海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:yoshiume

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第四十三話 ぬかるみの八極拳

 己の死期が秒単位で迫りつつあることを、真崎勇気は冷徹に自覚していた。

 

 ビスマルク砲台の巨大な影が不気味な沈黙を守るなか、背後の曲がり角には、数瞬前まで「大和魂」を叫んでいた日本の歩兵たちの、無惨な沈黙があった。

 

 暗闇からぬつと姿を現したその男――フランソワ・コティの名香『ロリガン』の、粉っぽく甘やかな芳香を纏った工作員は、一滴の返り血すら浴びていなかった。

 

 男の動きには、激昂も、恐怖も、あるいは武功を誇るような人間臭い感情の揺らぎも一切なかった。極限まで洗練されたその歩法は、狭隘な塹壕内において、相手の死角と重心の崩れを瞬時に見切り、最短の軌道を描いて懐へ潜り込む。日本の歩兵たちは、その長すぎる間合いを容易く突破され、声を上げる間もなく喉笛を砕かれ、あるいは頸椎をへし折られていったのである。

 

 「いやはや、ここまでする男だったとは。なかなかのものです」

 

 鼈甲縁(べっこうぶち)の眼鏡の奥で、蛇のような冷たい瞳が真崎を射抜いた。男の声には一切の敵意も昂ぶりもなく、ただ今日の天気を語るような平坦な響きがあった。

 

 「私は本来、無益な殺生を好まんのです。殺し甲斐があるのは、真実を見極め、状況に応じて冷静な判断ができる者だけだ。……そう、あなたのようにね、真崎大尉」

 

 真崎は無言のまま、泥まみれの手で腰の革套(ホルスター)からトレンチナイフを引き抜いた。

 

 柄の部分が分厚い真鍮製のメリケンサックと一体化し、両刃の鋭いダガーを備えたその武器は、洗練された武術とは対極にある、泥沼の生存本能を象徴する無骨な鉄塊であった。

 

 八極拳の極意「震脚」は、足で大地を強く踏みしめて地面反力を生み出し、それを脚から腰、背中へと螺旋状に伝達して掌の一点に爆発させる技術だ。達人が石畳の上でこれを放てば、人体など容易く内部から破裂する。

 

 だが、いかに二千年の歴史を持つ洗練であろうとも、それが成立する「絶対的な前提条件」を外れれば、途端に無力な舞踏へと成り下がる。

 

 男が、音もなく一歩、踏み込んだ。

 

 次の瞬間、真崎の胸の真ん中に、男の掌底が吸い込まれるように叩き込まれていた。

 石畳の上であれば、真崎の胸骨は粉砕され、内臓に破滅的な運動エネルギーが伝播して即死していたはずの一撃であった。

 

 「――ッ!」

 

 真崎の胸に、重い衝撃が走る。

 

 だが、真崎は自らの死を覚悟したその瞬間、奇妙な違和感に包まれていた。彼は微かにたたらを踏んだだけで、その場に踏み止まっていたのだ。肺腑を抉られるような激痛はあるが、致命傷には程遠い。

 

 真崎の視線が、男の足元へ落ちた。

 

 暗殺者の足元では、力強く踏み込まれたはずの上質な革靴が、底なしの黄色い泥の中にズブズブと数寸ほども沈み込んでいた。

 山東半島の泥濘は、巨大なスポンジのような非情な物理現象として、男が大地から引き出そうとした「反力」のすべてを無慈悲に吸収し、減衰させていたのである。さらに、ヘドロのように滑る泥の上では、強烈な打撃を放つための「回転軸」すらまともに構築できない。

 

 二千年以上の歴史を持つ洗練された中国武術の理合いが、ただの非論理的な「泥」の前に沈黙した瞬間であった。

 

 「……計算が、狂いましたか」

 

 真崎は口の中に広がった血の味を黄土に吐き捨て、歪んだ笑みを浮かべた。

 男の顔から、あの貼り付いたような余裕の笑みが、ひび割れた仮面のように剥がれ落ちていく。

 

 第一次世界大戦の塹壕戦は、極端な閉所戦闘であった。ヨーロッパの列強各国は、最新の兵器体系の隙間を埋めるべく、専用の近接格闘武器を次々と開発した。「トレンチナイフ」である。

 

 機関銃や毒ガスといった大量殺戮兵器が飛び交う近代戦の最前線で、彼らが最後に縋ったのは、はるかに原始的な暴力であった。メリケンサックで相手の顔面や頭蓋骨を殴り砕き、刃で臓腑をえぐる。石器時代と何ら変わらぬ、野蛮な殺戮器具である。それは、近代という時代が孕む狂気の象徴でもあった。

 

 真崎は、帝国陸軍の将校に求められる剣術の型や、武士道といった「美しい論理」を、この瞬間に完全に破棄した。

 

