海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
ガチャ、ガチャ、チーン。ガチャ、ガチャ、チーン――。
その頃、青島の空では、まだタウベが飛んでいた。
真崎のSOSを受けた魔都・上海のフランス租界では、分厚いレンガの壁に囲まれた地下室で、この日も奇妙な金属音が延々と響き続けていた。
スウェーデン製の真鍮の歯車が噛み合う、手回し計算機の駆動音である。
薄暗いランプの灯りの下、ヨレヨレのシャツを着込み、目の下に深い隈を作った黒石透が、血走った目で暗号電文の紙束と格闘していた。
彼の周りには、青島のドイツ軍から傍受した無数の電報の写しが、壁一面に貼り出されている。
「高杉先生。見つけました」
黒石は、黒ずんだ指先で計算機のレバーを弾きながら、顔も上げずに言った。背後の長椅子では、老人が寝そべって三味線を爪弾いている。
「青島の鳩。落とす手がかりが、この数字の中にありました。以上です」
タウベが青島上空から持ち帰る極めて精緻な観測データは、日本軍にとって致命的な脅威であった。
しかし、機体を極限まで軽くするため、タウベ自体には無線機は搭載されていない。通信を発しない怪鳥を、いかにして上海から捕捉するのか。
黒石が目をつけたのは、空からの通信ではなく、タウベを迎え入れる地上の「青島要塞」が発する暗号通信であった。
「要塞司令部から各砲台へ、定時の暗号電が出ています。毎日、同じ文字列。タウベが飛び立って、一時間四十分後。一分も、ずれません」
「一時間四十分?」
高杉が、三味線の手を止めて片目を開けた。
「燃料の限界です。降りてくる」
「……なるほど。先生、つまりこういうことですな」
口を挟んだのは、化学屋の井川だった。丸眼鏡を押し上げ、黒石の単語を一つずつ拾って並べていく。
「一時間四十分というのは、あの鳩が燃料を使い切るまでの時間。そこで要塞は砲台へ、『味方機が帰ってくるから、空へは撃つな』と打電する。その合図が、毎日同じ文字列で出ている。――つまり、あちらが何時何分に降りてくるか、こちらには筒抜けというわけです」
「訂正、なし。以上です」
「おや、光栄です。……ですが黒石さん、時間は読めても、場所がいけません。空というのは、いやはや、広うございますよ」
黒石は、壁に貼られた山東半島の気象図を指差した。
「飛行機は、向かい風で降ります。横風だと落ちる。明日の青島は、北西の微風。降りる道は、モルトケ山の北。一本だけです」
黒石は、机の上の青島周辺地図の一点に、赤いインクのペンを突き立てた。
「正午。モルトケ山北側、高度八百。真崎さんに、その座標の上で待つように、と。以上です」
*
翌日。
青島上空の空は、厚い雲に覆われていたが、雨は奇跡的に上がっていた。
特命観戦武官・真崎勇気大尉は、黄土にまみれた最前線の陣地から、双眼鏡で上空を睨みつけていた。
彼の視線の先、高度千メートル付近を、純白のカンバス地を張ったドイツ軍の偵察機『ルンプラー・タウベ』が、悠然と旋回している。
操縦席のプリュショウ中尉は、眼下の日本軍陣地をスケッチし終えたのだろう。滞空時間が一時間四十分に達しようとする頃、タウベはふいと機首を返し、青島要塞の方向――モルトケ山の北側ルートへと、滑るように高度を下げ始めた。
(……来た。黒石の予測通りだ)
真崎は、泥にまみれた手で双眼鏡を握り直した。
タウベがモルトケ山の北側、高度八百メートルに差し掛かったその時である。
タウベの遥か上空、重く垂れ込めた雲の影から、一機の航空機が鷹のように急降下してきた。
帝国陸軍の『モーリス・ファルマン機(モ式)』である。
タウベの最高時速が約百二十キロであるのに対し、日本軍のモ式は時速約九十五キロという絶望的な機動力の差があった。
まともに追いかければ、絶対に追いつけない。だからこそ、モ式は黒石の解読した座標の「遥か上空」で息を潜めて待ち伏せし、重力による「位置エネルギー」を利用して一気に距離を詰めるという戦術に出たのである。
タウベの操縦席にいるプリュショウ中尉が、上空からの急襲に気づいて振り返った時には、すでにモ式はタウベの斜め後方、わずか数十メートルの距離にまで迫っていた。
「やれッ……! 空の目を潰せ!」
地上から見上げる真崎の口から、祈りのような声が漏れる。
しかし、そこで繰り広げられたのは、機関銃で撃ち合うような空戦ではなかった。
当時の航空機には、プロペラ越しに射撃するための同調装置はおろか、固定機関銃すら存在しない。
空の戦いは、極めて泥臭く、そして野蛮な肉弾戦であった。
モ式の操縦席で、日本の搭乗員が両脚で操縦桿を挟み込み、猛烈な風圧に顔を歪めながら身を乗り出した。その手には、地上から持ち込んだ「三八式騎兵銃」が握り締められている。
タウベのプリュショウ中尉もまた、大型のモーゼル拳銃を引き抜き、後方のモ式へ向けてバンバンと乱射して応戦する。
――パン! パパン!
