海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:yoshiume

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第四十七話 同盟という名の鎖

 青島(チンタオ)の廃墟を見下ろす旧ドイツ総督府の一室に、ダージリンの香りが漂っていた。

 

 足が沈み込むほど分厚いペルシャ絨毯。豪奢なマホガニーの円卓の上には、純白の陶磁器が鈍い光を放っている。

 

「……素晴らしい香りだ。やはり茶葉というものは、極東のこの空気の中で淹れると、ロンドンとはまた違った複雑な野味を引き出してくれる」

 

 大英帝国海軍省特別顧問、ヴァンス男爵は、淹れたてのダージリンの香りをゆっくりと嗅ぎながら、微かに口角を上げた。上質なツイードの三つ揃いスーツには、泥一滴、塵一つ付着していない。

 

 円卓を挟んで対面する帝国海軍・秋月慧少佐は、無言のままその英国貴族の振る舞いを観察していた。

 秋月は、青島接収業務における日本側の実務代表としてこの席に臨んでいる。彼の白い第二種軍装もまた清潔に保たれてはいたが、数時間前まで友軍の歩兵たちが汚泥の中で命をすり減らしていた地獄の記憶が、いまだ脳裏にこびりついている。

 

 この上質な絨毯の上で優雅に紅茶を啜る男の背後で、どれほどの命が「大英帝国の国益」という名のチェス盤の上で消費されたか。秋月はその冷徹な計算を理解しているからこそ、目の前の男爵に言い知れぬ恐ろしさを感じていた。

 

「秋月少佐。まずは大日本帝国陸海軍の、目覚ましい武勲に心からの敬意を表したい」

 

 ティーカップをソーサーに置くと、ヴァンスは極めて紳士的な手ぶりで言った。

 

「貴国は、同盟の情誼(じょうぎ)を見事に果たされた。ジョージ五世陛下に代わり、深く感謝を申し上げる」

「恐悦至極に存じます、閣下。……ですが、同盟国としての義務を全うしたまでのこと。過分な称賛は無用に願います」

 

 秋月は感情を排した声で応じた。外交における「褒め殺し」は、決まって致命的な刺突の予備動作であることを、彼は熟知している。

 

「ほう。義務、ですか」

 

 その瞬間、ヴァンスの灰色の瞳から、柔らかな光がすっと消え失せた。室内の温度が、数度下がったような錯覚に秋月は陥った。

 

「ならば伺おう、少佐。我々日英連合軍の作戦目標は、あくまでこの『青島の要塞』であったはずだ。だが、私の耳に入った情報によれば、貴国の陸軍は現在、青島から遠く離れた内陸部――済南(さいなん)へ向けて、猛烈な勢いで進軍準備を進めているそうではないか。……これは一体、いかなる『義務』に基づく行動なのかな?」

 

 来たか、と秋月は腹の底で舌打ちをした。

 青島と済南を結ぶ「山東(シャントン)鉄道」。ここを押さえることは、華北地方の経済と物流の喉首を完全に握りしめ、将来的に中華民国への軍事進出を図るための最大の足がかりとなることを意味していた。

 

「誤解なきよう、ヴァンス卿」

 

 秋月は冷静に切り返した。

 

「我が軍が山東鉄道を接収するのは、それがドイツ軍の『軍事施設』および『軍用鉄道』として使用されていたためです。敵の軍事資産を接収し、後顧の憂いを絶つことは、交戦国として当然の正当な権利行使であります」

「なるほど。軍事施設の接収、と」

 

 ヴァンスは短く笑い、ふたたび紅茶のカップを持ち上げた。

 

「しかし秋月少佐。貴国はかつて日清戦争の折、その血みどろの勝利で得た遼東(リャオトン)半島を、ドイツをはじめとする三国からの干渉によって、不当に奪われたという悲しい歴史をお持ちだ。……まさか、その悲劇の被害者である大日本帝国が、今度は自らが中立国である中華民国の主権を侵し、鉄道利権を強引に奪おうとしている――国際社会からそう『誤解』されるような真似は、決してなさらないと信じていますがね?」

