海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:yoshiume

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第四十五話 死にゆく騎士道

 青島の空に白旗が揚がる、数時間前のことである。 

 

 大正三年(一九一四年)十一月七日、未明。

 

 魔都・上海の地下深く、影の奇兵隊の通信室には、重苦しい静寂と、絶縁ゴムの焦げるような匂いが立ち込めていた。

 暗号解読の天才・黒石透は、疲労で落ち窪んだ目を血走らせながら、机の中央に鎮座する「鉄の箱」と向かい合っていた。数ヶ月前、潮崎拓馬が南洋のヤップ島で死線を潜って奪取してきた、ドイツ帝国の最新鋭ローター式暗号機である。

 

 ヘッドホンから漏れる甲高いモールス信号を受信紙に書き留めると、黒石は震える指で暗号機のタイプライター状の鍵盤を叩いた。

 

 ガチャン、チキッ。ガチャン、チキッ――。

 

 キーを押し込むたびに、内部の真鍮製ローターが物理的に回転し、複雑怪奇な電気回路の迷宮を通って、一つのアルファベットがランプボードに浮かび上がる。意味不明な文字列が、冷徹な機械の論理によって、完璧なドイツ語の平文へと翻訳されていく。

 

「……来ました。青島要塞の総督、マイヤー=ワルデックから、ベルリンの皇帝ヴィルヘルム二世へ宛てた、間違いなく『最後』の打電です」

 

 黒石のかすれた声に、部屋の奥で葉巻を燻らせていた高杉晋作と、壁に背を預けていた白衣姿の井川修平が静かに歩み寄った。

 黒石は、翻訳された真新しいインクの文字を、一つ一つ噛み締めるように読み上げた。

 

『――要塞の主要火砲は、敵の圧倒的な重砲射撃により完全に破壊されたり。我が将兵は勇敢に戦い抜けり。然れども、砲弾および小銃弾の備蓄は既に底を突き、これ以上の抵抗は戦術的にも数学的にも全くの無意味なり』

 

 黒石は息を呑み、次の行に目を移した。

 

『――徒に皇帝陛下の臣民の血を流す愚を避けるため、本官は十一月七日〇六三〇をもって、要塞に白旗を掲揚し、名誉ある降伏手続きに入るものなり』

「降伏……!」

 

 井川が思わず声を漏らした。だが、黒石が読み上げる電文の凄みは、その後に続く「後始末」の指示にこそあった。

 

『――降伏に先立ち、敵軍への技術流出を防ぐため、以下の徹底した破壊工作を命ず。全砲台の閉鎖機、カール・ツァイス製光学照準器、および測遠機を物理的に粉砕せよ。また、当司令部に残存する「暗号機」および乱数表は、焼夷薬を用いて完全に融解・焼却すべし』

 

「自分たちの暗号機を、自ら焼き払うだと……なんともったいない!!」

 

 黒石は、手元にある奪取された暗号機の冷たい鋼鉄を撫でた。ドイツ軍は、自らの手で青島の暗号機を消滅させる。すなわち、今、黒石の手元にあるこの一台が、極東において無傷で残存する「おそらく唯一のマスターキー」へと昇華した――そういうことを意味していた。潮崎がヤップ島で流した血の価値は、この瞬間、計り知れない戦略的資産へと化けたのだ。

 

 黒石は最後の数行を読み上げた。

 

『――なお、要塞の陥落に先立ち、機密文書を託したギュンター・プリュショー中尉は、残存する唯一の航空機「タウベ」にて、中華民国内陸部へと脱出せり。皇帝陛下万歳。ドイツ帝国万歳』

 

 通信室に、重い沈黙が降りた。

 

「……恐ろしい連中じゃな」

 

 高杉晋作が、短くなった葉巻の灰を落としながら、低く唸るように言った。

 「数字が尽きた。だから白旗を揚げた。それだけのことじゃ。……三宅坂の石頭どもには、生涯わからぬ論理じゃろうがな」 高杉は紫煙を細く吐き出し、冷ややかに続けた。

 

「鉄の代わりに兵を安く使う、血肉の浪費。……あの前近代の狂信を軍の美徳として正当化し続ける限り、日本が抱える精神主義という病理は、いずれ国そのものを食いつぶすじゃろうて」

「ええ。彼らは誇り高き騎士でありながら、戦争というシステムを構成する極めて合理的な歯車なのでしょう」

 

 直前までドイツの暗号機の精緻な論理と格闘していた黒石も、深い敬意と畏怖を込めて同意した。

 

「彼らは無機質な兵器を自らの手で徹底的に破壊することで、兵士という『柔らかな有機体』を無為な死から救済したのです。我が軍とは、まさに対極の思想ですね。……真崎大尉が今いる青島の最前線には、この電文の通り、自ら破壊したツァイスのレンズと、計算式を解き終えて堂々と白旗を掲げる、極めて近代的な敗者たちが待っているはずです」

 

