海霧の中の奇兵隊―死んだはずの高杉晋作と、乃木大将が遺した隠し遺書―   作:yoshiume

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第五話 鋼鉄のお披露目

 大正三年(一九一四年)六月。

 豊後(ぶんご)水道。

 四国と九州を隔てる狭い海峡の、その真ん中。伊予灘の沖合いの早朝、薄い白い朝靄(あさもや)が、鋼鉄の艦影を半ば飲み込みながら漂っていた。

 

 その朝靄を悠然と切り裂いて進む、一隻の巨大な影があった。

 巡洋戦艦『金剛』。

 昨年八月に英国ヴィッカース社のバローインファーネス造船所で竣工し、十一月に横須賀へ到着して以来、半年に及ぶ慣熟訓練を経た、いまだ砲口の一発も実戦で吐いたことのない処女艦である。

 全長二百十四メートル、満載排水量三万二千トン。前甲板から艦尾まで縦に並ぶ四基の三十六センチ連装砲塔は、朝の柔らかな陽光の中で、艶やかな鋼鉄の体躯を黒々と見せていた。

 

 帝国海軍少佐・秋月慧(あきづきけい)は、軍艦橋の片隅で双眼鏡を手に持ったまま、一人静かに水平線を凝視していた。

 

 帝都ではまだ、シーメンス・ヴィッカース事件の余熱が冷めやらぬ。三月二十四日、山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣が総辞職に追い込まれてから、ようやく三月。海軍省・艦政本部長の松本和(まつもとかず)中将も藤井光五郎(ふじいてるごろう)大佐も、すでに収監され、海軍は国民の不信という鉛色の冷気に晒され続けていた。

 その逆風の真っただ中で、第一艦隊司令長官・加藤友三郎(かとうともざぶろう)大将は、断固たる意志のもとに最新鋭艦『金剛』の極秘教練射撃を強行した。

 

 ベルリンとサラエヴォの空気は、すでに焦げ臭い。欧州大戦の足音は、海を隔てた極東の島国の艦橋にも、確かに届いていたのである。

 

 ボォォォォ――ン。

 

 遠く水平線の彼方から、別の汽笛が朝靄を切り裂いた。

 秋月は双眼鏡を持ち上げた。

 

 水上機母艦『若宮丸』であった。元はイギリスの貨物船「レシントン」を購入・改装した運送船で、後甲板に簡易の格納庫と、海面へ機体を下ろすためのデリック(蒸気起重機)を備えている。横須賀の追浜(おっぱま)から、この日のためにわざわざ豊後水道まで回航されてきたのだ。

 その若宮丸の前甲板で、白い水兵服の兵士たちが、巨大なデリックの腕の先に脆弱な機体――フランス製のモーリス・ファルマン式複葉水上機――をゆっくりと吊り下げていく。

 木枠の骨組みに羽布を張り、ピアノ線で補強しただけの、空飛ぶ(たこ)のごとき構造物。最高時速はせいぜい九十キロ台。海面から飛び立つための重いフロートを引きずったその姿は、頼りないことこの上ない。

 

 秋月の唇の端に、薄い笑みが浮かんだ。

 

(鋼鉄の三万トンと、木と布の数百キロ。海軍は、両方を抱えて、いったいどちらに賭けるつもりか)

 

   *

 

 艦橋に、足音もなく一人の中佐が現れた。

 いや、もはや大佐である。

 駐英武官の任を解かれ、四月に帰朝したばかりの加藤寛治(かとうひろはる)大佐であった。日焼けの薄まった額。執念深い砲術家の眼光。

 九ヶ月前、英国のヴィッカース社・バローインファーネス造船所。

 金剛の引渡し式典の華やかさの裏で、欧州随一の死の商人バジル・ザハロフが、日本側代理人――三井物産の山本条太郎(やまもとじょうたろう)へ分厚い封筒を握らせた。秋月と並んで桟橋上からその一部始終を見下ろした男である。

 

「秋月少佐。こうして同じ艦に立つのは、九ヶ月ぶりだな」

 

 加藤の声は、相変わらず抑揚を欠いていた。

 

「お久しゅうございます」

 

 秋月は短く敬礼を返した。

 加藤は艦橋の手すりに肘をつき、艦首楼の彼方、朝靄の奥に溶けている僚艦の方角へと、視線を投げた。

 

「いま、貴官の足元にある三十六センチ砲八門――あれは、英国から八十一日かけて運ばれてきた」

「は」

「そして、その八十一日の旅費の中に、契約料二千三百万円の五パーセント――ザハロフと三井物産が握り合った、邦貨百二十万円の闇金が含まれている」

 