 

 秋月のこめかみが、ピクリと引きつった。

 

 余談だが、この息の詰まるような外交戦の背景を一言で説明しておかねばならない。日英同盟協約の前文には「東亜の平和確保」と「清国の主権保全」が並記されていた。当時の加藤高明(かとうたかあき)外相はこの文言を拡大解釈してイギリスの再三の制止を押し切り、この全面参戦を強行した経緯がある。厄介な物理的作業が終わった今、大英帝国はあの時の「ツケ」の取り立てを開始したのだ。

 

「……ヴァンス卿の御懸念は杞憂(きゆう)です。我が帝国は、東洋の平和と安定のためにのみ行動しております」

 

 秋月は絞り出すように答えた。

 

「それは重畳(ちょうじょう)

 

 ヴァンスはカップを置き、両手を円卓の上で組んだ。その姿勢は、もはや優雅な貴族のものではなく、獲物の喉首に牙を突き立てる猛禽のそれであった。

 

「貴国が山東鉄道という鉄脈を『切望』しておられることは理解できる。しかし秋月少佐。貴国が錦の御旗にしている同盟協約の、まさに『東亜の平和』のすぐ次の行に、こうはっきりと明記されているはずだ。――『清帝国の独立、および機会均等の保全』と」

 

 秋月は息を呑んだ。

 

 「数百キロ離れた内陸の鉄道を、大日本帝国が『単独占領』することは、明らかな越権行為であり、同盟の精神である『機会均等』からの著しい逸脱である。……大英帝国は、これを容認しない」

 

 ヴァンスの言葉は、静かであったが、大砲の轟音よりも重く秋月の全身を叩き据えた。

 

「むろん、同盟国としての貴国の立場を無にするつもりはない。もし、あの山東鉄道を『日英の共同管理』とし、我が国の監視要員を列車に同乗させるのであれば、先の国際社会からの誤解も、ただの杞憂に終わるというものだが。……いかがかな、少佐?」

 

 秋月は、反論の言葉を見つけることができなかった。

 大声で怒鳴ることも、机を叩くこともしない。ただ、上質なスーツを着て、香り高い紅茶を飲みながら、相手が自ら陥った論理の矛盾を冷酷に詰めていく。

 真崎たちが経験した泥と硝煙の戦場が「前近代の肉弾戦」であるならば、このペルシャ絨毯の上で行われている言葉の殺し合いこそが、世界の覇権を握る者だけが許される「究極の近代戦」であった。

 

「……本国の、政府の訓令を仰ぎます」

 

 長い沈黙の後、秋月は感情の波を完全に殺した声で、そう答えるのが精一杯であった。

 

「ええ。吉報をお待ちしていますよ、秋月少佐。なにしろ我々は、固い絆で結ばれた『同盟国』なのですから」

 

 ヴァンス男爵は満足げに微笑むと、再び紅茶のカップを口へ運んだ。

 窓の外では、青島の街に冷たい冬の風が吹き始めていた。

 

「……少々、仕事に熱中し過ぎましたかな。すっかり紅茶が冷え切ってしまった」

 

 沈黙が降りた総督府の一室で、ヴァンス男爵はカップをソーサーに戻すと、ふと柔和な笑みを浮かべた。

 

 「冷え切った紅茶とスコーンだけでは、腹は満たされない。秋月少佐、よろしければ夕食をご一緒願えないかな。大英帝国海軍が誇る、ささやかな祝宴の用意をさせてあるのです」

 

 それは、同盟国という名の圧倒的な強者からの、有無を言わさぬ誘いであった。強国が引いた盤上で、中座して逃げることなど許されない。秋月は、胸の奥で重く冷たい鎖の感触を味わいながら、ただ無言でその底知れぬ誘いを受けるほかなかった。




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