海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:yoshiume

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第四十六話 誤謬の凱歌

 錠が、開いた。

 ヘアピン一本で。三秒で。

 

 神林冴子(かんばやしさえこ)は薄く息を吐き、父の書斎へ音もなく滑り込んだ。パリ仕立てのナイトガウンの裾が、磨き上げられた床板を絹の羽根のように撫でていく。

 

 小型ランプの火を極限まで絞る。生まれる薄明かりは、親指の爪ほど。それで十分だ。

 軍務局に届いたばかりの『青島(チンタオ)戦況報告書』を、冴子は音もなく手に取った。美しい指先が紙の束を繰る速度は、令嬢らしい優雅さとはまるで無縁の、解読を専業とする者の機械的な速さだった。

 

(……ビスマルク砲台、沈黙。歩兵部隊損害、想定を大幅に下回る)

 

 陸軍上層が歓喜するであろう「大和魂の勝利」など、彼女の目には映っていない。数字の羅列の奥から、冴子の冷たい瞳が正確に読み取るのは、ただ一点――とある重砲陣地の指揮官の、生存記録だ。

 ふっと、艶やかな唇に微かな笑みが浮かぶ。

 

「……まだ死んでは駄目よ、はぐれ者の大尉さん」

 

 囁きは、ランプの炎よりも小さい。

 

 「あなたが陸軍の古い壁をぶち壊すまで、私が帝都の狸どもを抑え込んでおくから」

 

 その時だった。

 廊下の奥から、軍靴の足音が近づいてきた。長年、戦場を歩き続けた将官特有の、等間隔で容赦のない歩みだ。

 

 冴子の表情が、音もなく消えた。

 書類を寸分の狂いもなく元の位置へ。錠を掛ける。ランプを消す。そして、猫の足取りで書斎を抜け出し、自室へ。――所要時間、四秒。

 

 数分後。コンコン、と扉がノックされた。

 

「冴子。起きているか」

 

 扉を開けた軍服姿の神林少将が見たのは、鏡台の前で長い髪を梳く、夜更けの読書を楽しむ温室育ちの令嬢であった。先ほどまでの工作員の気配は、どこにも残っていない。

 

「お父様。こんな夜更けにどうなさいましたの?」

「いや……書斎のあたりで物音がした気がしてな。お前、立ち寄りはしなかったか」

(……感付かれていたか)

 

 冴子は内心の焦りを完璧な微笑みで塗り潰し、傍らの机を指し示した。

 

「立ち寄っておりませんわ。ずっとこちらで、(ふみ)をしたためておりましたの」

「文?」

 

 少将が机を見ると、美しい便箋と、女学生に人気の『淑女画報』の最新号が置かれていた。

 

 「ええ。雑誌の投書欄を通じて、遠方の方と文通をするのが今の流行りですの。見知らぬ方と思いを交わすのも、一興ですわ」

 

 少将は愛娘の言葉にやれやれと息を吐いた。

 

「だが冴子、素性の知れぬ輩と安易に会うような真似はするなよ」

「ご安心くださいませ。私のお相手は皆、貞淑(ていしゅく)なお嬢様方ばかりですわ」

 

 冴子が優雅に微笑むと、少将は「それなら良いが」と鷹揚に頷き、扉を閉めた。

 鏡の中で、冴子はひとり、静かに笑った。

 

   *

 

 大正三年(一九一四年)十一月七日、朝。

 

 山東半島を覆っていた秋雨が上がり、青島の空に透き通るような青空が広がっていた。

 だが、その美しい天空の下に広がる大地は、人間が住む場所の姿を保ってはいなかった。

 

 特命観戦武官・真崎勇気大尉は、ビスマルク砲台がかつて存在していた巨大なクレーターの縁に立ち、足元に広がる「物理の破壊」の痕跡を見下ろしていた。日本軍が叩き込んだ「四五式二十四(センチ)榴弾砲」の砲弾が、コンクリートの天蓋を粉砕した。

 

 ドイツ軍の二十八センチ要塞砲の砲身も、無事ではすまなかった。重量数十トンに及ぶ鉄塊が、飴細工のようにへし折れて泥沼に突き刺さっている。露出した無数の鉄筋が、屠殺された巨獣の骨のように天へ向けて剥き出しになっていた。

 

 焦げた土と、ピクリン酸特有の酸っぱい臭気。

 喉が渇いた。真崎は腰の水筒を傾けたが、中身はとうに空だった。

 

 「真崎大尉、コーヒーはいかがです。接収した青島(チンタオ)ビールも大量にございますが」

 

 若い副官が気を遣って声をかけてきた。

 

 「心遣いは感謝する。だがすまん、コーヒーはいらん。……水はないか」

 「はっ、すぐに持って参ります!」

 

 副官が駆け去る背中を見送り、真崎は再び眼下の廃墟へ視線を戻した。

 白旗が揚がり、狂乱の突撃が収束した後に青島へ入城する「勝者」と「敗者」の列は、あまりにも残酷なコントラストを描き出すことになった。

 

 勝者であるはずの日本の歩兵たちの姿は、輝かしい勝利者とは程遠かった。白米偏重の兵食が祟り、脚気(かっけ)が蔓延している。陸軍中枢は原因を「未知の伝染病」と信じ込み、海軍が麦飯でとうに解決していた事実を「非科学的」と嘲笑い続けた。その頑迷さが、今また兵士たちの足を蝕んでいた。浮腫で丸太のように腫れ上がった足をひきずり、悪臭を放つ泥の中で震える彼らは、ただ死の淵を這い回る泥虫のようだった。

 

