海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:yoshiume
「――徹夜の洗浄と修理により、四五式二十四
泥にまみれたまま、真崎勇気大尉は地図の前に立っていた。疲労の極致にありながらも、その声は研ぎ澄まされた刃のように冷徹だ。
「我が軍の重砲群をもってすれば、ビスマルク砲台の主陣地たるコンクリートの天蓋を物理的に粉砕することは可能です。……しかし、問題が一つあります」
真崎は地図上のビスマルク山、その裏側に当たる斜面の一点を指差した。
「山の地形が作り出す完全な『死角』。ここに、ドイツ軍は二十八センチ砲をもう一門、巧妙に隠しています。海軍の平射はもちろん、我が陸軍の曲射をもってしても、この地形の窪みにある一門だけは、どうしても砲弾が届きません」
神尾中将が、葉巻の煙をゆっくりと吐き出した。
「大砲で撃てぬのなら、どうするのだ。あの化け物を一つでも残しておけば、我が軍の被害は算を乱すぞ」
「私が工兵と決死隊を率い、歩兵の交通壕を抜けて山の裏側へ回り込みます」
真崎は、己の死を語るような顔ではなかった。ただ、算式の答えを述べるように淡々と言った。
「標的の土台へ肉薄し、綿火薬を仕掛けて直接爆破します」
「馬鹿な! 敵の要塞のど真ん中だぞ!」
幕僚の一人が叫んだ。
「工兵が爆薬を抱えてノコノコ近づく音など、すぐに察知されてハチの巣にされるわ!」
「ええ。だからこそ、音を消すのです」
真崎は、神尾の目を真っ直ぐに見据えた。
「我々が接近する間、
神尾中将はしばし目を閉じ、やがて短く頷いた。
「お前は論理的なのか、精神的なのか……よかろう。海と陸の全火力を以て、貴様らの足音を消してやる」
翌朝。膠州湾の海面は、異様な殺気に満ちていた。
第二艦隊旗艦「
「……時間だ。全門、撃てぇ!!」
秋月の静かな号令が下された瞬間。
三十センチの巨大な主砲が、凄絶な閃光とともに咆哮を上げた。空気を引き裂く衝撃波が海面を叩き、黄色い硝煙が艦全体を包み込む。
そして、それに呼応するように、陸の黄土からも巨大な火柱が上がった。
真崎たちが命懸けで修理した「四五式二十四糎榴弾砲」が、ついにその本来の牙を剥いたのである。
ズドォォォォォン!!
それはもはや、大砲の音という次元を超えていた。
海からの水平射撃と、陸からの曲射射撃。日露戦争の旅順をも凌駕する、近代工業の粋を集めた圧倒的な「鉄の嵐」が、ビスマルク山へ向けて一斉に降り注いだのである。
重さ数百キロの鉄塊の雨が、要塞の表面を抉り、コンクリートの天蓋を叩き割る。遅延信管が要塞の腹の中で炸裂し、大地が悲鳴を上げて隆起した。
青島の天地は、完全にひっくり返っていた。
鼓膜を圧し潰す連続した轟音と、足元をすくうような強烈な震動。ドイツ軍の守備隊は、この未曾有の十字砲火の前に身をすくめ、塹壕の底で耳を塞ぐことしかできなかった。
陸軍が修羅で一発ずつ運ばなければならない砲弾を、海軍の戦艦は何百発も腹の中に抱え込んでいる。揚弾機が次々と大質量弾を薬室へ送り込み、泥に足を取られることもなく、洋上から絶え間なく降り注ぐ。しかも戦艦は自走する巨大要塞だ。陸の砲は一度据え付けたら動かせないが、海軍は機関の力で自在に移動し、要塞の死角へ回り込んで砲口を向ける。
いかなる堅牢な要塞も、この圧倒的な「質量の暴力」の前に長くは耐えられない。そして、その爆音を隠れ蓑にして這い進む者たちがいた。
その天地鳴動の嵐の底を、泥にまみれた一団が這うように進んでいた。
真崎に率いられた爆破作業の工兵たちと、彼らを護衛する数十名の歩兵部隊である。
彼らは、ドイツ軍が掘り巡らせたジグザグの交通壕(塹壕)の暗がりへ滑り込み、死角の二十八センチ砲の裏側を目指していた。上空を飛び交う巨大な砲弾の轟音が、彼らの軍靴が泥を蹴る音を完全に掻き消している。
だが、潜入がいつまでも無血で済むはずがなかった。
交通壕の曲がり角を抜けた瞬間、前方から土嚢を盾にしたドイツ軍の守備隊と鉢合わせたのである。
