海霧の中の奇兵隊―死んだはずの高杉晋作と、乃木大将が遺した隠し遺書―   作:yoshiume

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第四話 古老の剣

 大正三年(一九一四年)の初夏。

 帝都の中心から少し離れた、相模湾の潮騒(しおさい)を遠くに聞く|大磯の地に、その隠居所は静かに佇んでいた。

 庭先では、塩気を孕んだ風が、手入れの行き届いた黒松の枝を揺らしている。三宅坂の(ほこり)っぽく淀んだ空気や、赤坂の料亭に漂う白粉(おしろい)の匂いとは無縁の、清謐(せいひつ)な空間であった。

 

 縁側に腰を下ろした七十六歳の老人の前に、真崎勇気大尉は風呂敷包みを差し出した。

 帝国陸軍における「火力の祖」――村田経芳(むらたつねよし)男爵は、怪訝そうに受け取り、ゆっくりと風呂敷を解いた。

 次の瞬間、老将の皺深い顔が、まるで少年のように輝いた。

 

「……ほう!」

 

 風呂敷の中には、鈍い黒光りを放つ一挺の拳銃が、丁寧に油紙に包まれて収まっていた。

 ドイツ、モーゼル社製のC96型自動拳銃。木製のショルダーストックを兼ねた専用ホルスターを備えた、当時最先端の軍用拳銃である。全長二百七十ミリ、口径七・六三ミリ。内蔵された十連発マガジンに装填された薬莢が、陽光を受けて静かに光っている。

 

「……横浜の旧居留地で手に入れました。モーゼル社の最新型です」

 

 真崎が言い終わる前に、村田の細い指は、すでに拳銃を手に取っていた。

 老将は老眼鏡を取り出すと、鼻先に引き寄せ、機関部を食い入るように覗き込む。

 

「ボックスマガジン式……いや、これは内蔵式か。送弾機構がまるで違う。官給の三十年式とは設計思想が根本から異なるな」

 

 村田は呟きながら、慣れた手つきで銃のグリップを握り直した。重心を確かめるように、ゆっくりと上下に揺らす。

 

「重心が前寄りだ。バレルが長いからか……だが、この方が連射時のブレが少ない。なるほど」

 

 その後、村田は約十五分間、真崎の存在を完全に忘れた。

 分解、確認、再組み立て。また分解。撃鉄を親指で起こし、セフティの感触を確かめ、照準を庭先の松の幹に合わせ、また下ろす。老いた手が、まるで若返ったかのように、生き生きと動いている。

 真崎は黙って茶を飲みながら、その様子を眺めていた。

 

(この人が、帝国陸軍で最初に近代的な銃を作った人間か)

 

 やがて村田は、再組み立てを終えたC96を膝の上に置き、深く満足げな息をついた。

 

「よくできた銃だ。これを作った男は、本物の職人だな。……真崎よ、いくらした」

「そこは伺わないでください」

 

 村田は破顔した。七十六歳の老将の笑顔は、どこか子供のそれに似ていた。

 

「本日は、閣下にご覧いただきたいものがもう一つあり、参りました」

 

 真崎は懐から、油紙に厳重に包まれた数枚の和紙を取り出し、村田の前に差し出した。

 村田は怪訝な顔でそれを受け取り、紐を解く。

 冒頭の一文に目を落とした瞬間、老将の皺深い顔が微かにこわばり、やがて読み進めるにつれて、その目は驚愕に見開かれた。

 

『――機関銃と大砲の前に、いかなる精神力も無力である。突撃は単なる自殺に等しい』

 

「これは……乃木さんの直筆か」

「はい。陸軍省の地下書庫に、偽装されて隠されておりました」

 

 村田は深く息を吐き出し、和紙を膝の上に置いた。

 青葉を揺らす風の音が、やけに大きく聞こえた。

 

 余談だが、明治という国家は、多分に背伸びをした国家であった。

 建軍間もない帝国陸軍において、薩摩出身の村田経芳が「十三年式村田銃」を開発し、小銃の国産化と規格統一を成し遂げた意義は計り知れない。彼らが初期に目指したものは、欧米列強に倣った「火力への着目」であり、精密な射撃による近代的な戦闘であったはずである。

 しかし、この火力主義は、日本という国家の「貧しさ」という厳烈な現実の前に、あっけなく壁にぶつかることになる。農業主体の貧乏国であった当時の日本には、火力の大量消費を前提とする近代戦を支え切るだけの兵站も工業基盤も存在しなかったのである。この「物質的劣勢」という現実を覆い隠すために、陸軍は次第に「大和魂」という精神力で弾薬や装備の不足を補おうとする奇妙な論理に傾斜していく。

 そして、その精神主義の象徴として祭り上げられ、やがて軍全体の呪縛となったのが、他ならぬ乃木希典という男の抱えた暗い影であった。

 

「……乃木さんは」

 

 村田は、しばらく沈黙した後、和紙から目を離さずに呟いた。

 

「自らの死の直前に、ようやく己が軍に遺してしまった呪いの恐ろしさに気づいたのだろうな」

 

 老将の目が、遠くなった。庭の松ではなく、もっと遠い場所を見ている目であった。

 

