海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
青島の空に白旗が揚がる、数時間前のことである。
大正三年(一九一四年)十一月七日、未明。
魔都・上海の地下深く、影の奇兵隊の通信室には、重苦しい静寂と、絶縁ゴムの焦げるような匂いが立ち込めていた。
暗号解読の天才・黒石透は、疲労で落ち窪んだ目を血走らせながら、机の中央に鎮座する「鉄の箱」と向かい合っていた。数ヶ月前、潮崎拓馬が南洋のヤップ島で死線を潜って奪取してきた、ドイツ帝国のローター式暗号機の試作機である。
ヘッドホンから漏れる甲高いモールス信号を受信紙に書き留めると、黒石は震える指で暗号機のタイプライター状の鍵盤を叩いた。
ガチャン、チキッ。ガチャン、チキッ――。
キーを押し込むたびに、内部の真鍮製ローターが物理的に回転し、複雑怪奇な電気回路の迷宮を通って、一つのアルファベットがランプボードに浮かび上がる。意味不明な文字列が、冷徹な機械の論理によって、完璧なドイツ語の平文へと翻訳されていく。
「受信。青島総督マイヤー=ワルデックから、ベルリンの皇帝ヴィルヘルム二世宛。……最後の電報です」
黒石のかすれた声に、部屋の奥で葉巻を燻らせていた高杉晋作と、壁に背を預けていた白衣姿の井川修平が静かに歩み寄った。
黒石は、翻訳された真新しいインクの文字を、一つ一つ噛み締めるように読み上げた。
『――要塞ノ主要火砲ハ、敵ノ圧倒的ナル重砲射撃ニヨリ完全ニ破壊セラレタリ。我ガ将兵ハ勇敢ニ戦ヒ抜ケリ。然レドモ、砲弾及ビ小銃弾ノ備蓄ハ既ニ底ヲ突キ、コレ以上ノ抵抗ハ戦術的ニモ数学的ニモ全ク無意味ナリ』
黒石は息を呑み、次の行に目を移した。
『――
「降伏……!」
井川が思わず声を漏らした。だが、黒石が読み上げる電文の凄みは、その後に続く「後始末」の指示にこそあった。
『――降伏ニ先立チ、敵軍ヘノ技術流出ヲ防グタメ、以下ノ徹底セル破壊工作ヲ命ズ。全砲台ノ閉鎖機、カール・ツァイス製光学照準器、及ビ測遠機ヲ物理的ニ粉砕セヨ。マタ当司令部ニ残存スル「暗号機」及ビ乱数表ハ、焼夷薬ヲ用ヒテ完全ニ融解・焼却スベシ』
「暗号機を、自分で焼くんですか。……もったいない」
黒石は、手元にある奪取された暗号機の冷たい鋼鉄を撫でた。ドイツ軍は、自らの手で青島の暗号機を消す。極東に無傷で残るのは、黒石の手元にあるこの一台だけになる。
黒石は最後の数行を読み上げた。
『――ナホ、要塞ノ陥落ニ先立チ、機密文書ヲ託シタルギュンター・プリュショウ中尉ハ、残存スル唯一ノ航空機「タウベ」ニテ、中華民国内陸部ヘ脱出セリ。皇帝陛下万歳。ドイツ帝国万歳』
通信室に、重い沈黙が降りた。
「……恐ろしい連中じゃな」
高杉晋作が、短くなった葉巻の灰を落としながら、低く唸るように言った。
「数字が尽きた。だから白旗を揚げた。……それで仕舞いじゃ。三宅坂の石頭どもには、生涯わからん論理じゃろうがのう」
高杉は紫煙を細く吐き出し、冷ややかに続けた。
「鉄の代わりに兵を安く使う、血肉の浪費。……あの前近代の狂信を軍の美徳として正当化し続ける限り、日本が抱える精神主義という病理は、いずれ国そのものを食いつぶすじゃろうて」
「騎士で、歯車。両方です」
直前までドイツの暗号機の論理と格闘していた黒石が、珍しく自分から口を開いた。
「機械を壊して、兵を残す。うちとは逆です。……真崎さんの前にいるのは、レンズを割って、計算を解き終えて、白旗を揚げる敗者。近代の負け方です。以上です」
高杉は地下室の低い天井を見上げ、ニヤリと笑った。
「さあ、見せてもらおうかのう。陸軍の石頭どもが、この『完璧な近代の敗北』を前にして、どねえな凱歌を上げるか」
そして数時間後。
