海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
錠が、開いた。
ヘアピン一本で。三秒で。
小型ランプの火を極限まで絞る。生まれる薄明かりは、親指の爪ほど。それで十分だ。
軍務局に届いたばかりの『
(……ビスマルク砲台、沈黙。歩兵部隊損害、想定を大幅に下回る)
陸軍上層が歓喜するであろう「大和魂の勝利」など、彼女の目には映っていない。数字の羅列の奥から、冴子の冷たい瞳が正確に読み取るのは、ただ一点――ある観戦武官の、生存記録だ。
ふっと、艶やかな唇に微かな笑みが浮かぶ。
「……まだ死んでは駄目よ、真崎さん」
囁きは、ランプの炎よりも小さい。
「あなたが陸軍の古い壁をぶち壊すまで、私が帝都の狸どもを抑え込んでおくから」
その時だった。
廊下の奥から、足音が近づいてきた。長年、戦場を歩き続けた将官特有の、等間隔で容赦のない歩み――父だ。
冴子の表情が、音もなく消えた。
書類を寸分の狂いもなく元の位置へ。引き出しを閉め、錠を戻す。ランプを消す。そして、猫の足取りで書斎を抜け出し、自室へ。――所要時間、四秒。
数分後。コンコン、と扉がノックされた。
「冴子。起きているか」
扉を開けた軍服姿の神林少将が見たのは、鏡台の前で長い髪を梳く、夜更けの読書を楽しむ温室育ちの令嬢であった。先ほどまでの工作員の気配は、どこにも残っていない。
「お父様。こんな夜更けにどうなさいましたの?」
「いや……書斎のあたりで物音がした気がしてな。お前、立ち寄りはしなかったか」
(……気づかれたかしら)
冴子は内心の焦りを完璧な微笑みで塗り潰し、傍らの机を指し示した。
「立ち寄っておりませんわ。ずっとこちらで、
「誰にだ」
少将が机を見ると、美しい便箋と、女学生に人気の『淑女画報』の最新号が置かれていた。
「雑誌の投書欄で知り合った、遠方の方ですわ。文通をするのが今の流行りですの。見知らぬ方と思いを交わすのも、一興ですわ」
少将は愛娘の言葉にやれやれと息を吐いた。
「だが冴子、素性の知れぬ輩と安易に会うような真似はするなよ」
「ご安心くださいませ。私のお相手は皆、
冴子が優雅に微笑むと、少将は「それなら良いが」と鷹揚に頷き、扉を閉めた。
鏡の中で、冴子はひとり、静かに笑った。
*
大正三年(一九一四年)十一月七日、朝。
山東半島を覆っていた秋雨が上がり、青島の空に透き通るような青空が広がっていた。
だが、その美しい天空の下に広がる大地は、人間が住む場所の姿を保ってはいない。
白旗から数時間。特命観戦武官・真崎勇気大尉は、ふたたびビスマルク砲台の跡に戻り、足元に広がる「物理の破壊」の痕跡を見下ろしていた。日本軍が叩き込んだ「四五式二十四
ドイツ軍の二十八センチ要塞砲の砲身も、無事ではすまなかった。重量数十トンに及ぶ鉄塊が、飴細工のようにへし折れて泥沼に突き刺さっている。露出した無数の鉄筋が、屠殺された巨獣の骨のように天へ向けて剥き出しになっていた。
焦げた土と、ピクリン酸特有の酸っぱい臭気。
喉が渇いた。真崎は腰の水筒を傾けたが、中身はとうに空だった。
「真崎大尉、コーヒーはいかがです。接収した青島ビールも大量にございますが」
若い副官が気を遣って声をかけてきた。
「心遣いは感謝する。だがすまん、コーヒーはいらん。……水はないか」
「はっ、すぐに持って参ります!」
副官が駆け去る背中を見送り、真崎は再び眼下の廃墟へ視線を戻した。
白旗が揚がり、狂乱の突撃が収束した後に青島へ入城する「勝者」と「敗者」の列は、あまりにも残酷なコントラストを描き出していく。
勝者であるはずの日本の歩兵たちの姿は、輝かしい勝利者とは程遠かった。白米偏重の兵食が祟り、
対して敗者であるドイツ兵たちはどうであったか。
