海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:yoshiume

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第四十八話 端肉

 会議を終えた秋月が総督府の石段を降りると、冷たい風が軍装の襟に入り込んできた。

 空は鉛色。港の方から波の音が聞こえる。

 足が、自然と止まった。

 

 総督府前の大通りを、英国兵の一個小隊が整然と行進していた。銃剣が夕暮れの薄明かりを弾き、石畳に軍靴の音が規則正しく響く。その行き先は、疑いようもない。青島駅の方角だ。

 

 (……すでに動いていた)

 

 ヴァンスが「共同管理」を提案したのは、つい一時間前のことだ。だが、この部隊が今から準備を始めて間に合う距離ではない。あの男が「いかがかな、少佐」と言った瞬間、答えは最初から決まっていた。交渉ではなく、通告だったのだ。

 

「ケイ」

 

 不意に、声がした。

 振り返ると、総督府の石壁に背を預けるようにして、真崎勇気が立っていた。軍服は泥と煤で汚れたままだ。手に厚い書類の束を持っている。

 秋月は、その書類束に一瞬だけ目を落とし、真崎の顔を見た。

 

「……お前も、か」

 

 真崎が低く言った。問いかけではなかった。

 秋月は何も言わなかった。答える必要もない。二人の間を、冷たい海風が抜けた。英国兵の行進の音が、遠ざかっていく。

 真崎が書類束をわずかに持ち上げてみせた。それだけだった。

 秋月は視線を戻し、石段を振り返った。総督府の重い扉が、夕闇の中に口を開けている。

 

 「行くか」

 

 真崎が静かに言った。

 

 「……ああ」

 

 秋月は短く答え、石段を上がった。背後で真崎の軍靴が石畳を踏む音がひとつ聞こえ、やがて止んだ。

 重い扉が、閉まった。

 

 

   *

 

 

 その夜。

 

 日没とともに、青島の街は急速にその熱を失い、海から吹き付ける湿った冷気が、砲撃で崩れた煉瓦の隙間を抜けていった。街の灯りは死に絶え、瓦礫の山が闇の中に不気味な輪郭を晒している。だが、接収された旧ドイツ総督府の二階、賓客用の大食堂だけは、別世界のような豪奢な灯火に縁取られていた。

 

 秋月慧は、再び純白の軍装を整え、重いマホガニーの扉を押し開けた。

 室内の天井は高く、シャンデリアの水晶が揺れる蝋燭の炎を拾って鈍く煌めいている。テーブルには銀の燭台と、雪のように白いリネンのナプキン。秋月が席に着くと同時に、ヴァンス男爵が影の中から静かに現れた。

 

 ヴァンスは、昼の舌戦の際に見せた鋭利な眼光を、今は洗練された社交の笑みの下に隠していた。

 

「秋月少佐。大英帝国海軍が誇る、ささやかな祝宴へようこそ。今夜は、技巧を凝らした余計な小細工は抜きにしようと考えていましてね」

 

 有無を言わさぬ空気の中、ヴァンスが軽く指を鳴らした。扉の向こうから、車輪のついた巨大なワゴンが、銀の食器をカチャカチャと鳴らしながら押し出されてくる。ワゴンの中央には、鈍い光を放つ巨大な銀のドーム型カバーが鎮座していた。

 

 「開けたまえ」

 

 ヴァンスの合図で、給仕長が恭しく銀のドームを持ち上げた。

 その瞬間であった。

 

 香ばしく焦げた牛脂の匂いと、濃厚な肉の焼ける暴力的なまでの香りが、密閉された室内の空気を一気に支配した。銀の盆の上に横たわっていたのは、五キロは優に超えるであろう、巨大なローストビーフの塊であった。表面は黒胡椒と岩塩、そして高温のオーブンによって見事なまでに黒褐色に焼き固められ、カリカリとした外皮の隙間からは、熱で溶け出した黄金色の脂がチリチリと音を立てて滴り落ちている。

 

 秋月は、鼻腔を直接殴りつけるような肉の匂いに、わずかに目を細めた。つい数時間前、最前線の兵士たちは泥水の中で乾パンを噛みしめていた。その死臭と、この密室の「洗練された暴力」との落差が、軽い目眩を呼んだ。

