海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:yoshiume

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第三十九話 魔都からの座標

 ガチャ、ガチャ、チーン。ガチャ、ガチャ、チーン――。

 

 南洋の青空の下で帝国海軍が優雅な「万年筆の侵略」を完了させていた裏で、北の青島では依然として、大日本帝国陸軍が空飛ぶ「見えない観測者」に無残に蹂躙(じゅうりん)され続けていた。

 その絶望的な状況から発せられた真崎のSOSを受信し、青島の砲煙から遥か南に離れた魔都・上海のフランス租界。分厚いレンガの壁に囲まれた地下室では、この日も奇妙な金属音が延々と響き続けていた。

 

 スウェーデン製の真鍮の歯車が噛み合う、手回し計算機の駆動音である。

 薄暗いランプの灯りの下、ヨレヨレのシャツを着込み、目の下に深い隈を作った青年が、血走った目で暗号電文の紙束と格闘していた。

 男の名は黒石。死んだはずの幕末の英傑・高杉晋作が束ねる影の奇兵隊において、暗号解読と情報分析の全権を握る偏執狂的(パラノイアック)な天才であった。

 彼の周りには、青島のドイツ軍から傍受した無数の電報の写しが、まるで狂人の呪いのように壁一面に貼り出されている。

 

 「……見つけましたよ、高杉の旦那」

 

 黒石は、黒ずんだ指先で計算機のレバーを弾きながら、背後の長椅子に寝そべって三味線を爪弾く老人に薄笑いを向けた。

 

 「青島の空を飛ぶあの鳩。空の怪鳥を叩き落とすための『メス』が、この数字の羅列の中にありました」

 

 タウベが青島上空から持ち帰る極めて精緻な観測データは、日本軍にとって致命的な脅威であった。

 しかし、機体を極限まで軽くするため、タウベ自体には無線機は搭載されていない。通信を発しない怪鳥を、いかにして上海から捕捉するのか。

 黒石が目をつけたのは、空からの通信ではなく、タウベを迎え入れる地上の「青島要塞」が発する暗号通信であった。

 

 「青島要塞の司令部から、各砲台へ向けた定時連絡。その暗号の規則性に、ひとつの『クリブ』を発見しました。……毎日、タウベが青島を飛び立ってから、きっちり一時間四十分後に、必ず同じ文字列の暗号が各砲台へ打電されている」

 「一時間四十分?」

 

 高杉が、三味線の手を止めて片目を開けた。

 

 「ええ。タウベの燃料切れ、すなわち『限界滞空時間』です」

 

 黒石の瞳の奥で、理性の炎が怪しく揺らいだ。

 

 「その暗号の正体は、『味方機が帰投するため、上空への発砲(誤射)を一時停止せよ』という砲兵への指示通信に他なりません。つまり、我々は奴らが何時何分に空から降りてくるかを、完全に把握できる」

 「なるほど、時間は読めた。だが、場所はどうだ? 空は広いぜ」

 

 化学屋の井川が冷静に聞いた。

 

 「それも、航空機の脆弱さが教えてくれます」

 

 黒石は壁に貼られた山東半島の気象データ地図を指差した。

 

 「飛行機というものは、風に逆らう『向かい風』で滑走路に進入しなければ、横風に煽られて墜落してしまいます。……明日の青島の風向きは、北西の微風。ならば、タウベが安全に着陸できる進入経路は、モルトケ山の北側ルートしかありえません」

 

 黒石は、机の上の青島周辺地図の、ある一点に赤いインクのペンを力強く突き立てた。

 

 「論理で空は落とせます。時間はちょうど正午。座標はモルトケ山北側、高度八百。……あとは、大尉殿に伝えて、その座標の『上方』で網を張って待ち伏せさせるだけです」

 

 暗号解読という純粋な知略が、空を支配するドイツの怪鳥の喉元に、冷たい刃を突きつけた瞬間であった。

 

  *

 

 翌日。

 青島上空の空は、厚い雲に覆われていたが、雨は奇跡的に上がっていた。

 特命観戦武官・真崎勇気大尉は、黄土にまみれた最前線の陣地から、双眼鏡で上空を睨みつけていた。

 彼の視線の先、高度千メートル付近を、純白のカンバス地を張ったドイツ軍の偵察機『ルンプラー・タウベ』が、悠然と旋回している。

 操縦席のプリュショー中尉は、眼下の日本軍陣地をスケッチし終えたのだろう。滞空時間が一時間四十分に達しようとする頃、タウベはふいと機首を返し、青島要塞の方向――モルトケ山の北側ルートへと、滑るように高度を下げ始めた。

 

 (……来た。黒石の予測通りだ)

 

 真崎は、泥にまみれた手で双眼鏡を握り直した。

 タウベがモルトケ山の北側、高度八百メートルに差し掛かったその時である。

 

 タウベの遥か上空、重く垂れ込めた雲の影から、一機の航空機が鷹のように急降下してきた。

 帝国陸軍の『モーリス・ファルマン機(モ式)』である。

 タウベの最高時速が約百二十キロであるのに対し、日本軍のモ式は時速約九十五キロという絶望的な機動力の差があった。

 まともに追いかければ、絶対に追いつけない。だからこそ、モ式は黒石の解読した座標の「遥か上空」で息を潜めて待ち伏せし、重力による「位置エネルギー」を利用して一気に距離を詰めるという戦術に出たのである。

 

 タウベの操縦席にいるプリュショー中尉が、上空からの急襲に気づいて振り返った時には、すでにモ式はタウベの斜め後方、わずか数十メートルの距離にまで迫っていた。

 

 「やれッ……! 空の目を潰せ!」

 

 地上から見上げる真崎の口から、祈りのような声が漏れる。

 しかし、そこで繰り広げられたのは、後世の航空戦記で語られるような機関銃が火を噴く「美しいドッグファイト」などでは断じてなかった。

 

 当時の航空機には、プロペラ越しに射撃するための同調装置はおろか、固定機関銃すら存在しない。

 空の戦いは、極めて泥臭く、そして野蛮な肉弾戦であった。

 

 モ式の操縦席で、日本の搭乗員が両脚で操縦桿を挟み込み、猛烈な風圧に顔を歪めながら身を乗り出した。その手には、地上から持ち込んだ「三八式騎兵銃」が握り締められている。

 タウベのプリュショー中尉もまた、大型のモーゼル拳銃を引き抜き、後方のモ式へ向けてバンバンと乱射して応戦する。

 

 ――パン! パパン!