 加藤は淡々と続けた。

 

「あの五パーセントは、いま、貴官の眼前で、咆哮する直前だ」

 

 秋月は無言で頷いた。

 バローインファーネス……あの片田舎の造船所での汚れた握手は、無駄ではなかった――そう、いま加藤は告げているのだ。

 しかし、秋月の表情は、加藤のそれとは全く異なる温度を保っていた。

 

(だが、それは……果たして肯定できる類のものか)

 

 軍人としての加藤の精神構造はわかる。砲を艦に載せるために、五パーセントの汚れたカネは見て見ぬふりをする。砲が載った瞬間、すべての闇は「国家のため」という大義に溶ける。

 だが、その溶けた闇は、ほんとうに消えたのか。

 山本権兵衛は失脚し、松本和海軍中将は獄に繋がれた。海軍は国民から唾を吐かれ、大隈重信(おおくましげのぶ)新内閣の財政運営にも重い影を落としている。

 闇は、消えない。凝固して、別の場所で誰かの首を絞めるのだ。

 いま秋月自身が、艦橋から、その続きを見届けようとしていた。

 

   *

 

 午前八時三十分。

 水平線の彼方、約一万二千メートル先に、黒く小さな影が浮かんでいた。

 駆逐艦に曳航された、巨大な木製の標的浮標(ふひょう)である。一辺二十間、高さ十間。日露戦争時の老朽艦の煙突や艦橋を模した、ただの巨大な木枠の構造物。

 だが、この朝の試射の意味するところは大きい。世界最大の十四インチ砲が、初めてその真の射程と精度を、外洋において証明しようとしているのである。

 

「主砲、装填完了」

 

 艦内放送が艦橋に流れる。

 艦内の弾薬庫から運び上げられた重量六百キログラム超の三十六センチ徹甲弾と、それを推進する数百キロの装薬の袋が、巨大な砲塔の腹の中で、いま正しく所定の位置についた。砲身が、わずかに仰角を取り直す。

 

 加藤寛治大佐は、艦橋の砲術指揮所へと足を運んだ。

 

「諸君、英国本国艦隊ですら、十四インチを撃てる艦をまだ持たぬ。地球上で最初の三十六センチを撃つのは、我々だ」

 

 加藤の声は、低かったが、艦橋の若手砲術士官たちの背筋を一斉に伸ばさせた。

 

「撃てェッ!」

 

 その瞬間――。

 

 ズゴォォォォ――ン!!

 

 大気が、物理的な質量を持って鼓膜を圧し潰した。

 甲板の鋼鉄が震え、艦体そのものが大砲の反動でわずかに左舷へ傾く。煙突から立ち昇る煙が、衝撃波で一瞬乱れる。秋月の軍服のズボンの裾が、見えない圧で押し戻された。

 砲口から噴出した褐色がかった硝煙が、艦首の前で巨大なキノコ雲となって膨れ上がり、やがて朝靄の中へと吸い込まれていく。

 

 数十秒の沈黙の後――。

 

 水平線の彼方の小さな黒い影が、突如として真っ赤な火球に包まれた。直撃である。

 遅れて、ドォォォン、という重い破砕音が、海面を伝って艦橋まで届いてきた。

 

 艦橋に集まった若手士官たちから、抑えきれぬ歓声が上がった。

 

「直撃ですッ!」

「標的浮標――吹き飛びましたッ!」

 

 双眼鏡を覗き込んだ若手砲術士官の頬は、興奮で紅潮していた。

 第二射、第三射。三十六センチの巨弾は、次々と曳航標的の周囲に巨大な水柱を立て、ついには浮標そのものを木っ端微塵に粉砕した。海面に漂うのは、もはや判別もできぬ木片の山だけであった。

 

 加藤大佐は、深い満足の溜息をついた。

 

「これだ。これが、大艦巨砲の真理だ。秋月少佐、貴官はこれを見て、いかに思う」

 

 秋月は双眼鏡を下ろし、加藤に答えた。

 

「美しい光景であります、閣下」

 

 その声は、しかし、芯から冷たかった。

 

(百二十万円が、たった三発の砲弾で正当化される。標的浮標を粉砕する派手な見世物で、海軍は国民の前で『罪滅ぼし』を演じている。……だが、この火球を眺める国民が、本当に納得すると思っているのか)

 

 秋月は、加藤に背を向けるように、艦橋の反対側へと歩いた。

 

 その時である。

 

 ブブブブブッ――。

 