 

「フォンドヴォーだのトリュフだの……複雑なソースで素材を誤魔化すのは、力を信じ切れない三流の作法に過ぎない。我々アングロ・サクソンは、力そのものを喰らう。これが、我々のやり方だ」

 

 それは、世界の海を支配する大英帝国そのものの、傲慢で絶対的なロジックであった。

 

 サクッ、と。

 

 ヴァンスの右手が動き、カービングナイフの鋭利な刃が、巨大な肉の塊の外皮に滑り込んだ。心地よい摩擦音とともに、分厚い肉の層が滑らかに切り裂かれていく。刃が入ったその断面から、まるで堰を切ったように、ルビーのように透き通った真紅の肉汁がドクドクと溢れ出し、銀盆の底を満たしていった。

 

 「……」

 

 秋月は、無言でその光景を見つめていた。

 ナイフが肉を裂く音と、滴る血のようなソース。

 

 秋月の目には、ヴァンスの手にするカービングナイフが、世界地図に国境線を引く「大国のメス」に見えていた。そして、切り分けられている巨大で美味なる肉の塊こそが、大日本帝国が莫大な血と予算を注ぎ込んでドイツから奪い取った「山東鉄道」であり、中国大陸の「広大な利権」そのものであった。

 

 ヴァンスは、ナイフを優雅に操りながら、肉の最も分厚く、火の通り加減が絶妙なレアの「中心部」を切り出した。真紅の肉汁をたっぷりと湛えたその最高の一切れは、当然のように、ヴァンス自身の純白の皿へと移された。一番美味い果実は、一切の血を流さず、安全な密室でナイフを握っているだけの者の口へと入るのだ。

 

「さて。大日本帝国への『報酬』を切り出さねばなるまい」

 

 ヴァンスは独り言のように呟くと、再びナイフを肉の塊へ向けた。

 彼が刃を当てたのは、肉の旨味が詰まった中心部ではない。塊の最も端――オーブンの熱を過剰に浴び、水分と肉汁を完全に失い、パサパサに黒く焦げた「端肉(エンドカット)」の部分であった。ヴァンスは、その端肉を、まるで紙のように薄く、薄く削ぎ落とした。

 

「勘違いしないでほしい。ここが一番旨いのだよ」

 

 給仕長が恭しく秋月の前に進み出て、その皿を置く。広い純白の陶磁器の皿の中央に、火が通り過ぎて褐色に変色した、向こうが透けて見えそうなほど薄っぺらい肉片が、ただ一枚だけ乗せられていた。ソースも、溢れ出す肉汁も、そこにはない。

 

「さあ、召し上がれ、秋月少佐」

 

 自身の皿に乗った分厚く官能的なレア肉を切り分けながら、ヴァンスは紳士的な、しかし獲物をいたぶる猛禽のような笑みを浮かべた。

 

「我が国は、決して同盟国への礼を失することはない。ドイツの軍事拠点であった青島要塞の占領。そのごく一部の権益は、確かに貴国が味わう権利がある。……これが、同盟に基づく大日本帝国への『正当な報酬』だ」

 

 秋月は、目の前の薄暗い肉片をじっと見下ろした。

 真崎たちが泥水をすすり、何千もの若き兵士たちが機関銃の掃射を浴びて四肢を吹き飛ばされ、山東半島の土を血で染め上げた結果が、これだというのか。

 強国が引いたルールの上で戦う限り、流した血の量は決して等価交換の対象にはならない。ナイフを握っている者が、全てを決める。それが、帝国主義という名のテーブルマナーであった。

 

「……ありがたく、頂戴いたします」

 

 秋月は、決して感情を顔に出すことなく、静かにナイフとフォークを手に取った。紙のように薄い端肉を切り、口へと運ぶ。

 火が通り過ぎて硬くなった肉の繊維が、口の中でボソボソと崩れた。肉の甘みも旨味もない。ただ、焦げた牛脂の苦味だけが舌に広がっていく。

 だが、秋月がその肉を噛み締めた奥底で感じたのは、焦げの味ではなく、紛れもない「鉄」の味であった。

 それは、大日本帝国をがんじがらめに縛り上げる「同盟」という名の、冷たく重い鎖の味に他ならなかった。




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