海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:yoshiume

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第四十四話 発破

 ヴァンス男爵だった。

 

 右腕を撃ち抜かれた工作員は、一瞬だけ自らの傷口を見下ろし、次いで闇の奥から現れた者たちを冷ややかに睨み据えた。

 

 上質なツイードスーツに身を包んだ英国貴族。そしてその後背に音もなく展開する、十数名の植民地兵たちの無機質な銃口の森。

 武術の理合いが通じぬ狭所で、大英帝国が誇る純粋な暴力のシステムに取り囲まれた以上、いかなる超人的な身体能力を持とうとも、ここからの逆転は物理的に不可能であった。

 

「……イギリスの犬め。今日は退散しましょう」

 

 男は忌々しげに吐き捨てるように言うと、地を蹴り立て、まるで夜空に溶け込むコウモリのような異常な速さで、交通壕の暗闇の奥深くへと消え去っていった。

 

 そのあとに残されたのは、血と硝煙の臭気に混じる、あのフランソワ・コティの名香『ロリガン』の、粉っぽく甘やかな残り香だけであった。

 

 真崎勇気大尉は、汚濁から上体を起こし、荒い息を吐きながらヴァンス男爵を見上げた。

 男爵は硝煙を上げるウェブリー・リボルバーをゆっくりと下げ、ステッキを突きながら真崎に近づいた。

 

「害虫の掃除はこれくらいにしておこう。周辺の護衛は、我々に任されたい」

 

 ヴァンスが軽く顎をしゃくると、背後に控えていた小柄な兵士たちが、無言のまま散開し、交通壕の要所要所に歩哨として立った。

 

 彼らこそ大英帝国が世界中に配置している最強の傭兵部隊、ネパールの山岳民族からなる「グルカ兵」である。

 ヒマラヤの過酷な自然環境で鍛え上げられた彼らは、驚異的な心肺機能と健脚を誇り、世界最強の歩兵の一つとして列強から恐れられていた。腰に下げた湾曲した短剣「ククリ(Kukri)」は、骨や手足を容易く両断する、断ち斬るための武器だ。

 

 真崎の目に映る彼らの顔には、日本の歩兵が好むような「大和魂」の悲壮な決意も、敵に対する怒りも一切存在しない。ただ命じられた標的を狩るためだけの、機械のような冷ややかな無表情があるのみだ。

 大英帝国が七つの海を冷徹に支配し続けるために配置した、「純粋で最も効率的な殺戮システム」。それが彼らの正体であった。

 

「ヴァンス男爵……、あの工作員は、一体何者なのです。そして、なぜあなたが、こんな最前線に」

 

 真崎が軍服の汚れを払いながら問うと、ヴァンスは懐中時計を取り出し、時間を確かめながら淡々と答えた。

 

「勘違いするな大尉。貴官の命を救いに来たわけではない。我が国の諜報網(インテリジェンス)が、ドイツの暗号無線を傍受してね。日本軍の鈍重な指揮系統で後方から援軍を呼んでいては、到底間に合わん。あの暗殺者を確実に仕留めるには――たまたま観戦任務で近くにいた私の護衛を差し向けるのが、物理的に最も手っ取り早かっただけのことだ」

 

 ヴァンスは冷然と微笑み、言葉を継いだ。

 

「あの忌々しい『死角の巨砲』を、貴官らがここで確実に破壊してくれなければ、この青島(チンタオ)の包囲戦は数ヶ月長引く。そうなれば、いち早く欧州戦線へ回すべき大英帝国の艦隊が、いつまでも極東に釘付けにされてしまうからね」

「あの男は、ドイツ帝国がバックにいる上海の秘密結社・青幇の高位幹部だ。名は沈伯英、裏社会では『香炉(シャンルゥ)』という通称で呼ばれている」

 

 青幇(チンパン)。その名を聞いて、真崎の背筋を戦慄とともに、ある種の「腑に落ちた」という冷たい感覚が駆け抜けた。

 真崎が魔都・上海に足を踏み入れて以来、路地裏での襲撃や港湾での不可解な妨害など、幾度となく彼の命を狙い、行く手を阻んできた不気味な影たち。それらが単なる無秩序な暴力の群れなどではなく、すべて一つの巨大な意思によって統率された神経網であったと悟ったからだ。

