海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:yoshiume

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第三十八話 万年筆による侵略

 上海・フランス租界の地下室。

 

 ガチャ、ガチャ、チーン――。

 手回し計算機の駆動音が、湿った煉瓦の壁に反響している。

 黒石透は、ヨレたシャツの袖をまくり上げたまま、壁一面に貼り出された傍受電文の中に、七文字を見つけた。

 

 『盤外ノ援軍、急ゲ』

 

 差出人は、青島の真崎大尉。

 黒石は無造作にラムネ瓶を掴み、一口煽った。ビー玉がガラスの中で涼しげに転がる音が、地下室の金属音にひとつ混じった。甘い炭酸が喉を刺す。それで十分だった。

 

(……タウベか)

 

 黒石はラムネを置くと、無言で計算機のレバーを引いた。

 上海の夜は、まだ長い。

 

   *

 

 大正三年(一九一四年)十月。

 

 赤道直下の空は、ガラスを磨き抜いたように硬質で、そして暴力的なまでに青かった。

 北緯九度の洋上。眼下に広がる海は底の白砂が透けて見えるほどのエメラルドグリーンに輝き、サンゴ礁が織りなす無数の波の紋様が、眩い光を乱反射させながらヤップ島の浜辺を撫でている。

 

 大日本帝国海軍の南遣枝隊は、この島に投錨していた。かつてドイツ帝国が南洋に築き上げた、世界通信の結節点である。大戦の血生臭さなど微塵も感じさせない、圧倒的な光と熱の静寂が、そこを支配していた。

 

 海を滑るように進む内火艇から、帝国海軍陸戦隊の将兵たちが次々と桟橋に降り立つ。赤道の容赦ない熱射を弾き返すような、糊の効いた純白の第二種軍装。彼らの磨き上げられた真っ白な軍靴には、泥のひとしずくもはねておらず、衣服からは潮と新しい羅紗(らしゃ)の匂いしかしない。

 

 その光景を、ヤシの木立の深い陰から眺めている一人の男がいた。

 目深に被った上質なパナマ帽に、胡散臭い鼈甲縁(べっこうぶち)の色眼鏡。一見すれば、南洋を渡り歩くただの怪しげな日本人交易商人である。特務機関員・潮崎拓馬の、見事な擬態であった。

 

(……またこの島か)

 

 潮崎は、総督府のタラップを肩を落として下りてくるドイツ人行政官ケッセルを色眼鏡の奥から横目で見やり、パナマ帽のつばをさらに深く下げた。

 

 わずか二ヶ月前の八月。潮崎は「外務省の文官」と偽って彼と正餐を共にし、その夜に海中から通信所に潜入して最新暗号機を盗み出している。今ここで顔を合わせ、「お前、あの時の……!」と騒がれれば、海軍が演出しているスマートな無血占領に無用の波風が立つ。彼が一人だけ正規の軍装を着ず、木陰に隠れているのには、れっきとした工作員(エージェント)としての理由があった。

 

 銃の安全装置を外す乾いた音すら響かないまま、隊列はヤシの木立を抜け、総督府の石造りの官舎へと到達した。

 上陸部隊の指揮官である山屋他人(やまやたにん)少将が、軍刀の柄に手を添えることもなく、穏やかな足取りで一歩前に進み出た。

 

 「我々は貴国の領土を強奪しに来たわけではありません。この海域の治安を維持するため、一時的な保護と管理を行うために参ったのです」

 

 山屋少将の口から紡がれる、滑らかなオックスフォード英語。副官が丁寧にタイプされた一枚の書類を、円卓の上に滑らせた。

 そこには、『独逸(ドイツ)艦隊が出現する間、一時的に我権内に置く』という一文が躍っていた。

 ドイツ人島司は諦めの息を長く吐き出すと、胸元から万年筆を取り出した。金ペン先が厚手の紙をカリカリと引っ掻く、乾いた摩擦音。テラスの静寂の中に、そのインクの走る音だけが異様に大きく響き渡った。

 サインが書き終えられた瞬間である。官舎の屋上に掲げられていた黒・白・赤のドイツ帝国旗が、シュルルル……とポールから滑り落ちた。代わって、日章旗がスルスルと引き上げられ、赤道の熱風を孕んでバタバタと誇らしげに舞い上がった。

 テラスの柱の陰からその光景を見ていた潮崎は、冷ややかに片方の口角を上げた。

 

(書類一枚の手品か。一時預かりという法的なレトリックで、ロンドンやワシントンの白人どもの猜疑(さいぎ)心をかわすための見事な目くらましだ)

 

 無血開城の「儀式」が終わると、部隊は総督府の周辺の治安維持へと散った。

 官舎の庭先から未舗装の赤土の道にかけて、現地のカナカ族やチャモロ族の島民たちが、身を寄せ合うようにして集まってきていた。

 その群衆の最前列で、裸足のカナカ族の少年が、赤土の上の小石で深く膝を切り、血を流して大声で泣きじゃくっていた。

 純白の軍装を着た海軍軍医が、微笑みながら両手を広げて敵意がないことを示し、少年の目の前にしゃがみ込んだ。軍医はピンセットで脱脂綿を挟み、血の滲む傷口に毒々しい赤黒い液体――ヨードチンキを塗布した。

