海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
「左舷前方、汽笛ッ!」
見張りの声が、
帝国海軍少佐・
大正三年(一九一四年)六月、豊後水道。四国と九州に挟まれた海の真ん中で、薄い白い靄が、巡洋戦艦『金剛』の艦影を半ば飲み込みながら漂っている。
靄の奥から、ずんぐりした船が一隻、姿を現した。
「なんです、あれは」隣の若い砲術士官が、目を細めた。「貨物船ですか」
「
「水上機……ああ、例の凧ですか」
士官が笑うのも無理はない。
若宮丸の前甲板では、白い水兵服の兵たちが、蒸気起重機の腕の先に、木と布でできた複葉機を吊り下げているところだった。フランス製のモーリス・ファルマン式。木枠に羽布を張り、ピアノ線で締め上げただけの機体が、重いフロートを引きずって、頼りなく揺れている。
「最高で時速九十キロそこそこだそうだ」秋月は言った。
「こっちは三十六
秋月は答えずに、足の下の甲板を踏んでみた。
昨年八月、英国ヴィッカース社のバローインファーネス造船所で竣工し、十一月に横須賀へ着いたばかりの艦である。全長二百十四メートル、前から後ろまで縦に並ぶ四基の三十六糎連装砲塔は、まだ一発も実戦で撃ったことがない。
(鋼鉄の三万トンと、木と布の数百キロ。海軍は、両方を抱えて、いったいどちらに賭けるつもりか)
*
背後で、靴の踵が鳴った。
「秋月少佐。こうして同じ艦に立つのは、九ヶ月ぶりだな」
「お久しゅうございます」
「帝都は、まだ騒いでおるか」
「山本内閣が倒れて三ヶ月になりますが、新聞はまだ海軍の悪口で商売をしております」
「だろうな」
シーメンス・ヴィッカース事件。艦政本部長らはすでに収監され、海軍は、国民の不信という冷たい雨に打たれ続けている。そんな最中に、この極秘の教練射撃は強行されていた。
加藤は手すりに肘をつき、艦首の三十六糎砲を顎で指した。
「あの八門は、イギリスから八十一日かけて運ばれてきた。その旅費の中に、契約料二千三百万円の五パーセント――邦貨百二十万円の賄賂が入っている」
「……はい」
「あの五パーセントが、いま、貴官の目の前で、咆哮する直前だ」
汚れた金で買った砲でも、撃てば国のためになる。加藤は、そう言っているのだった。
秋月は、黙って頷いた。
(だが、それは……果たして肯定できる類のものか)
軍人としての加藤の精神構造はわかる。砲を艦に載せるために、五パーセントの汚れたカネは見て見ぬふりをする。砲が載った瞬間、すべての闇は「国家のため」という大義に溶ける。
だが、その溶けた闇は、ほんとうに消えたのか。
山本権兵衛は失脚し、関係した海軍高官は獄に繋がれた。海軍は国民から唾を吐かれ、
闇は、消えない。凝固して、別の場所で誰かの首を絞めるのだ。
*
「目標、曳航標的ッ!」
「測距よォし! 距離、一万二千二百ッ!」
「一万二千二百ェン!」
「風、右から四メートル!」
「
号令と復唱が、艦橋から砲塔へ走っていく。
水平線の彼方、駆逐艦が曳いてきた巨大な木の標的浮標が、黒い点になって浮いていた。一辺四十メートル、日露の頃の老朽艦の煙突と艦橋を模した、ただの木組みである。
「主砲、装填よしッ!」
足の下で、六百キロを超える徹甲弾と数百キロの装薬が、砲塔の腹に収まっていく。砲身が、わずかに仰角を取り直した。
加藤が、砲術指揮所の若い士官たちを振り返った。
「諸君。イギリス本国艦隊ですら、三十六糎を撃てる艦はまだ持たぬ。地球上で最初の三十六糎を撃つのは、我々だ」
低い声だったが、若い背中が一斉に伸びた。
(……アメリカのテキサスが、この春に同じ口径を積んで就役しておりますが)
秋月は、それを口に出すほど野暮ではなかった。
「撃ちィ方始めェ!」
「撃てェッ!」
――ズゴォォォォ――ン!!