 

「ドイツ帝国は、極東における自らの手を汚さぬため、その青幇という地下組織に莫大な工作資金と最新のモーゼル拳銃を湯水のように流し込み、完全に私兵化しているのだよ」

 

 ヴァンスの声には、同じ帝国主義国としての冷徹な分析が含まれていた。

 

「上海の港湾労働者も、娼婦も、さらには警察官でさえも、すべてが青幇の息がかかった目と耳だ。あの香炉という男が動く時、目に見えない巨大な蜘蛛の巣が、すでに貴官の周囲に張り巡らされていると考えるべきだな。……まあ、今後の上海(シャンハイ)での命懸けのチェスゲームのことは、今は忘れたまえ」

 

 ヴァンスはステッキで、頭上のコンクリートの壁面――ビスマルク砲台の土台を指し示した。

 

「貴官には、『本来の仕事』が残っているはずだ。急ぎたまえ、大尉。我が軍のティータイムまでには、この騒音を終わらせたいのでね」

 

 ふと気づけば、頭上では、依然として海軍の三十センチ艦砲と、陸軍の四五式二十四糎(センチ)弾砲による未曾有の「鉄の嵐」が吹き荒れていた。

 大地が悲鳴を上げて震動し、巨大なコンクリートの塊が次々と崩落してくる。その天地鳴動の轟音を隠れ蓑にして、真崎はビスマルク砲台の「死角の一門」の真下へと再び取り付いた。

 

「大尉殿! ご無事でしたか!」

 

 暗がりの中から、血と硝煙にまみれた数名の工兵たちが這い出してきた。

 先ほどの銃剣突撃でドイツ兵と揉み合い、散りぢりになっていた決死隊の生き残りたちである。彼らの手には、爆薬を詰めた木箱と導火索がしっかりと抱えられていた。

 

 その後ろから、壕の縁を這い上がってきた歩兵が一人いた。

 顔の輪郭すら判別しがたいほど返り血と泥にまみれている。だが右手首に、泥で黒く滲んだ包帯が巻かれていた。神尾中将の天幕に命からがら伝令を果たし、真崎の目の前で膝から崩れ落ちた男。手当を受けるや否や、即座に前線へ戻ったと伝令から聞いていた。

 

 その目だけは、死んでいなかった。

 

「……宮本」

 

 真崎の口から、名前が出た。

 

「生きておりました、大尉殿」

 

 宮本はそれだけ言い、直立した。

 

「お前たち! 本当によく生きていた。さあ、仕上げだ。宮本、俺の背中を守ってくれるか」

「死守いたします!」

 

 真崎は、工兵たちから受け取った「綿火薬」の木箱を、二十八センチ砲の強固な土台の亀裂にねじ込んだ。

 だが、ここからの作業は、近代兵器の粋を破壊するためのものとしては、あまりにも原始的で泥臭い苦闘であった。

 降り続く雨と冷気が、容赦なく真崎の指先から体温と感覚を奪っていく。

 震える手でナイフを握り、タールで防水された導火索の先端を切り裂く。雨水が少しでも切り口から染み込めば、火薬は一瞬で湿気て不発となる。

 

 「俺たちが雨を防ぎます!」

 

 数名の工兵が、自らの軍服の背中を盾にするようにして真崎の上に覆いかぶさり、小さな空間を作った。

 真崎は雨水で滑るペンチをどうにか噛み合わせ、雷管のお尻に導火索を捻り込んで固定した。頭上を叩き割るような砲撃の震動で、手元が狂いそうになるのを必死に堪える。

 

 「……よし、結線完了だ。着火しろ! 急いで離れろ!」

 

 工兵の一人が、外套の懐で必死に守り抜いていた防水マッチを擦った。シュボッという小さな音とともに、導火索の端から青白い火花が噴き出し、チリチリと火薬を食い進み始める。

 

 「退避ィッ!」

 

