の美の極致である。
潮崎もまた、その列の片隅に立っていた。
南洋の青空に煤煙をたなびかせながら進む鞍馬の甲板で、潮崎が握る電報には、背筋の凍るような事態の急変が記されていた。
『十月一日、オーストラリア艦隊がラバウルを発ち、赤道以北へ向けて北上中』
オーストラリアは、大英帝国の自治領である。
日本が向かっているのと同じ赤道以北のドイツ領へ向けて、同盟国であるはずのイギリス陣営の艦隊が、猛烈な速度で牙を剥いて迫っているのだ。
この南洋一帯は、ドイツ帝国が世界中に張り巡らせた海底通信ケーブルの要衝だ。ここを押さえることは、単なる領土占領ではない。世界の神経網からドイツの回路を引き抜き、帝国の回路を繋ぎ込む「外科手術」を意味していた。
同盟の美名の裏に潜む帝国主義の本音が、いま剥き出しになっている。
潮崎は踵を返し、艦橋に設けられた司令部の幕僚室へと足を踏み入れた。
室内では、参謀たちが美しい海図の上に真鍮のコンパスを置き、「次はどこに日章旗を立てるか」「現地の
「司令官に進言願います。本隊はこのまま直ちにヤップ島を接収、同時に別働隊には全速で東のヤルートへ向かうよう下令されたし」
突然の特務機関員の無礼な物言いに、幕僚の一人が不快げに顔をしかめた。
「なんだ君は。我々は計画通り、順次作戦を遂行している。同盟国の英海軍とも調整は済んでいるのだ。無闇に別働隊を急がせて、ボイラーを傷める必要がどこにある」
潮崎は、握りつぶした電報を幕僚の目の前の海図にピシャリと叩きつけた。
「豪州艦隊が来ます。一歩でもモタつけば、赤道以北の美味い果実はすべて白人どもに持っていかれる。これはコンマ一秒を争う椅子取りゲームです」
氷のように鋭く冷徹な一言であった。
その圧倒的な事実の前に、幕僚たちの顔から完全に余裕が消え失せた。状況を察知した後の判断は速かった。
「……通信長! 別働隊は予定通りヤルートへ向かわせるが、とにかく急がせろ! 豪州艦隊より一秒でも早く、ドイツ領に日の丸を立てるのだ! 本隊にも連絡、ボイラーの圧を限界まで上げろ! 目の前のヤップ島の接収を直ちに終わらせる!」
怒号が飛び交い、伝声管を通じて命令が艦の深部へと伝達される。
ズゴゴゴゴッ……!
巡洋戦艦「鞍馬」の巨大な船体が、急激な増速によって大きく傾き、波を砕く轟音が響き渡った。
機関室の釜焚きたちが血を吐くような思いで石炭を放り込み、煙突からは先ほどよりもさらに濃く、暴力的なまでの真っ黒な煤煙が吐き出され、赤道直下の美しい純白の夏雲を無残に汚していく。
抜けるような青空とエメラルドの海。その表面的な「清潔でスマートな進撃」の裏には、冷や汗をかくほどの覇権争いの焦燥がドロドロと渦巻いていた。
*
正午を過ぎた頃、潮崎は士官食堂へ降りた。
扉を開けた瞬間、濃厚な香りが鼻腔を直撃した。
カレーだ。
南洋の熱帯の空気を押しのけるような、玉ねぎの甘みとスパイスが渾然と溶け合った、あの野太い匂い。艦内でこの匂いが漂う日は、週に一度と決まっていた。
テーブルには、すでに数人の士官たちが着席し、無言で大ぶりの磁器の皿に盛られた黄褐色の塊を、無心にスプーンで掻き込んでいた。
潮崎は向かいの席に腰を下ろし、給仕の水兵が運んできた皿を引き寄せた。
たっぷりの米の上に、とろりとした濃い褐色のルーが波を打っている。具は牛肉と大ぶりに切った人参、そして煮崩れた玉ねぎ。武骨で、過不足ない。
一口。
舌の上に広がるのは、スパイスの鋭い刺激と、長時間煮込んだ肉の脂の甘みが絡み合った、重くて力強い味だ。
(……また、この日か)
潮崎は、スプーンを動かしながら、ふと思った。
海軍がカレーを週に一度欠かさず出す理由は、戦意高揚でも贅沢でもない。極めて合理的な計算の産物だ。
長期の航海において、白米ばかりを食べ続けた水兵たちの間に脚気が蔓延し、命を落とす者が続出した時代があった。その後、海軍は洋食を採り入れることで栄養の偏りを補い、脚気による損耗を劇的に減らした。カレーは五大栄養素を一皿に詰め込むことができる、近代海軍の合理主義が生んだ究極の兵站料理だ。
さらに、もう一つ。
赤道直下の洋上では、日付の感覚が容易に失われる。毎日同じ青い海、同じ太陽、同じ艦内の金属音。一週間がひと固まりになって、脳から時間を蒸発させていく。週に一度のカレーは、水兵たちに「今日は何曜日か」を思い出させるための、食べる
(食で時間を管理する。理屈は分かる。だが、今の俺には時間より腹の足しが要る)
潮崎は皿の底が見えるまで掻き込み、水を一口飲んだ。
四千キロ北の
こういうことを「皮肉」と言うのだろう、と潮崎は思った。
しかし感傷に浸っている暇はなかった。
スプーンを置き、椅子を引く。鞍馬はまだ走っている。
*
その夜。ヤルートへ向かった別働隊から、一通の電文が届いた。
『ヤルート接収完了。豪州艦隊ヨリ先着セリ』
椅子取りゲームは、制した。
潮崎は鞍馬の艦上で二通の電文を並べた。
一通は真崎からのSOS。もう一通は、高杉晋作の
(陸では、ドイツの空に
「まったく……大日本帝国は、いったい何カ国と戦争をしているのだ」
呟きは、波音の中に消えた。
少しだけ解説を。
海軍カレーは現代では「金曜日」が定番ですが、明治・大正期の海軍では「土曜日の昼食」でした。当時の土曜は午前中で業務が終わる「半休」。その昼に特別感のある洋食を出す習慣が、のちに金曜へと移り変わっていきました。潮崎が食べているのは、まだ「土曜カレー」の時代です。
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※続きは明日19:40に更新予定です。
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