 彼は武術の達人ではない。ただ、この数ヶ月間、上海の裏路地と青島の地獄で、泥を這いずり回って生き抜く方法だけを骨の髄まで学習してきた男である。

 

 コティ男が、体勢を立て直して優雅な連撃を放とうとした刹那。

 真崎は自ら、腰まである泥水の中に深々と膝をつき、地べたと一体化した。

 そして、両手ですくい上げた粘り気のある重いヘドロを、男の端正な顔面へと向けて思い切り投げつけたのである。

 

 パシャリ、と汚濁した泥が鼈甲縁の眼鏡を覆い、男の視界を物理的に遮断した。

 

 常に天上の観測者として他者を見下してきた男が、予期せぬ前近代的な反撃に、反射的に顔を庇ってしまった。

 

 「――おおぉぉッ!!」

 

 真崎は獣のように、泥を蹴って男の懐へと飛び込んだ。

 スマートな刺突ではない。腰のひねりも、呼吸の調整もない。ただ、生存本能に命じられるまま、右拳を握りしめた。

 

 トレンチナイフの分厚い真鍮製ナックルが、泥まみれのまま、男の顎を横殴りに捉えた。

 グシャリ、と骨の砕ける不快な音が闇に響く。

 

 洗練された『発勁(はっけい)』ではなく、ただの野蛮な質量と衝撃であった。

 男の上質な服が泥にまみれ、顔面にヘドロを浴びる。そして、この死臭漂う戦場にあって唯一の洗練を誇っていた『ロリガン』の甘い香りが、軍馬の糞尿の混じった泥の悪臭に、無慈悲に掻き消された。

 

 吹き飛ばされた鼈甲縁の眼鏡が、泥の中に沈む。

 泥に汚れた男の端正な顔は、もはや優雅な工作員のものではなく、醜い夜叉のように歪んでいた。彼を支えていた「余裕」という名の甲冑が、無惨に引き剥がされたのだ。

 

 「……貴様……この泥虫が……!」

 

 男の喉から漏れたのは、低い獣の咆哮であった。

 男は泥を拭うこともせず、袖口に隠し持っていた暗器「峨嵋刺(がびし)」を抜き放った。全長三十センチ、中指を通したリングを軸に風車のように回転させ、連続して相手の急所を抉る刺突武器だ。塹壕や泥沼といった「極限の閉所」においてこそ真価を発揮する、暗殺のための純粋な最適解である。

 

 そこには、もはや理屈も武術の妙味もない。ただ、己を地べたへ引きずり降ろした虫けらに対する、剥き出しの殺意だけがあった。

 

 地力の差は、残酷であった。

 顎を砕かれ、美学を汚されながらも、男の本来持つ狂気じみた身体能力と暗器の機動力は、連日の過労で限界を迎えている真崎をあっという間に凌駕した。

 

 猛烈な鉄の連撃が、真崎の防御を切り裂く。泥の中で激しく揉み合い、やがて真崎のトレンチナイフは弾き飛ばされ、泥の奥深くへと姿を消した。

 真崎は仰向けに泥の中へ倒れ込み、その上にコティ男が馬乗りになる。

 男の血走った目が、真崎を死の淵から見下ろしていた。振り上げられた峨嵋刺の先端が、鈍い光を放って真崎の喉笛に狙いを定める。

 

 (ここまでか……)

 

 真崎は、迫りくる死の刃を見つめながら、不思議なほど冷徹に自らの最期を受け入れようとしていた。

 

 世界が、緩慢になった。頭上を飛び交う海軍の艦砲の轟音も、降り注ぐ冷たい雨の感触も、すべてが遠くへ遠ざかっていく。

 

 だが、青島の空を飛んでいた『タウベ』も、このビスマルク砲台の狂気も、すべては終わらせねばならない。自分がここで死ねば、誰があの導火索に火を点けるというのか。

 

 男の腕が、真崎の頸動脈へ向けて無慈悲に振り下ろされようとした、まさにその刹那であった。

 

 パァァン……!!

 

 雨音と重砲の轟音を切り裂いて、鋭く乾いた一発の銃弾が、交通壕の闇に響き渡った。

 コティ男の右腕が、目に見えない巨大な力に弾かれたように不自然に跳ね上がり、握られていた暗器が虚しく真崎の顔の横の泥へ突き刺さる。

 

 「……!?」

 

 コティ男が、己の右腕から噴き出した鮮血に目を瞠った。

 

 真崎は泥まみれのまま、ただ呆然と、銃声が響いた交通壕の奥の暗がりを見つめた。

 死の淵に立つ彼らの前に、冷たい雨の帳を裂いて、ゆっくりと歩み出てくる一つの「影」があった。

 絶体絶命の窮地。この泥濘の地獄に、一体何者が介入してきたというのか――。




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