海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:吉田梅之助

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第四十話 工作員の残り香

 赤い霧だった。

 

 着弾の瞬間、大地が捲れ上がり、そこにいた全員が消えた。あとには、土と、焦げた何かの臭いが漂っている。

 

 ビスマルク山砲台。ドイツ・クルップ社製「二十八センチ榴弾砲」。一発三百キログラムを超える鋼鉄の塊が、タウベが最後に持ち帰った座標をもとに、目に見えない山の裏側から正確に降ってきたのだ。

 

 周囲の幕僚たちは、この世の終わりを目の当たりにしたかのように塹壕の底に這いつくばり、あるいは意味もなく叫び声を上げていた。

 

 このビスマルク山砲台を倒すための、日本軍に残された唯一の牙が、いま目の前で沈黙している『四五式二十四糎(センチ)榴弾砲』だった。その二十四糎砲を生かす遅延信管が、湿気で止まったように見える。

 

「それ見たことか! 検定品だか何だか知らんが、出どころの怪しい品など使うからだ!」

 

 後方の塹壕で震えていた幕僚の一人が、ここぞとばかりに這い出してきて怒鳴り散らした。

 

「大砲が役に立たぬなら、もはや突撃しかない! 貴様のような理屈屋が兵を惑わすから、軍神の加護が失われるのだ! 着剣しろ、全軍突撃だ!」

 

 二十八センチ砲が正確に座標を刻んでいる中での突撃は、兵士たちを「赤い霧」の材料として差し出すのと同義である。

 

 真崎は幕僚の罵声を背中で受け流し、砲架の陰に膝をついて信管を分解し始めた。

 雨上がりの重く湿った空気が、硝煙の刺激臭を運び込んでくる。だが、精密なピンセットで「抑えばね」の隙間を探っていた真崎の鼻腔を、あまりにも場違いな、そして鮮烈な「異物」がかすめた。

 

 (……これは……?)

 

 血と硝煙が支配するこの凄惨な戦場に、一筋。

 

 ジャスミンとバラ、その奥にナツメグの甘い粉っぽさが漂ったのである。

 一九〇五年にフランソワ・コティが世に問うた名香、『ロリガン』であった。

 

 真崎の肌が、一気に粟立った。

 

 上海の埠頭で嗅いだ、あの半分の濃さの甘さが、いま、この泥だらけの信管の奥底から立ち昇っている。

 

 ピンセットが、分解された信管の奥から極小の「硬い金属片」を引き抜く。

 それは、着弾の衝撃を受けてもばねが縮まず、針が雷管を叩けないように、精密な計算に基づいて噛まされた「楔(くさび)」であった。

 さらに、雷管の周囲には、ごく微量の特殊なアルカリ液が注入された痕跡があった。井川が調合した特製の起爆薬を中和し、物理的にも化学的にも起爆を不可能にする。湿気の故障に見せかけた細工だった。

 

 真崎は、楔を指先で転がしながら、脳裏で二つの情報を照合する。

 

 上海での壮行の宴で、愛玲が円卓に滑らせた折り畳みの紙。そこには几帳面な字で、人名と接触ルートが記されていた。「上海の青幇(チンパン)の一派が、ドイツ側の特務工作員として青島に入っている」という、租界の顔役から直接得た確度の高い情報だった。

 

 あの紙の中身が、いま目の前で形になっている。

 精密な金属細工による機械的な妨害と、特殊なアルカリ液による化学的な中和。この二重工作は、ドイツの精密工学と、中国大陸の地下組織が代々培ってきた毒の知識が、一人の人間の中で融合していなければ成立しない。

 

 (……そういうことか。奴は、青幇とドイツを繋ぐ接点そのものだ)

「奴だ……」

 

 真崎の脳裏に、上海の埠頭で向き合った、鼈甲(べっこう)縁の眼鏡の男――ロリガンの男の姿が鮮烈に蘇った。

 奴は、日本軍の厳重な警戒網を影のようにすり抜け、この死臭に満ちた最前線の陣地にまで潜入していたのだ。

 

「大尉殿、これを見てください……」

 

 工兵が指差した先、ドロドロになった土の上に、軍靴の足跡がたった一つだけ残されていた。兵士の不格好な編上靴とは、明らかに異なる。細身で、土踏まずのラインが完璧な形状を保っている。

 

 周囲では、いまだに幕僚たちが「大和魂」と「突撃」を連呼し、兵士たちの命を無駄に放り出そうと狂騒を続けていた。その狂気じみた精神論の合唱が、着弾の衝撃よりも真崎の神経を苛立たせた。

 そこへ、ぬっと一人の巨大な影が現れる。

 上質なツイードのスーツを汚すこともなく纏い、銀のステッキを携えたその男は、騒ぎ立てる幕僚たちを一瞥しただけで沈黙させた。

 

「――大英帝国海軍省特別顧問、ヴァンス男爵だ。日本陸軍の優秀な重砲運用を視察に来たが……随分とにぎやかな『神学論争』が行われているようだな」

 

 日英同盟の相手国の高官、それも名門貴族という圧倒的な権威の前に、幕僚たちは直立不動で口を閉ざすしかなかった。

 ヴァンスは幕僚たちを一撫でして黙らせると、泥の中に膝をつく真崎を見下ろし、わずかに片眉を上げた。

 

「真崎大尉。君の誇る『物理学』が、香水一つで沈黙したままでいいのかね?」

 

 真崎は顔を上げ、ヴァンスの瞳の奥に潜む「試練」の光を読み取った。

 男爵は、このサボタージュの犯人を知っている。あるいは、その犯行が行われる様を、まるで劇場の特等席で観るかのように「見物」していたのかもしれない。

 

「……いいえ」

 

 真崎は立ち上がり、分解した信管の部品を握りしめた。

 ロリガンの甘い香りは、いまだ湿った空気の中に漂い続け、真崎の鼻腔を執拗に刺激する。

 

「奴が直接現れるまでに、この牙をさらに鋭く、精密に研ぎ澄ませておくだけです」

 

 真崎は震える指先を制し、ピンセットを握り直した。

 その背後で、時を刻むように、ビスマルク砲台の二十八センチ砲が、ふたたび遠くで咆哮を上げた。




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