「……閣下」

田原坂(たばるざか)だ」

 

 村田は静かに言った。

 

「明治十年。俺が三十八歳の時だ」

 

 真崎は黙って、老将の横顔を見つめた。

 

「政府軍と薩摩軍が、あの丘の斜面で十七日間、毎日正面からぶつかり合った。お互いに退くことができなかった。退けば、死ぬからだ」

 

 村田の指先が、膝の上のC96をゆっくりと撫でた。

 

「一日に、政府軍だけで三十万発の銃弾を撃った。千発の砲弾を撃った。……数字だけ聞いても、わからんだろうな、真崎よ。だが俺は、その弾の一発一発を届けるために、兵站を走り回った。弾薬箱が空になった時の、前線の兵士の顔を覚えている」

 

 真崎は何も言わなかった。

 

「三月の末、政府軍の弾が底をついた夜があった。補給が間に合わなかったんだ。あの夜、前線の将兵は何をしたと思う」

「……刀を、抜いた」

「そうだ」

 

 村田は短く答えた。

 

「明治の軍隊が、幕末の侍と刀で斬り合った。俺たちは、そういう国だった」

 

 しばらく沈黙が続いた。

 

「そして、翌朝だ」

 

 村田の声が、わずかに変わった。

 

「補給が届いた。ガトリング砲を前線に引き出した。薩摩の精鋭が、また丘の斜面を駆け上がってきた」

 

 老将の目が、細くなった。

 

「ズダダダダダダダ……と」

 

 村田は低く、しかし確かにその音を口の中で転がした。

 

「機械が、人間を、草を刈るように薙ぎ倒していく。悲鳴も聞こえんくらいの音だった。倒れ方が、刀で斬られた時と全然違う。まるで糸の切れた人形のように、ただ、崩れ落ちる」

 

 真崎の背筋に、冷たいものが走った。

 

「俺はその光景を見て、銃を作ることを決めた。精神論ではない。物理で戦争を変えると決めた」

 

 村田はC96を持ち上げ、縁側の向こうの庭をゆっくりと見渡した。

 

「だが、この国は俺の銃を使いながら、その意味を理解しなかった。弾薬が足りなければ精神で補えばいい、と本気で思い始めた。乃木さんの死がそれに拍車をかけた」

 

 老将は静かにC96を膝に戻した。

 

「……遅すぎた。今の陸軍中枢は、この遺書を受け入れる器量など持ち合わせていない」

「私は、決して諦めるつもりはありません」

 

 真崎が口を開いた。

 

「この遺書と、欧州の現実を突きつければ、必ず軍を根底から――」

「真崎よ」

 

 村田は静かに遮り、C96をそっと真崎の膝の上に置いた。

 

「この拳銃は、大和魂では動かん。火薬と、機械油と、正確な設計があって初めて動く。それが戦争の真理だ」

 

 村田は真崎の目を真っ直ぐに見据えた。

 

「精神論には精神論で立ち向かうのではなく、冷酷なまでに物理的な『論理』と『実績』が必要だ。よく覚えておけ。大和魂は、大砲の響き一つで消し飛ぶ。だが、計算された弾道は決して裏切らない。そして、その弾道を支えるのは、弾薬を絶え間なく前線へ送り届ける兵站の力だ」

 

 その言葉と沈黙の重さは、真崎の胸の奥底に重く、確かな熱を持って響いた。

 

(大和魂は大砲の響き一つで消し飛ぶが、計算された弾道は裏切らない――)

 

「村田閣下。必ずや、そのお言葉を証明してみせます。近く、帝国陸軍を根本から作り替える『事実』を持ち帰ることをお約束します」

 

 真崎は深く頭を下げた。

 

「持っていけ」

 

 村田は顎でC96を示した。

 

「そのモーゼルを。三宅坂にいようと、どこにいようと、持っていけ。銃は理屈より正直だ。お前が迷った時に、あの送弾機構の精巧さを思い出せ。誰かが計算を尽くして作ったものは、裏切らん」

 

 真崎は両手でC96を受け取り、深く一礼した。

 

 初夏の風が通り抜ける縁側で、古い時代を駆け抜けた火力の祖から、新たな時代を拓く若き将校へと、冷徹なる近代戦の真理が受け継がれた。

 静かな闘志を燃やし、隠居所を後にする真崎の背中を、村田は縁側から長く見送った。

 




◆あとがき◆
少しだけ種明かしを。

村田経芳は実在の人物です。薩摩出身の陸軍軍人で、明治13年(1880年)に日本初の国産制式小銃「十三年式村田銃」を完成させた、帝国陸軍における「火力の祖」です。

田原坂の「一日三十万発の銃弾、千発の砲弾」も史実の数字です。明治10年(1877年)の西南戦争で、政府軍と西郷隆盛率いる薩摩軍がわずか数百メートルの丘を巡って17日間撃ち合い続けました。

その現場にいた村田が、物理と弾道で戦争を変えようとした。しかし彼が作った銃を手にした陸軍は、その意味を理解しなかった。

真崎が継ごうとしているのは、その「未完の志」です。

次話もお付き合いください。

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