海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:yoshiume

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第四十一話 死線の兵站

「――後方の軽便鉄道が爆破されました! トロッコが脱線、予備の信管と弾薬輸送が完全にストップです!」

 

 土に塗れ、疲労と絶望で土気色に染まった伝令が、塹壕に転がり込んできた。

 ランタンの灯りの下、特命観戦武官・真崎勇気大尉の表情から、一切の感情が消えた。

 冷たい理性の光だけが、残った。

 

 大正三年(一九一四年)十月末、山東半島。

 大砲という近代兵器は、それ単体では巨大な鉄の筒に過ぎない。数千、数万発という膨大な質量の弾薬を絶え間なく供給する「鉄道」という動脈があって、初めて破壊の神としての機能を果たす。

 

 (信管に続いて、今度は補給路か。見えざる工作員は、火砲ではなくその動脈だけを、次々と正確に潰してくる)

 

 陣地へと続く最も脆い毛細血管――軟弱な地盤の上に敷かれた急造のレールを、正確に切断したのである。

 重さ数トンに及ぶ鉄のトロッコが一度粘土層に転落すれば、クレーンや重機のない最前線の環境において、人力で引き上げることは物理的に不可能である。ロジスティクスの弱点を完全に突き、日本軍を「陸の孤島」へと孤立させる、冷徹なまでに完璧なサボタージュであった。

 

 「……夜明けまでに予備の信管と二十四糎砲弾を陣地に届けなければ、明日の朝、タウベの観測とともにビスマルク砲台の餌食になる」

 

 真崎は野帳を懐にねじ込むと、汚れた軍帽を深く被り直した。

 

 「私が現場へ行く。工兵隊を三十名、直ちに脱線現場へ回せ」

 

 破壊された軌道の現場は、正視に堪えない惨状であった。

 爆薬によってへし折られたレールが飴細工のように反り返り、二百キログラムの砲弾を満載したトロッコが、底なしのクレーターの中に半ば以上沈み込んでいる。

 

 「トロッコの引き上げは放棄する。弾を降ろせ」

 

 真崎の指示に、工兵たちが凍りついた顔を見合わせた。

 

 「大尉殿、二百キロの鉄塊を、この泥沼の中、陣地までの残り二キロをどうやって運ぶのですか」

 「道を作って運ぶのだ」

 

 真崎が命じたのは、近代兵器の粋たる巨大砲弾を、紀元前の奴隷たちと同じ方法で運搬することであった。

 分厚い木板を組み合わせた「修羅」と呼ばれるソリに、麻縄で砲弾を厳重に縛り付ける。その修羅の下に、切り出した丸太を「コロ」として何本も敷き詰める。前方の立ち木に太いロープと滑車を掛け、数十人の男たちが一斉にそれを引く。

 

 「引けッ!」

 

 野太い号令とともに、冷たい濁水の中に立ち込んだ男たちの筋肉が膨れ上がる。

 ズズッ、と重い摩擦音を立てて、修羅が重い土を押し退けながら数センチだけ前進した。後ろから丸太を抜き取り、再び修羅の前方へと敷き直す。

 

 最新鋭の近代兵器でドイツの科学力を粉砕するために、彼らは数千年前のピラミッド建設さながらの、最も野蛮で原始的な肉体労働を強いられていた。工作員の嘲笑が、闇の底から聞こえてくるようであった。

 

 腰まで浸かるぬかるみは、底なしの冷蔵庫だ。この戦線には、銃弾とは別の病魔が蔓延していた。「塹壕足」――氷点下の濁水に長時間下半身を浸し続けると、人体は末梢血管を極限まで収縮させる。血流が止まった足先はまず激痛に苛まれ、やがて感覚を喪失し、最終的には壊死して切断を余儀なくされる。欧州戦線では、銃弾ではなくこの病魔で戦力外となった兵士が数百万に及んだ。

 

 夜が更けるにつれ、山東半島の冷気は牙を剥いた。

 

 秋雨上がり特有の放射冷却が、大地から一切の熱を奪っていく。兵士たちが纏う厚手の羅紗の軍服は、濁水を限界まで吸い込んだ状態で凍りつき、文字通りの「氷の鎧」と化していた。動くたびに、服の繊維が凍りついたままミシミシと不気味な音を立てる。

 自分が土を踏んでいるのか、丸太を踏んでいるのか、あるいは沈んだ仲間の死体を踏んでいるのかすらわからない。ただ、膝から上の大腿筋の収縮だけを頼りに、大地を蹴って後退し続ける。

 

 ガチガチ、ガチガチガチ。

 

 暗闇の中で、不気味な打楽器のような音が響き続けていた。

 極度の低体温症によって、兵士たちの上下の歯が勝手に震え、激しくぶつかり合う音である。彼らの顔は青を通り越して土気色になり、眼窩は深くくぼんでいた。

 

 「エンヤァ……ッ!」

 

 喉の奥から絞り出される、血を吐くような掛け声。

 そのたびに、真っ白で濃密な息の塊が闇の中に吐き出され、冷たい夜霧の中へと溶けていく。

 