 

「ギャッ!!」

 

 強烈な殺菌作用がもたらす焼けるような痛みに、少年が悲鳴を上げる。だが軍医は微笑みを崩さず、軍服のポケットから小さなブリキの缶を取り出し、手の上に転がり出たサクマ式ドロップスを、痛みに泣き叫ぶ少年の開いた口の中へポンと放り込んだ。

 コロン、と飴玉が歯に当たる音がした。

 直後、少年の泣き声がピタリと止んだ。痛みに歪んでいた少年の顔から恐怖がスッと抜け落ち、やがて顔中をくしゃくしゃにして、とろけるような笑顔を弾けさせた。

 

 その劇的な変化に、島民たちの目から新たな侵略者への恐怖が消え去っていく。彼らは警戒を解き、やがて一人、また一人と、畏敬の念を込めて深く頭を下げ、赤土の上に平伏していった。

 ヤシの木陰からその光景を見ていた潮崎は、短く息を吐き出した。

 

「……たった数銭の甘味で、手軽に恩を着せるか。相変わらず、薄っぺらなご機嫌取りだ」

 

 ここから四千キロ北の青島の最前線では、暴風雨によって補給線を寸断された陸軍の歩兵たちが、苦肉の策として紙切れ同然の軍票を切り、中国人農民から食糧を徴発しているという。文字通り泥まみれになりながら命を懸けて戦線を維持する彼らの不器用なやり方は、結果として現地民の心に消えない憎悪の種を蒔いている。

 だが、陸軍がそうして泥を被り、「本物の戦争」を引き受けているからこそ、海軍はこうして南の島で、一滴の血も流さずに平和な『お遊戯』ができているのもまた事実なのだ。

 

(……陸軍の不器用な略奪も、海軍の安っぽいアメ玉も、所詮は同じ帝国主義の裏表か)

 

   *

 

 午後。接収手続きをすべて終えた総督府の庭先は、海軍将校たちの和やかな笑い声に包まれていた。

 潮崎は一人、木陰の円卓に広げられた接収資産のリストの写しを見下ろしていた。

 だが、潮崎の目は接収リストの一行、『アンガウル島・グアノ鉱床』にピタリと縫い付けられていた。

 

(……海軍の馬鹿どもは、ただのサンゴ礁とヤシの木の島を手に入れたと無邪気に浮かれている。だが、この島の真の価値はそんなリゾート的なものではない。何万年分もの海鳥の糞の山が、化学処理一つで、敵の肉体を焼き尽くす無尽蔵の焼夷弾に化けるのだ)

 

 上海の地下室で狂気の火薬技師・井川が語っていた錬金術が、潮崎の脳裏をよぎる。

 

(俺たちは一滴の血も流さず、万年筆一本で書類にサインをさせただけで、未来の地球規模の大戦を戦い抜くための『火薬庫』を丸ごとかすめ取ってしまったのだ)

 

 青島の泥沼で血反吐を吐きながら大砲を撃ちまくっている真崎大尉が知ったら、なんと思うだろうか。

 陸軍が泥を啜りながら削り取っているものよりも、海軍がアメ玉と万年筆でかすめ取った鳥の糞の山の方が、はるかに巨大な戦争のエネルギーを秘めているという歴史の皮肉。

 

 一方、接収を終えたドイツ人行政官たちは、ハーグ陸戦条約に基づく捕虜として丁重に扱われることが決まっていた。武装解除こそされたものの、暴力を振るわれるわけでも、辱めを受けるわけでもない。内地の収容所へ送られ、戦争が終わるまで「客人」として過ごすことになる。

 敗者に礼を尽くす。それもまた、帝国が「文明国」であることを世界に示すための、計算された演出だ。

 潮崎は誰にも見えぬ角度で冷酷な微笑を浮かべると、結露したグラスの縁に唇を当て、冷たい白ワインを喉の奥へと流し込んだ。

 

 その時である。

 接収したドイツ総督府の通信室から、受信機が低くかすかに震えた。

 上海経由。差出人、青島・真崎勇気大尉。

 文面はわずか七文字。

 

 『座標、割レタリ。鳩ヲ殺セ』

 

 潮崎は白ワインのグラスを静かに置いた。

 グラスが円卓を打つ音が、南洋の静寂に吸い込まれた。




少しだけ解説を。

山屋他人少将は実在します。「たにん」という名の由来が振るっています。慶応二年生まれの彼、父親は折悪しく四十二歳の厄年。「厄年の子は一度捨て子にして他人に拾ってもらうと丈夫に育つ」という俗信がありましたが、父は「捨てたり拾ったりが面倒なら、最初から『他人』と名付ければよい」と解釈して命名したといわれています(諸説あり)。

その合理主義は本物でした。日本海海戦で秋山真之が用いた「丁字戦法」の原案を発案し、南洋の無血占領を演出した知将です。そして現在の皇后雅子さまの、母方の曾祖父でもあります。

最後までお読みいただきありがとうございます。
※続きは明日19:40に更新予定です。
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