大気が、質量を持って鼓膜を殴りつけた。
甲板が震え、三万トンの艦体が反動でわずかに左へ傾く。秋月のズボンの裾が、見えない手で後ろへ引っ張られた。砲口から噴き出した褐色の硝煙が、艦首の前でキノコの形に膨れ上がり、靄の中へ吸い込まれていく。
「弾着まで、十八秒!」
若い士官が懐中時計を握りしめ、声に出して数えはじめた。
「……十五、十六、十七――」
水平線の黒い点が、真っ赤な火の玉に包まれた。
「弾着ッ! 直撃ですッ!」
遅れて、ドォォォン、という重い音が、海面を渡って届いてくる。
「標的浮標――吹き飛びましたッ!」
艦橋が、歓声で割れた。
第二射、第三射。巨弾は標的の周りに白い水柱を立て、ついには浮標そのものを木っ端微塵にした。海面に残ったのは、もう何だったか分からない木切れの山だけである。
「これだ」加藤が、深く息を吐いた。「これが、大艦巨砲の真理だ。秋月少佐、どう見る」
「美しい光景であります、閣下」
秋月の声は、芯から冷えていた。
百二十万円が、三発の砲弾で帳消しにされる。派手な見世物で、海軍は国民に罪滅ぼしを演じてみせている。
*
ブブブブブッ――。
硝煙の向こうの空から、規則正しい音が降ってきた。
空冷の発動機の、油臭くて軽い音である。
「上空、飛行機ッ!」
見張りが叫んだが、振り向いたのは秋月だけだった。艦橋の若い士官たちは、まだ三十六糎の余韻に酔っている。
若宮丸を飛び立ったファルマン機が、高度三百メートルほどを、おっかなびっくり旋回していた。風に煽られるたびに、翼が大きくしなる。吹きさらしの操縦席から、搭乗員が身を乗り出して、海面を覗き込んでいるのが見えた。
その機体から、何か小さなものが落ちてきた。
金剛の舷側の海面に、ぽちゃりと白い筒が浮かぶ。
「通信筒です!」
水兵が竿で拾い上げ、駆け足で艦橋まで持ってきた。秋月が筒を開けると、鉛筆の走り書きが一枚、丸めて入っていた。
――第三弾、命中。浮標、四散。
「見れば分かる」加藤が、鼻を鳴らした。
「ええ」秋月は、紙を畳んだ。「いまは、見れば分かります」
加藤が、眉を上げた。
「いまは、とは」
「霧が濃ければ、夜なら、標的が水平線の向こうなら――艦橋からは見えません。あれは、その向こうが見えます」
「布の凧がか」
「ええ」
秋月は、もう一度空を見上げた。
九ヶ月前、金剛が生まれた英国の造船所――バローで漏らした独白が、口の中によみがえる。
(鉄の城は、海を支配する。だが、空はまだ、誰のものでもない)
「貴官は、こちらでも、あちらでも、両方の馬に乗ろうとしている」加藤の声には皮肉が混じっていたが、突き放す響きではなかった。「軍人としては、危うい立ち位置だぞ」
「ですが閣下。両方を見ておく者が一人くらい、海軍にいてもよろしいかと存じます」
加藤は、しばらく秋月の顔を見ていた。
「……まあ、よい」
そう言って、第四射の号令を聞くために、艦橋の中央へ戻っていった。
*
昼前、演習終了の汽笛が、三回、長く響いた。
ボォォォォ――ン。
標的のあった海面には、油膜と燃え残りの木切れだけが、虹色に揺れている。
先週、人事局から秋月に内示が届いていた。
上海駐在武官。辞令は、もうすぐ出る。
そういえば、同郷の幼馴染の真崎勇気が、三宅坂で上の連中に噛みついているという噂を聞いた。あの男とは、もう何年も会っていない。
「少佐、上海へ行かれるそうですね」
さっきの若い砲術士官が、双眼鏡を首から外しながら寄ってきた。耳の早い男である。
「まだ内示だ」
「いいなあ。向こうは飯がうまいと聞きます。蟹だの、フカヒレだの」
「飯を食いに行くわけではない」
「そりゃそうですが……どういう任務なんです?」
秋月は、少し考えた。
「……海の向こうが、どう見えるかを見に行く」
士官は腑に落ちない顔をしたが、それでも蟹の話をもう一度だけしてから、持ち場へ戻っていった。
秋月は懐からスキットルを出して、コーヒーを一口飲んだ。
三十六糎の硝煙の匂いと、コーヒーの苦みが、海風の中で混ざり合う。九ヶ月前、バローの霧の中で飲んだのと、同じ味がした。
(……この国は、いまだ、何ひとつ学んでいないのかもしれぬ)
巨砲の咆哮に酔い、空を見上げず、都合の悪いことは忘れたふりをする。
秋月は、冷め切って香りの飛んだコーヒーを、豊後水道の海面に静かに落とした。
少しだけ種明かしを。
本話に登場した水上機母艦「若宮丸」は実在の艦です。もとは日露戦争で拿捕した英国製の貨物船で、大正二年(1913年)の演習で初めて水上機を積み、翌大正三年の青島攻略戦では、世界でも最初期の、艦から発進した飛行機による偵察と爆撃を行いました。
羽布を張っただけの「空飛ぶ凧を乗せた船」が、やがて「翔鶴」「瑞鶴」へと進化する。その出発点がこの頼りない機体です。
秋月がコーヒーを海面に落とした豊後水道の朝に、実はその萌芽が浮かんでいました。
次話もお付き合いください。
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