 高杉は上海の暗い空を見上げ、ニヤリと笑った。「さあ、見せてもらおうか。我が軍の石頭どもが、この『完璧な近代の敗北』を前にして、どんな滑稽な凱歌を上げるのかをな」

 

 そして数時間後。

 大正三年(一九一四年)十一月七日、午前六時三十分。

 

 青島観象台の鉄塔に、一枚の白い布がするすると揚がった。

 

 それは、秋の長雨と台風がもたらした泥沼の中で一ヶ月以上も続いた凄惨な死闘が、ついに物理的な終焉を迎えた合図であった。

 

 特命観戦武官・真崎勇気大尉は、粉砕されたビスマルク砲台の巨大なクレーターの縁に立ち、冷たい海風にひるがえるその白旗を見上げていた。彼の軍服は乾いた泥と他人の血、そして硝煙の煤で、もはや元の色が判別できないほどに汚れている。だが、その視線の先にある光景は、勝者の熱狂的な凱歌とは程遠い、奇妙な静寂と冷徹な「論理」に支配されていた。

 

 彼らは、世界最高峰を誇るクルップ社製巨砲の心臓部である分厚い鋼鉄の閉鎖機を、油の匂いとともに一つ一つ丁寧に取り外し、深い谷底へと投げ捨てた。あるいは砲身内に少量の爆薬を装填し、内側からその機能を永遠に奪った。

 

 それだけではない。ドイツ軍の技術兵たちは、砲の目である精密なパノラマ照準器や測遠機を台座から取り外すと、分厚い鋼鉄のハンマーで容赦なく叩き割ったのだ。真崎の足元には、ドイツ光学技術の結晶たるカール・ツァイス製の精緻なプリズムやレンズの破片が、無残なガラス屑となって泥の中にきらきらと散乱していた。それは、近代兵器の魂を自らの手で殺す、冷徹にして哀しい儀式であった。

 

 洋上に目を転じれば、オーストリアの巡洋艦「カイゼリン・エリザベート」や駆逐艦「S90」も、自ら爆破自沈の道を選び、暗い海へと沈んでいった。彼らは、自らが愛した「鉄の巨獣」たちを自らの手で屠り、空の薬莢の山を築いた上で、論理的帰結として白旗を掲げたのであった。

 

 真崎がふと上空を見上げた。あの空を支配した「タウベ」の姿は、もうない。プリュショー中尉は前日、日本軍の包囲網を嘲笑うかのように悠然と内陸部へ脱出していった。

 

 (もはや、大砲の撃ち合いすら「古い」のだ)

 

 真崎は密かに戦慄を禁じ得なかった。

 

 論理的な静寂の後に訪れたのは、前近代的な熱狂であった。

 

 午前七時、「突撃」の幻影に憑かれた日本の歩兵たちが、怒号とともにドイツ軍の最終防衛線であるイルティス山、モルトケ山の陣地へと雪崩れ込んだ。

 

 真崎もまた、その狂乱の渦の中に足を踏み入れた。

 

 交通壕の突き当たりで、一人の若いドイツ軍将校が立ちはだかっていた。彼は退路を断たれながらも、弾倉が空になったモーゼル小銃に銃剣を装着し、一人で敵を迎え撃とうとしていた。その瞳は澄んでおり、死を恐れる様子はない。対する日本の歩兵たちは、血走った目で、泥まみれの銃剣を構えて一斉に突進していく。

 

 ドイツ将校は、数歩手前まで迫った日本兵の狂気に満ちた形相を見て、ふっと微かな、そして悲しげな笑みを浮かべた。彼は、自らの小銃を静かに、だが誇り高く足元へ下ろした。それは、無意味な殺戮を拒む近代知性の勝利であり、同時に、古いヨーロッパの騎士道が、極東の未分化な熱狂に飲み込まれる悲壮な瞬間でもあった。

 

 日本兵たちは、投降した彼をなおも銃床で殴りつけようとしたが、真崎がその間に割って入り、鋭い声でそれを制した。

 

「もうよせ!この男は、戦いを終えたのだ」

 

 真崎の言葉を理解したのか、ドイツ将校は静かに頷いた。彼は懐から家族の写真が挟まれた小さな革の手帳を取り出すと、それをそっと軍服の内ポケットにしまい込み、自らの汚れた軍服の埃を、まるで行列の先頭に並ぶかのように丁寧に払い始めた。

 

 弾薬を撃ち尽くし、要塞を破壊された敗者であるはずの彼は、自らの軍服についたコンクリートの粉や泥の汚れを払い落とし、堂々と胸を張った。その顔には「最後まで合理的に戦い抜いた」という誇りこそあれ、敗北に対する無様な卑屈さは微塵もない。

 

 その動作の気高さと、一個の軍人としての静かな佇まいに、周囲の日本兵たちはかえって気圧されていた。

 

 真崎は、その背筋を見ていた。乃木閣下が遺書に込めた怒りの意味が、今この瞬間、初めて肉体として分かった気がした。




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※続きは明日19:40に更新予定です。
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