 空気を引き裂く、規則的な脈動音。

 空冷ロータリーエンジン特有の、油臭くも軽快なリズム。

 

 秋月は、煙突から立ち昇る煙の向こう、朝の青い空を見上げた。

 若宮丸を発進したモーリス・ファルマン機が、おっかなびっくり、高度三百メートルの空を旋回しているのが見えた。木と布の脆弱な機体。風に煽られるたびに翼が大きくしなる。

 搭乗員は、吹き晒しの操縦席で身を乗り出すようにして、眼下の標的の残骸――もはや木片の散らばる海面――をスケッチしているらしい。砲撃の着弾観測である。

 

 艦橋の若手士官たちは、相変わらず三十六センチの咆哮の余韻に酔っており、上空の小さな機影を見上げる者はほとんどいなかった。

 

 秋月は双眼鏡を上空に向けた。

 ファルマン機の操縦席の中の搭乗員の顔まで、鮮明にレンズの中に引き寄せられた。

 

(……いまは、ただの観測の目だ。砲弾の着弾点を測るための、便利な道具に過ぎぬ)

 

 秋月は双眼鏡をゆっくりと下ろした。

 ただ、その小さな機影を見上げていると、足元の三万トンの鉄の城が、奇妙に大きく、奇妙に重く、奇妙に脆く感じられた。

 九ヶ月前、英国の海霧の中で漏らした独白が、なぜか口の中で蘇った。

 

(鉄の城は、海を支配する。だが、空はまだ、誰のものでもない)

 

「秋月少佐」

 

 背後から、加藤大佐の声が掛かった。

 

「貴官は、なぜそのように上空ばかり見ている。三十六センチの咆哮こそが、海軍の未来であろうが」

 

 秋月は上空のファルマン機を見上げたまま、低く答えた。

 

「閣下。閣下が仰る『未来』は、確かに艦橋の足元にあります。……ただ、私には、もう一つの『未来』が、あの空の上で羽ばたいているように見えるのです」

 

 加藤は、わずかに眉を上げた。

 

「布の凧か」

「ええ」

「貴官は、こちらでも、あちらでも、両方の馬に乗ろうとしている」

 

 加藤の声には、皮肉の影と、しかし完全な拒絶ではない響きがあった。

 

「軍人としては、危うい立ち位置だぞ」

「は」

 

 秋月は、はじめて加藤を振り返った。

 

「ですが閣下。両方を見ておく者が一人くらい、海軍にいてもよろしいかと存じます」

 

 加藤は、しばらく秋月の顔を見つめていたが、やがて短く息を吐いた。

 

「……まあ、よい」

 

 そして、艦首の方角へと視線を戻し、三十六センチの第四射の咆哮を聞くために、艦橋の中央へと歩いていった。

 

   *

 

 昼前。

 標的浮標は、すでに木片すら残らぬほどに海面から消えていた。

 豊後水道の青い海面に、巨大な油膜と、燃え残った木材の破片だけが、虹色に揺らめいて漂っていた。

 

 演習終了の汽笛が、三回、長く響き渡る。

 

 ボォォォォ――ン。

 

 先週、秋月へ人事局から内示が届いていた。

 上海駐在武官。辞令はもうすぐ出る。

 

 艦橋に立つ秋月は、その音を聞きながら、懐からスキットルを取り出してコーヒーを飲んだ。

 三十六センチの硝煙の匂いと、コーヒーの苦みが、豊後水道の朝の海風の中で混ざり合う。

 九ヶ月前、バローインファーネスの霧の中で飲んだコーヒーと、同じ味がした。

 

(……この国は、いまだ、何ひとつ学んでいないのかもしれぬ)

 

 巨砲の咆哮に酔い、空の脅威を見上げず、都合の悪いことは忘れたふりをする。

 

 秋月は、冷め切って香りの飛んだコーヒーを、豊後水道の海面に静かに落とした。

 




◆あとがき◆
最後までお読みいただきありがとうございます。
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少しだけ種明かしを。

本話に登場した水上機母艦「若宮丸」は実在の艦です。大正元年(1912年)、英国製貨物船を改装して誕生したこの艦は、翌年の青島攻略戦において世界初の艦載機による実戦的な爆撃と偵察任務を行いました。

羽布を張っただけの「空飛ぶ凧」が、やがて「翔鶴」「瑞鶴」へと進化する。その出発点がこの頼りない機体です。

秋月がコーヒーを海面に落としながら「この国はまだ何も学んでいない」と呟いた豊後水道の朝に、実はその萌芽が浮かんでいました。

次話もお付き合いください。
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