 

 乾いた破裂音が上空からかすかに響くが、風圧と凄まじいエンジンの振動で、狙いなど定まるはずもない。弾丸は虚しく空を切り、互いの布張りの主翼に小さな穴をいくつか開けるのが関の山であった。

 やがて、モ式の搭乗員は騎兵銃の弾薬を撃ち尽くした。

 

 だが、彼は決して諦めなかった。騎兵銃を座席に放り投げると、足元に置いてあった麻袋の中から「ある物」を取り出し、タウベの真上を取るべく機体を急降下させた。

 

 真崎は、双眼鏡越しにその光景を見て、一瞬己の目を疑った。

 モ式の搭乗員が振りかざしていたのは、爆弾などではない。

 どこにでもある赤茶けた「レンガ」、そして「重い鉄のスパナ」であったのだ。

 

 ――叩き割れ!!

 

 声なき絶叫とともに、モ式の搭乗員は、眼下を飛ぶタウベの木枠と布の主翼へ向けて、その重い質量兵器を力任せに投げ落とした。

 

 バリィッ!

 

 という不吉な破砕音が、はっきりと響いた。

 降り注ぐレンガの雨と重い鉄のスパナが、タウベの右主翼のカンバス地を見事に突き破り、内部の木製フレームを物理的に粉砕したのである。

 

 「最新鋭の航空機同士の戦いのはずが、やっていることは中世の投石と変わらんではないか……」

 

 真崎は、呆れたような独白を漏らしながらも、近代兵器の黎明期ならではの泥臭い決着に、深い戦慄を覚えていた。

 主翼の骨組みをへし折られたタウベは、もはや優雅な怪鳥の姿を保つことはできなかった。

 機体は大きくバランスを崩し、エンジンから不気味な黒煙を噴き上げながら、ほうほうの態で青島要塞の奥深くへと逃げ帰っていく。

 撃墜にこそ至らなかったものの、機体を深刻に損傷したタウベは、これ以降、安易に日本軍の陣地上空へ飛来することはできなくなったのである。

 

 「これで、神の目は完全に潰れた。上等だ」

 

 真崎は泥だらけの唇に獰猛な笑みを浮かべ、要塞の奥へと消えていくタウベの黒煙を見送った。

 空の観測者を失ったドイツ軍の要塞砲は、完全に沈黙した。

 それまで日本軍の陣地を正確に抉り出していた死の雨が止み、最前線の塹壕には、痛いほどの静寂が戻っていた。

 

 「……真崎大尉。タウベが引っ込んだぞ」

 

 歩兵の突撃を主張していた幕僚たちが、空の脅威が去ったことに安堵の息を漏らす。

 

 「ええ。盤上の視界は、再び我々だけのものになりました」

 

 真崎は、野帳に書き込んだ弾道計算の数式を最終確認し、重々しい足取りで『四五式二十四(センチ)榴弾砲』の陣地へと歩み寄った。

 魔都・上海から届けられた「論理のメス」が空を切り裂き、ようやく地上における「物理の時間」が再開されたのだ。

 あとは、この重さ二百キロの榴弾を、要塞のコンクリートの天蓋へと叩き込むだけである。

 

 「装填急げ! 閣下より、第一射の許可は下りている!」

 

 真崎の号令を受け、泥にまみれた工兵たちが、巨大なクレーンで砲弾を吊り上げ、砲尾へと押し込もうとする。

 しかし。

 その神聖なる物理の儀式の最中、信管を検分していた熟練の工兵が、幽霊でも見たかのような青ざめた顔で振り返った。

 

 「た、大尉殿……! 信管に異状あり! 雷管が作動しません! ネジ山が死んでいる……いや、噛み合わせが狂っています!」

 「なんだと?」

 

 真崎が足元のぬかるみを蹴って駆け寄る。

 それは、井川が開発し、高杉が日本の武器商人ルートから陸軍へ流した切り札。コンクリートの天蓋を貫通してから内部で爆発するように特別に調整された「遅延信管」であった。

 

 先ほどまで精密な真鍮の輝きを放っていたはずの機構が、いま、不気味に沈黙していた。点火針を抑える「抑えバネ」が、本来ありえない角度で固着し、不動のものとなっている。表面には無数の水滴がびっしりと付着し、内部の機構が奇妙なきしみ音を立てていた。

 

 連日の異常な豪雨と、底なしのぬかるみ。山東半島特有の「重い湿気」が、精密な近代兵器の隙間に忍び込み、その機能に致命的な狂いを生じさせようとしていたのである。

 

 「……馬鹿な。湿気で雷管が……?」

 

 真崎の背筋を、タウベとはまた別の、自然の脅威という名の冷たい汗が伝い落ちた。

 泥と湿気という前近代の怪物が、物理の論理に対して、再びその牙を剥こうとしていた。

 ふと、真崎の脳裏に、つい先刻、自らの双眼鏡越しに目撃した光景が蘇った。




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