大正三年(一九一四年)十一月七日、午前六時三十分。
青島観象台の鉄塔に、一枚の白い布がするすると揚がっていく。
それは、秋の長雨と台風がもたらした泥沼の中で一ヶ月以上も続いた戦いの、終わりの合図だった。
特命観戦武官・真崎勇気大尉は、粉砕されたビスマルク砲台の巨大なクレーターの縁に立ち、冷たい海風にひるがえるその白旗を見上げていた。彼の軍服は乾いた泥と他人の血、そして硝煙の煤で、もはや元の色が判別できないほどに汚れている。
まだ生きている砲台では、ドイツの砲兵たちが、世界最高峰を誇るクルップ社製巨砲の心臓部である分厚い鋼鉄の閉鎖機を、油の匂いとともに一つ一つ丁寧に取り外し、深い谷底へと投げ捨てていた。あるいは砲身内に少量の爆薬を装填し、内側からその機能を永遠に奪った。
さらに、ドイツ軍の技術兵たちは、砲の目である精密なパノラマ照準器や測遠機を台座から取り外すと、分厚い鋼鉄のハンマーで容赦なく叩き割ったのだ。真崎の足元には、ドイツ光学技術の結晶たるカール・ツァイス製の精緻なプリズムやレンズの破片が、無残なガラス屑となって泥の中にきらきらと散乱している。
海の上にも、もう艦はいない。オーストリアの巡洋艦「カイゼリン・エリザベート」は数日前に湾の中で自ら沈み、水雷艇「S90」も、先月のうちに南の浜で自爆している。ドイツ軍は、砲も艦も自らの手で始末し、弾を撃ち尽くしてから、白旗を掲げたのだ。
真崎がふと上空を見上げた。あの空を支配した「タウベ」の姿は、もうない。プリュショウ中尉は前日、日本軍の包囲網を嘲笑うかのように悠然と内陸部へ脱出していった。
(もはや、大砲の撃ち合いすら「古い」のだ)
真崎は密かに戦慄を禁じ得なかった。
白旗のあとに来たのは、突撃だった。
午前七時、日本の歩兵たちが、怒号とともにドイツ軍の最終防衛線であるイルティス山、モルトケ山の陣地へと雪崩れ込んでいく。
真崎もまた、その狂乱の渦の中に足を踏み入れた。
交通壕の突き当たりで、一人の若いドイツ軍将校が立ちはだかっていた。彼は退路を断たれながらも、弾倉が空になったモーゼル小銃に銃剣を装着し、一人で敵を迎え撃とうとしていた。その瞳は澄んでおり、死を恐れる様子はない。対する日本の歩兵たちは、血走った目で、泥まみれの銃剣を構えて一斉に突進していく。
ドイツ将校は、数歩手前まで迫った日本兵の狂気に満ちた形相を見て、ふっと微かな、そして悲しげな笑みを浮かべた。彼は、自らの小銃を静かに、だが誇り高く足元へ下ろした。
日本兵たちは、投降した彼をなおも銃床で殴りつけようとする。真崎がその間に割って入り、鋭い声でそれを制した。
「もうよせ! この男は、戦いを終えたのだ」
真崎の言葉を理解したのか、ドイツ将校は静かに頷いた。彼は懐から家族の写真が挟まれた小さな革の手帳を取り出すと、それをそっと軍服の内ポケットにしまい込み、自らの汚れた軍服の埃を、まるで行列の先頭に並ぶかのように丁寧に払い始める。
弾薬を撃ち尽くし、要塞を破壊された敗者であるはずの彼は、自らの軍服についたコンクリートの粉や泥の汚れを払い落とし、堂々と胸を張った。その顔には「最後まで合理的に戦い抜いた」という誇りこそあれ、敗北に対する無様な卑屈さは微塵もない。
その動作の気高さと、一個の軍人としての静かな佇まいに、周囲の日本兵たちはかえって気圧されている。
真崎は、その背筋を見ていた。乃木閣下が遺書に込めた悔いの意味が、今この瞬間、初めて肉体として分かった気がした。
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※続きは明日19:40に更新予定です。
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