 真崎と工兵たちは、交通壕の底を転がるようにして走り出した。

 その背後で、警戒に当たっていたヴァンス男爵とグルカ兵たちも、音もなく闇の中へ後退していく。ヴァンスは去り際、優雅に帽子に手を当てて真崎に言った。

 

 「見事な荒仕事だった。またどこかで会おう、大尉」

 

 真崎たちが交通壕を抜け出し、十分な距離を取って大地の中に身を伏せた、まさにその十数秒後であった。

 地中で燃え進んだ導火索が雷管を叩き、仕掛けられた破城薬が起爆した。

 

 だが、真崎の目的は単に土台のコンクリートを割ることではない。その爆発の火炎を、要塞の奥深くに眠る「二十八センチ砲の弾薬庫」へと引火させることであった。

 数百発の巨大な二十八センチ砲弾が、分厚い鉄筋コンクリートで密閉された地下空間で一斉に誘爆を引き起こす。

 

 そこで発生した物理現象は、人間の想像を絶するものであった。

 閉鎖空間における連鎖爆発は、衝撃波の乱反射と圧力の異常な増幅を引き起こす。いわゆる熱圧力(サーモバリック)効果に近い現象が、要塞の腹の中で生じたのだ。

 

 真崎は地面に顔を押し付けながら、その「前兆」をはっきりと見た。

 

 巨大なビスマルク砲台のコンクリートの表面全体が、まるで呼吸をする巨大な生き物のように、一瞬だけ「グンッ」と外側へふくらんだのである。

 

 内部で発生した数千度の高熱と超高圧ガスが、逃げ場を失い、数メートルの厚さを持つ天蓋を内側から力任せに押し上げたのだ。

 そして次の瞬間。

 

 ズドガァァァァン!!

 

 地球の底が抜けたかのような、未曾有の轟音が山東半島の天地を揺るがせた。

 

 内圧に耐えきれなくなった要塞の天蓋に無数の亀裂が走り、巨大なコンクリートの塊が、オレンジ色の猛烈な火柱とともに、内側から木っ端微塵に吹き飛んだ。

 重量数十トンにも及ぶ二十八センチ砲の砲身すらも、火山の噴火のごとく空高く舞い上がり、放物線を描いて遠くの窪地へと叩きつけられる。

 

 熱風が荒れた地表を嘗め尽くし、やがて、鼓膜を圧迫するような重い地響きがゆっくりと収まっていった。

 吹き飛んだ要塞の跡からは、黒煙が天を衝くように立ち上っている。あの日本軍を地獄の底へ突き落としていた「死角の巨砲」は、完全にこの世から消滅し、沈黙した。

 

 不意に、静まり返った戦場に、別の音が響き始めた。

 

「……万歳」

「万歳……! 万歳ァァァイ!!」

 

 それは、砲台の沈黙を悟った生き残りの日本軍歩兵たちが、崩れた塹壕の底から絞り出すように上げ始めた歓声であった。

 最初はぽつぽつとした声だったものが、やがて地鳴りのような「万歳」の合唱となって、青島の空へこだましていく。

 真崎は汚れた顔をゆっくりと上げ、東の空を見つめた。

 鉛色の雲の切れ間から、白み始めた夜明けの光が、傷ついた戦場を冷たく照らし出そうとしている。

 多くの血を流し、極限の肉体と知力を振り絞った泥濘の攻防戦は、ついに帝国陸軍の勝利によって幕を下ろそうとしていた。

 

 「これで、盤面は平ら(フラット)になった」

 

 真崎勇気は、自らの震える両手を見つめながら、誰に聞かせるでもなく独り言ちた。




少しだけ解説を。
ヴァンス男爵が率いていたグルカ兵。
英国は一九一四年の青島包囲戦に、日英同盟を根拠として約千五百名の正規軍(史実では英本国兵とインド・シク兵)を実際に派遣しています。史実の第一次世界大戦において、日英両国が陸上で肩を並べた、唯一の本格的な共同作戦でした。
「盤面は平らになった」と真崎が呟いた泥濘の夜明けに、その種はすでに蒔かれていました。
平らになった盤面の上で、次の一手が打たれます。

※続きは明日19:40に更新予定です。
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