降伏後、武装を解除されたドイツ兵たちが、青島の市街から整然と行進してきた。彼らの姿を見て、真崎は息を呑んだ。プロイセンの軍人にとって、軍服とは「皇帝から賜った名誉」そのものである。降伏が決まった後の数時間、ドイツ兵たちは水筒に残った最後の一滴の貴重な真水を使って伸びた顎髭を綺麗に剃り落とし、破れた軍服を互いに繕い合っていたのだ。
泥まみれだった革のブーツはぼろ布で必死に磨き上げられ、襟のホックは一番上まできっちりと留められている。
捕虜のドイツ兵たちは、泥まみれで勇敢に戦い抜いた日本兵とすれ違う際、正対して直立不動の敬意を示した。
しかし、その後方から、磨き上げられた軍靴の音を響かせて意気揚々と入城してくる英国軍、バーナディストン少将の部隊が通る時であった。ドイツ兵たちは号令一下、一糸乱れぬ動作で一斉にくるりと背中を向け、徹底して無視するという痛烈な意趣返しを行ってみせたのである。沈黙の拒絶の壁。
泥と血にまみれた「泥虫」のような勝者と、完璧な身だしなみで胸を張る敗北者。
「よくやった、真崎大尉! 勲章ものだぞ!」
背後から響いた場違いに甲高い声に、真崎はゆっくりと振り返った。そこに立っていたのは、軍務局の
「青島要塞、完全陥落だ! 内地は、今夜は提灯行列だぞ! 最後にあの鉄壁の陣地を沈黙させたのは、我が軍の誇る歩兵の銃剣突撃。やはり肉弾の精神こそ、世界最強と証明されたな!」
その言葉を聞いた瞬間、真崎の全身の血液が、氷のように冷たく凍りついた。
(……何を、言っているのだ、この男は?)
真崎は、眼下に広がるビスマルク砲台の巨大なクレーターを見た。実際の勝因は、誰の目にも明らかだ。日露戦争の旅順攻囲戦とは比べものにならない速さで鉄量を叩き込んだ、圧倒的な「四五式二十四糎榴弾砲」の重砲群。純粋な物理的火力の暴力こそが、コンクリートを粉砕し、ドイツ軍に合理的な降伏を決断させたのである。歩兵の突撃は、大砲が敵を沈黙させた「後」に行われた、いわば後始末に過ぎない。
「……中佐殿。御冗談を。この惨状を御覧ください。勝因は二十四糎榴弾砲の圧倒的な鉄量です。歩兵の突撃は、占領行動に過ぎません」
真崎が低く押し殺した声で反論すると、郷田の顔から、あの芝居がかった熱狂の笑みが、ふっと消え失せた。
周囲に他の兵がいないことを確かめると、郷田中佐は声を落として囁いた。
「大砲がコンクリートを割ったことなど、百も承知だ」
「……なッ」
「だがな真崎。来年度の『歩兵師団増設』の予算を議会で通すためには、今回の青島戦は絶対に『歩兵の銃剣突撃による勝利』でなければならんのだよ」
郷田は、仕立ての良い真新しい軍靴で、足元の焦げた土をトントンと叩いた。
「真実など補助事実に過ぎん。……特命観戦武官殿。公式記録は、歩兵の突撃による占領と書き換えろ。軍務局の決定事項だ。――なお、お前がまとめている火力戦のレポートは、内部資料として遺憾なく活用させてもらう。安心せよ」
郷田は胸の隠しから手帳を出し、鉛筆の芯の先を舐めて、何かを短く書きつけた。
真崎には、絞り出す声すら残っていない。
反論したところで、彼らには何も届かない。
この青島戦における日本軍の死傷者は二千名弱。旅順の数万人に比べれば、極めて少ない「あっさりとした勝利」であった。
真崎は、マメだらけの自らの両手に目を落とす。
砲で勝っても、最後に旗を立てたのは歩兵じゃと言い張る――上海の地下で、高杉が言ったとおりになった。
遠くで、生き残った歩兵たちが、無邪気に「万歳」と叫び続けている。
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※続きは明日19:40に更新予定です。
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