乾いた破裂音が上空からかすかに響くが、風圧と凄まじいエンジンの振動で、狙いなど定まるはずもない。弾丸は虚しく空を切り、互いの布張りの主翼に小さな穴をいくつか開けるのが関の山であった。
やがて、モ式の搭乗員は騎兵銃の弾薬を撃ち尽くした。
だが、彼は諦めない。騎兵銃を座席に放り投げると、足元に置いてあった麻袋の中から「ある物」を取り出し、タウベの真上を取るべく機体を急降下させる。
真崎は、双眼鏡越しにその光景を見て、一瞬己の目を疑った。
モ式の搭乗員が振りかざしていたのは、爆弾などではない。
どこにでもある赤茶けた「レンガ」、そして「重い鉄のスパナ」であったのだ。
――叩き割れ!!
声なき絶叫とともに、モ式の搭乗員は、眼下を飛ぶタウベの木枠と布の主翼へ向けて、その重い質量兵器を力任せに投げ落とした。
バリィッ!
という不吉な破砕音が、はっきりと響いた。
降り注ぐレンガの雨と重い鉄のスパナが、タウベの右主翼のカンバス地を見事に突き破り、中の木の骨組みを叩き折る。
「最新鋭の航空機同士の戦いのはずが、やっていることは中世の投石と変わらんではないか……」
真崎は、呆れたような独白を漏らしながらも、近代兵器の黎明期ならではの泥臭い決着に、深い戦慄を覚えていた。
主翼の骨組みをへし折られたタウベは、もはや優雅な怪鳥の姿を保つことはできなかった。
機体は大きくバランスを崩し、エンジンから不気味な黒煙を噴き上げながら、ほうほうの態で青島要塞の奥深くへと逃げ帰っていく。
撃墜にこそ至らなかったものの、機体を深刻に損傷したタウベは、これ以降、安易に日本軍の陣地上空へ飛来することはできなくなったのである。
「これで、神の目は潰れた。上等だ」
真崎は泥だらけの唇に獰猛な笑みを浮かべ、要塞の奥へと消えていくタウベの黒煙を見送った。
空の観測者を失って、ドイツ軍の要塞砲の狙いは目に見えて甘くなった。
それまで日本軍の陣地を正確に抉り出していた死の雨が、陣地の手前や奥へ散り始め、最前線の塹壕に、ようやく息をつく間が戻ってくる。
「……真崎大尉。タウベが引っ込んだぞ」
歩兵の突撃を主張していた幕僚たちが、空の脅威が去ったことに安堵の息を漏らす。
「ええ。盤上の視界は、再び我々だけのものになりました」
真崎は、野帳に書き込んだ弾道計算の数式を最終確認し、重々しい足取りで『四五式二十四
あとは、この重さ二百キロの榴弾を、要塞のコンクリートの天蓋へと叩き込むだけである。
「装填急げ! 閣下より、第一射の許可は下りている!」
真崎の号令を受け、泥にまみれた工兵たちが、巨大なクレーンで砲弾を吊り上げ、砲尾へと押し込もうとする。
しかし。
装填の最中、信管を検分していた熟練の工兵が、幽霊でも見たかのような青ざめた顔で振り返った。
「た、大尉殿……! 信管に異状あり! 雷管が作動しません! ネジ山が死んでいる……いや、噛み合わせが狂っています!」
「なんだと?」
真崎が足元のぬかるみを蹴って駆け寄る。
それは、井川が開発し、権藤大佐が『新兵器効力検定』の名目で陸軍にねじ込んだ切り札。コンクリートの天蓋を貫通してから内部で爆発するように特別に調整された「遅延信管」であった。
先ほどまで精密な真鍮の輝きを放っていたはずの機構が、いま、不気味に沈黙していた。点火針を抑える「抑えばね」が、本来ありえない角度で固着し、不動のものとなっている。表面には無数の水滴がびっしりと付着し、内部の機構が奇妙なきしみ音を立てていた。
連日の異常な豪雨と、底なしのぬかるみ。山東半島特有の「重い湿気」が、精密な近代兵器の隙間に忍び込み、その機能に致命的な狂いを生じさせた――誰の目にも、そう見えた。
「……湿気、だと?」
真崎の背筋を、タウベのときとはまた別の、冷たい汗が伝い落ちた。
竜口へ向かう船の船倉で、真崎は百九十二頁の説明書を一枚に書き直し、一等卒の古賀に声に出して読ませている。古賀がつかえながら読み上げた、四つ目の手順。
――し、ぬれたら、つかうな。
濡らすなと、書いたはずだ。
最後までお読みいただきありがとうございます。
※続きは明日19:40に更新予定です。
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