 摩擦と凍傷によって、麻ロープを握る男たちの手のひらの皮は無惨に破れていた。肉が裂け、どす黒い血がロープの繊維にじわりと滲む。だが、誰一人として手を離そうとはしない。引くのをやめれば、二百キロの鉄塊は容赦なく重力に引かれてぬかるみに沈み、これまでの苦労が水泡に帰すからだ。

 真崎自身もまた、最前列でロープを肩に食い込ませていた。

 将校の長靴の中はとっくに凍るような濁水で満たされ、指先の感覚はない。手のひらからは工兵たちと同じように血が流れ、氷の鎧となった外套が重く肩にのしかかる。

 

 彼は無敵のヒーローなどではなかった。この圧倒的な大自然の物理と重力の前では、ただ血を流し、土にまみれ、体温をすり減らす一人の脆弱な人間に過ぎない。

 

 それでも、真崎はロープを引き続けた。

 脳裏にあるのは、あの日、地下書庫で読んだ乃木希典の慟哭。そして、この泥濘で機関銃の前に千切れていった若き歩兵たちの肉片。

 理屈を前線に届けるためには、這ってでもこの鉄塊を大砲の口径に押し込まねばならないのだ。

 

   *

 

 赤道直下の空は、照りつける太陽の熱を白く乱反射させていた。

 どこまでも突き抜けるような青空と、エメラルドグリーンに透き通るサンゴ礁。うだるような熱帯の陽射しを弾き返す天幕の下で、潮崎拓馬は純白の第二種軍装に身を包み、氷でよく冷やされたグラスの白ワインを傾けていた。

 彼が乗る御用船の甲板には、泥一滴、血のひとしずくすら落ちていない。

 

 「――パラオ、サイパン、そしてトラック諸島。これでヤルートからアンガウルまで、三千九百キロの海域すべてに日章旗が立ちました」

 

 海軍幕僚が、誇らしげな声を上げる。

 青島で陸軍が死狂いをしているまさに同じ時期、帝国海軍の南洋占領劇は単なる「事務手続き」だった。無防備な島々に上陸し、役場の書類にサインをして回るだけ。一発の砲弾も撃たない、異常な無血占領である。

 

 「書類一枚で無血開城とは、恐ろしくスマートな戦争ですね。青島で泥水と戯れている陸軍の真崎大尉には、申し訳なくてとても見せられない光景だ」

 「これぞ我が海軍の武威(ぶい)です! 南方資源への素晴らしい飛び石となるでしょう」

 

 幕僚が狂喜して語る中、潮崎は海図からゆっくりと笑みを消していった。

 冷徹な指先が、海図の東から西へとなぞる。ハワイ、グアム、フィリピン。アメリカが太平洋のど真ん中に引いた絶対的なシーレーンだ。

 

 (南方への飛び石、だと?……違う)

 

 高杉晋作が描いた、あの恐るべき地政学の絵図面が脳裏を過った。

 

 (俺たちは血を流さずに、アメリカという巨大な化け物の喉元に、最も鋭利な短刀を突きつけてしまったんだ)

 

 将星たちは「天佑(てんゆう)」と呼んで祝杯を挙げている。だが、それはやがて大日本帝国を、太平洋の覇権を賭けた破滅のゲームへと引きずり込む、呪われた負債となる。

 潮崎拓馬は、よく冷えた白ワインを喉に流し込みながら、背筋を這い上がる冷たい悪寒に身を震わせていた。

 

   *

 

 東の空が、ほんのわずかに白み始めた頃。

 凍てつく土と水の地獄を這いずり回った男たちの前に、ようやく二十四センチ榴弾砲の巨大な砲座のシルエットが浮かび上がった。

 

 ドサリ、と。

 

 陣地に砲弾を運び入れた瞬間、何人もの工兵が糸を切られた操り人形のように塹壕の底に倒れ伏した。

 真崎もまた、砲床のコンクリートに背中を預け、ずるずると座り込んだ。

 大腿部の筋肉が痙攣し、膝が勝手に笑っている。肺は冷たい空気を求めて激しく上下し、喉の奥からは血の味がした。肉体の限界を、とうの昔に超えていた。

 

 「……間に合った。これで、撃てる」

 

 荒い息を深く吐き出し、真崎は頭を後ろに反らせた。

 空は明るさを増し、タウベが飛び立つ時間も、要塞砲の照準が合う時間も近い。だが、牙は整った。あとはこの砲弾を装填し、発射紐を引くだけだ。




少しだけ解説を。
真崎たちが修羅を引いた夜の背景には、ひとつの史実があります。帝国陸軍は旅順での苦しい戦訓を受け、軍事軽便鉄道を攻城兵站の柱として整備してきました。青島攻略戦はその初の本格実戦であり、総延長100キロにも及ぶ軌道が敷かれました。 しかし、泥の上に敷かれた急造レールは軟弱地盤や豪雨に極めて弱く、史実でも度々輸送が立ち往生するという脆弱性を露呈しています。 本作では、敵の工作員がそのアキレス腱(脆い地盤と単線)を少量の爆薬で正確に突き、全線を麻痺させました。修羅という戦国の道具が、最新兵器の補給路を代替した夜でした。
整った牙の行方は、次回。

※続きは明日19:40に更新予定です。
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