 対して敗者であるドイツ兵たちはどうであったか。

 降伏後、武装を解除されたドイツ兵たちが、青島の市街から整然と行進してきた。彼らの姿を見て、真崎は息を呑んだ。プロイセンの軍人にとって、軍服とは「皇帝から賜った名誉」そのものである。降伏が決まった後の数時間、ドイツ兵たちは水筒に残った最後の一滴の貴重な真水を使って伸びた顎髭を綺麗に剃り落とし、破れた軍服を互いに繕い合っていたのだ。

 

 泥まみれだった革のブーツはぼろ布で必死に磨き上げられ、襟のホックは一番上まできっちりと留められている。彼らの顔には「最後まで合理的に戦い抜いた」という誇りこそあれ、敗北に対する無様な卑屈さは微塵もなかった。

 

 そこでは、ある種の「敗者の誇り」と呼ぶべき儀式が行われた。彼ら捕虜のドイツ兵は、泥まみれで勇敢に戦い抜いた日本兵とすれ違う際、正対して直立不動の敬意を示した。

 

 しかし、その後方から、磨き上げられた軍靴の音を響かせて意気揚々と入城してくるイギリス軍、バーナディストン少将の部隊が通る時であった。ドイツ兵たちは号令一下、一糸乱れぬ動作で一斉にくるりと背中を向け、徹底して無視するという痛烈な意趣返しを行ってみせたのである。沈黙の拒絶の壁。それは火事場泥棒に対する、敗者なりの最高の皮肉であった。

 

 泥と血にまみれた「泥虫」のような勝者と、完璧な身だしなみで胸を張る敗北者。

 

 真崎は、その残酷なコントラストを見つめながら、自国が抱える精神論の病理と、ドイツ軍が体現する「近代軍隊の完成形」との間にある、絶望的なまでの隔たりを痛感せざるを得なかった。

 

 「よくやった、真崎大尉! 勲章ものだぞ!」

 

 背後から響いた場違いに甲高い声に、真崎はゆっくりと振り返った。そこに立っていたのは、帝国陸軍参謀本部から「視察」という名目でやってきたエリート将校、郷田(ごうだ)中佐であった。彼の軍服は、まるで仕立て屋から今しがた受け取ってきたかのように真新しい。

 

「青島要塞、完全陥落だ! 内地は提灯行列の大騒ぎだぞ! 最後にあの鉄壁の陣地を沈黙させたのは、我が軍の誇る歩兵の銃剣突撃。やはり肉弾の精神こそ、世界最強と証明されたな!」

 

 その言葉を聞いた瞬間。真崎の全身の血液が、氷のように冷たく凍りついた。

 

(……何を、言っているのだ、この男は?)

 

 真崎は、眼下に広がるビスマルク砲台の巨大なクレーターを見た。実際の勝因は、誰の目にも明らかであった。日露戦争の旅順攻囲戦で半年かけて撃ち込んだ鉄量を、わずか数日で叩き込んだ圧倒的な「四五式二十四糎榴弾砲」の重砲群。純粋な物理的火力の暴力こそが、コンクリートを粉砕し、ドイツ軍に合理的な降伏を決断させたのである。歩兵の突撃は、大砲が敵を沈黙させた「後」に行われた、いわば後始末に過ぎない。

 

「……中佐殿。御冗談を。この惨状を御覧ください。勝因は二十四糎榴弾砲の圧倒的な鉄量です。歩兵の突撃は、占領行動に過ぎません」

 

 真崎が低く押し殺した声で反論すると、郷田の顔から、あの芝居がかった熱狂の笑みが、ふっと消え失せた。

 周囲に他の兵がいないことを確認し、郷田中佐は冷徹な、まるで氷の刃のような声で囁いた。

 

「大砲がコンクリートを割ったことなど、百も承知だ」

「……なッ」

「だがな真崎。来年度の『歩兵師団増設』の予算を議会で通すためには、今回の青島戦は絶対に『歩兵の銃剣突撃による勝利』でなければならんのだよ」

 

 郷田は、仕立ての良い真新しい軍靴で、足元の焦げた土をトントンと叩いた。

 

「真実など補助事実に過ぎん。……特命観戦武官殿。公式記録は、歩兵の突撃による占領と書き換えろ。参謀本部の決定事項だ。――なお、お前がまとめている火力戦のレポートは、内部資料として遺憾なく活用させてもらう。安心せよ」

 

 真崎は、絞り出すような声すら失っていた。

 

 反論したところで、彼らには何も届かない。彼らは「真実を知らない馬鹿」なのではなかった。「真実を冷酷に理解した上で、組織の保身と利権のために嘘を突き通す、極めて優秀な官僚」であったのだ。

 

 この青島戦における日本軍の死傷者は約二千名弱。旅順の数万人に比べれば、極めて少ない「あっさりとした勝利」であった。だが、この「あっさり勝ててしまった」という事実と、上層部の冷徹な予算的打算こそが、大日本帝国陸軍にとって最悪の毒となる。彼らは、敵の機関銃陣地に生身で突っ込むという消耗戦の真の恐ろしさを学ぶ絶好の機会を、自らの組織防衛のために完全に握り潰してしまったのである。

 

 真崎は、マメだらけの自らの両手を見つめた。ビスマルクの巨砲を沈黙させたこの泥にまみれた手は、結局のところ、自国の兵士たちをさらなる地獄へと導くための棺桶の蓋を開いただけなのではないか。

 

 遠くで、生き残った歩兵たちが、無邪気に「万歳」と叫び続けている。その凱歌は、真崎の耳には、未来に死に行く数百万の若者たちの悲鳴にしか聞こえなかった。

 澄み渡る青島の秋空の下、真崎勇気は、かつてないほどの深い絶望と、身を切るような孤独感の中にただ一人、立ち尽くしていた。




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