海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
三宅坂、陸軍省軍務局。
午後の執務室には、ペンの音とタイプライターの音だけが規則正しく響いていた。
真崎勇気は、書き上げたばかりの書類を手に、
「郷田中佐、歩兵第一連隊の修正予算、起案しておきました」
郷田は、外套に袖を通しながら振り返った。
「おお、真崎か。悪いな、今日はこれから赤坂で会食なんだ。明日見ておく」
「はっ。ごゆっくりで大丈夫です」
郷田の後ろから、
真崎は敬礼したまま、その背中を見送った。
軍務局長と局付中佐が、連れ立って赤坂へ向かう。珍しいことではない。
だが、書類を持つ手の中で、その光景がいつもより長く目に焼き付いた。
窓の外で、自動車のエンジン音が遠ざかっていく。
*
「――それで、郷田。お前の局で、最近少しうるさいハエが飛んでいるようだな」
大正三年(一九一四年)春。赤坂の料亭『山月』の奥座敷。
軍務局長・神林毅一郎少将が、芸妓たちを人払いで廊下へ下がらせた後、ぽつりとこぼした。
国家の軍略と一人の若手将校の運命が、まるで日常の雑事のように冷酷に決定されていく。
昼の三宅坂で「大和魂」を声高に叫ぶ精神論者たちが、夜の赤坂では派閥の打算と予算のぶんどり合いに明け暮れる。それが帝国陸軍を深く蝕んでいた、もう一つの不治の病であった。
神林の向かいでおちょこを傾けていた郷田龍一郎中佐は、居住まいを正した。
陸軍大学校を優秀な成績で卒業した者の証である卒業
「はっ。真崎勇気大尉のことかと存じます。近く開かれる『次期国防方針』の会議の場で、現行の歩兵操典を根本から否定し、火力戦への転換を訴える大がかりな上申を企てているようです」
郷田は憂慮の表情を浮かべた。
「真崎の調査能力と欧州の分析は、確かに優秀です。しかし、今の血の気の多い局内で『白兵主義の否定』を公言すれば、過激な精神論者たちが黙っておりません。軍務局内の統制と秩序が、根底から崩壊しかねません。会議の前に、私が何らかの理由をつけて潰すべきかと」
言い終えて、郷田はわずかに目を伏せた。
この提案には、もう一つの計算が隠れている。真崎を潰せば、軍務局内の「秩序を守った男」として郷田自身の覚えが上がる。逆に真崎を生かして上申が暴走すれば、それを見抜けなかった郷田の評価に傷がつく。
郷田にとって、これは忠言であると同時に、自分の身を守るための先手であった。
白兵主義は、単なる無知の産物ではなかった。日露の成功体験にすがる消去法の結論が、乃木の神格化によって、もはや誰も動かせない呪縛に変わっていた。
「……いや、構わん。発言はさせてやれ」
神林は杯を置き、低く唸るように言った。
郷田の喉が、微かに動いた。
拒まれた。それも、即座に。
「奴の言う『火力の現実』は、理にかなっている。だが郷田、軍という巨大な組織は、正しい理屈だけでは動かせんのだ。二十万の将兵が血を流した日露の成功体験と、それにすがる者たちのメンツを無理に剥ぎ取れば、組織は必ず内側から割れる」
「真崎の青臭い正義は、今の帝国陸軍には劇薬すぎる。会議の場では存分に吠えさせ、ガスを抜かせてやれ。だが……その後は、軍の秩序を乱したという事実を理由に、彼には少し、三宅坂から離れて『頭を冷やしてもらう』必要があるかもしれん」
「……左遷、でありますか」
郷田はわずかに目を瞬かせた。
「それは、あれの吠え方を見てから決める」
神林はそれ以上答えず、ただ杯を干した。優秀すぎる部下をどう使うか――その勘定が、老練な横顔の奥で静かに回っているようだった。
その時、廊下の障子の外で、微かな衣擦れの音がした。