「――アハトゥング!(敵襲!)」
ドイツ兵が慌てて小銃を構えようとする。
だが、この幅一メートル半ほどの狭い塹壕という閉所において、機関銃の掃射という近代の暴力は使えない。
「行けェッ!!」
真崎の背後から、怒号とともに日本の歩兵たちが雪崩を打って突撃した。
当時の日本陸軍は『歩兵操典』において、「戦闘の最終の決を与えるものは銃剣突撃である」と狂信的に定義していた。
開けた平原において、マキシム機関銃の正面へ万歳突撃を敢行するのは、ただの自殺行為である。しかし、一度敵の懐――すなわち狭く入り組んだ塹壕の中に潜り込んでしまえば、この白兵主義という前近代の戦術は、突如として「最強の殺人術」へとその姿を変貌させるのである。
日本の歩兵が手にする「三八式歩兵銃(全長約一二七センチ)」に、「三十年式銃剣(約五十センチ)」を着剣すると、その長さは一・七メートルを超える。
これはもはや小銃ではない。日本の武士が古来より扱い慣れてきた、長大な「槍」である。
狭い通路において、このリーチの差は絶対的な物理的優位性を誇った。
取り回しの良い短機関銃など、この時代にはまだ存在しない。ドイツ兵がボルトアクションのライフルを構え直すよりも早く、目を血走らせた日本の歩兵たちが踏み込んだ。大音声とともに、一・七メートルの槍がドイツ兵の腹や喉元へと深く突き刺さる。
「死ねェェェッ!!」
飛び散る鮮血。肉を裂き、骨を砕く鈍い音。
狂気とも呼べる「大和魂」に憑かれた歩兵たちは、味方の血を顔に浴びながらも、少しもひるむことなく敵の肉の壁を抉り開けていった。
(……野戦では機関銃の的でしかなかった彼らが、この閉所においては無敵の修羅となるのか)
真崎は、血路を開いていく歩兵たちの泥臭い肉弾戦を背後から見つめ、驚嘆とともにその認識を改めた。
海軍の三十センチ砲という「極致の近代」が頭上を飛び交うその足元で、全長一・七メートルの槍を振り回す「前近代の肉弾戦」が、戦局を切り拓いている。その残酷で美しい対比こそが、戦争という生き物の正体であった。
歩兵たちが血で贖った道を進み、真崎と工兵たちは、ついに「死角の一門」の真下――巨大なコンクリートの壁面へと到達した。
上を見上げれば、二十八センチ砲の巨大な砲身が、すぐそこにある。
「急げ、海軍の砲撃が止む前に仕掛けるぞ!」
真崎は泥だらけの背嚢から、木箱に詰められた「綿火薬(破城薬)」を取り出し、コンクリートの壁面に据え付けた。
ここから先は、彼自身の手作業である。
当時の工兵が爆薬を時限式で起爆させるには、極めて泥臭い物理作業が必要であった。
爆薬に穴を開け、そこに起爆薬である「雷管」を差し込む。雷管のお尻に火薬を芯にした「導火索」を差し込み、専用のペンチでカシメて抜けないように固定し、最後にマッチで火を点ける。
最新の化学兵器も、現場で起爆させるための『最後の手間』は、人間の指先に依存していた。
真崎は震える手でナイフを握り、導火索を切り裂いた。
手がかじかみ、泥と他人の血で滑って、ペンチが雷管にうまく噛み合わない。頭上のコンクリートが艦砲射撃の震動で軋み、バラバラと破片が降り注いでくる。
(クソッ、早く……!)
焦燥の中、真崎はなんとか雷管を爆薬にねじ込み、懐から防水マッチを取り出そうとした。
だが。
その瞬間、真崎の背筋を、爆薬の恐怖とは全く異なる、這い寄るような冷気が撫で上げた。
背後の交通壕。歩兵たちが血路を開いて通り過ぎたはずの、暗く静まり返った暗がり。
そこから、饐えた血の臭いを押しのけるようにして、あの場違いな芳香――フランソワ・コティの『ロリガン』の甘く粉っぽい匂いが、濃厚に漂い始めたのである。
真崎が弾かれたように振り返る。
まだ、姿は見えない。だが、暗闇の奥に潜む「何か」が、圧倒的な暴力を伴ってこちらへ歩を進めてくる気配がした。
最後までお読みいただきありがとうございます。
※続きは明日19:40に更新予定です。
★投票・ブックマークいただけると今後の執筆においてこれ以上ない大きな励みになります。