郷田が反射的に振り返り、障子を勢いよく引いた。廊下には、誰もいなかった。ただ、手すりの上に、火のついていない煙草が一本、転がっているだけだった。
「……女中の忘れ物でしょう」
郷田はそう言って障子を閉めたが、神林は何も答えなかった。杯の中の酒が、わずかに揺れていた。
*
座敷の空気がふっと弛緩した。
弛緩した空気の中で、郷田は手酌で杯を満たしながら、何気なく話を向けた。
「そういえば閣下、令嬢のご縁談は、その後いかがでございますか。先日、参謀本部の桐島大佐からも、ぜひにというお話があったと伺いましたが」
神林は、それまでの冷徹な少将の顔を脱ぎ捨て、深い溜息をついた。
「……桐島の話は、立ち消えになった」
「はあ。それはまた、なぜ」
「見合いの席に、あれが何を着てきたと思う」
郷田は首を傾げた。
「パリの婦人雑誌で見たとかいう、膝が見えるほど丈の短いワンピースとやらだ。つばの広い帽子まで被って。桐島は開口一番、『令嬢は……洋行のご経験が?』と聞いてきた。そのまま話は終わった」
郷田は咳払いで笑いを押し殺した。
「家に戻れば戻ったで、外国の婦人雑誌だの、百貨店の洋装カタログだのを山と積み上げて、一日中それを眺めている。縁談に全く興味がない。先週は銀座の洋品店から、帽子だけで三点も届いた。陸軍少将の娘が何をしているのか」
「は、はあ……」
「困ったものだ」と神林は言ったが、その声にはどこか諦念の中に、父親特有の甘さが混じっていた。
「まあ、頭だけは切れる。切れすぎて、周りが見えておらんのかもしれんが」
郷田は神妙な顔で頷きながら、内心では(そのお嬢さんを嫁にもらいたい若手将校など、この帝国には一人もおるまい)と思っていた。
だが、その内心の油断こそが、郷田の今夜最大の誤算であった。神林家の令嬢が、目の前の上司が思うような「周りの見えない娘」では到底ないということを、郷田はまだ知らない。
*
翌朝、三宅坂の陸軍省の廊下。
真崎は、書き上げた上申書を小脇に抱え、軍務局の窓口へ向かっていた。
正面から、郷田龍一郎中佐が歩いてくる。すれ違う瞬間、真崎は敬礼した。
「おはようございます」
郷田は軽く頷き、足を止めずに通り過ぎようとした。だが、二歩ほど行ったところで、ふと振り返った。
「真崎」
真崎は足を止めた。
「……いや。何でもない」
郷田はそれだけ言って、今度こそ歩き去った。
真崎は、その背中をしばらく見送った。
郷田中佐がこちらを振り返るのは、珍しいことではない。だが、いつもの値踏みするような視線とは、何かが違っていた。咎めるでもなく、嘲るでもない。あれは――
(憐れみ、だったか)
考えても答えは出ない。真崎は上申書を抱え直し、窓口への歩を進めた。
懐の奥で、乃木の遺書の和紙が、今日もまだ、熱を持っていた。
◆あとがき◆
少しだけ舞台裏の話を。
当時の帝国陸軍は「軍政」と「軍令」という二つの巨大な車輪で動いていました。兵員の徴募、兵器の調達、予算獲得、議会との政治折衝を担うのが陸軍省。作戦立案や部隊運用を担うのが、天皇直隷の参謀本部です。
参謀本部がいかに壮大な作戦を立案しようとも、陸軍省が予算をぶんどり、大砲と食料を調達しなければ、兵は一歩も動けない。
神林少将たちが料亭で密談する「軍務局」とは、その陸軍省の中枢——編制、動員、予算の実務を牛耳る最大の権力機関です。純粋な戦術家ではなく、国家予算と軍政策を左右する「制服を着た官僚」たちの巣窟でした。
真崎が対峙しているのは、敵国ではなく、この巨大な官僚機構です。
次話もお付き合いください。
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