海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:yoshiume

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第四十九話 ギネスビール

 それまでヴァンス男爵の傍らに彫像のごとく直立していた英国海軍のステアリング大佐が、音もなく軍靴を鳴らして敬礼したのは、秋月が端肉を飲み込んだ直後のことだった。

 

「――卿、私はこれにて。港湾部の接収状況を確認して参ります」

「ああ、ご苦労。大英帝国の『公』なる秩序を、しっかりと青島の土に刻みつけてくれたまえ」

 

 ヴァンスが重々しく頷くと、大佐は再び鋭い敬礼を秋月にも送り、大股で食堂を去っていった。重厚なマホガニーの扉が閉まり、廊下に響く軍靴の音が遠ざかる。

 

 瞬間、部屋の空気が劇的に変質した。

 

 ヴァンス男爵はふいに肩の力を抜くと、手にしていたカービングナイフをカチャリと銀盆に投げ出した。背筋を伸ばしていた姿勢を崩し、椅子の背にもたれかかると、指先で自らのネクタイの結び目をわずかに緩めたのである。

 

 先ほどまで獲物を狙う猛禽のようであったその瞳から、冷徹な「大英帝国の代弁者」としての光が霧散し、代わりにロンドンのパブで見かける好々爺(こうこうや)のような、拍子抜けするほど穏やかな笑みが浮かんだ。

 

「――さて。退屈な『演劇』はこれくらいにしましょう。あの大佐のような生真面目な男が同席していては、どうにも食事が不味くなる。秋月少佐、実はここからが今夜の本番でしてね。私の個人的な好物に、付き合ってもらいたい」

 

 ヴァンスが朗らかに指を鳴らすと、扉の向こうから、先ほどの給仕長が苦笑いを浮かべながら再び現れた。今度の皿は、磨き抜かれた銀の器ではない。少し無骨な、どこか家庭的な温かみを感じさせる大皿である。そこには、黄金色に揚げられた白身魚の塊と、皿の隙間を埋め尽くさんばかりに盛られた、太く不揃いなポテトが鎮座していた。

 

 それと同時に、秋月の前には、漆黒の液体がなみなみと注がれた大きなパイントグラスが置かれた。鼻腔を突くのは、高級な牛脂の重厚な香りではない。ツンと鼻を刺すモルトビネガーの酸味と、どこか野卑な、油と麦の匂いである。秋月は思わず目を丸くした。

 

「閣下、これは……」

「気取ったローストビーフなど、部下への手本と外交上のデモンストレーションに過ぎません。結局のところ、我が郷土の味でこれに勝るものはありませんよ」

 

 ヴァンスは少年のように目を輝かせると、まず白身魚の揚げ物を指先で無造作に掴んだ。衣が砕ける乾いた音。黄金色のバッターの殻が割れると、中から湯気とともに雪のように白い身がほぐれた。

 

「コッド(鱈)だよ。ノース・シーの。ロンドンっ子はこれをモルトビネガーでびしょびしょにして食べる。上品ぶってレモンを絞る輩もいるが、あれは邪道だ」

 

 ヴァンスは惜しげもなくビネガーを魚の上へかけ、大きくかぶりついた。サクッ、ふわり。外の衣の歯応えと、内側のほろほろと崩れる白身が、口の中で層を成して解けていく。続いて、パイルのように積まれたチップスを一本、指でつまんで豪快に放り込んだ。カリッという軽快な音が、静かな食堂に響く。

 

「――『チップスなくして、大英帝国なし(No chips, no Empire)』。

 

 ロンドンの下層労働者(コックニー)たちはそう笑うが、あれは真理だよ。イギリス人にとって、ポテトは血であり、骨そのものなのですよ。さあ、少佐も。これは指を汚して食べるのが、唯一にして絶対の作法だ」

 

 秋月は手元のグラスに視線を落とした。そこには、鏡のような漆黒の液体が、きめ細かな乳白色の泡を冠して静まり返っている。

 

「ヴァンス卿……このビールは、随分と色が深いようですが。これが、普通なのですか?」

 

 青島(チンタオ)の街で、ドイツ人が醸造する透き通った黄金色の麦酒しか見ていなかった秋月にとって、その飲み物はまるで泥水か、あるいは万年筆のインクのようにさえ見えた。

 ヴァンスは愉快そうにグラスを持ち上げると、その「闇」を愛おしそうに眺めた。

 

「ハハハ、驚いたかね。これはギネスといってね、アイルランドで造られている黒ビール(スタウト)だよ。見た目は怖いが、じっくりとローストされた麦芽の苦味と、微かな甘みが潜んでいる。これがね、この脂っこい揚げ物に驚くほど合うんだ。さあ、大英帝国の真のソウルフードに乾杯しよう」

 

 秋月は促されるまま、重厚なグラスを口に運んだ。唇を濡らしたのは、ベルベットのように滑らかな泡。そして、舌の上で爆発したのは、これまでの麦酒の概念を覆す、深く、焦げたような苦味と芳醇なコクであった。確かに、見た目に反して淡麗で、フィッシュフライの油気を爽やかに洗い流してくれる。

 

 しかし、秋月は一口飲み込んだ後、背筋に言い知れぬ寒気を感じていた。

 

 目の前で、油のついた指を気にすることもなく、朗らかにポテトをかじっているこの英国貴族。彼にとって、先ほど秋月を絶望させた「山東鉄道の分割」も、日本の若き兵士たちが流した血の精算も、パブで友人と乾杯する前に行う「ちょっとした事務作業」に過ぎなかったのだ。

 

 儀式は部下に見せるために行い、本質は笑いながら食らう。

 この男の、そして大英帝国という巨大な化け物の「余裕」の正体は、ここにある。世界の地図を書き換え、国家の運命を切り裂くような残酷な所業を、この男はギネスビールの泡を啜るのと同程度の軽やかさで遂行して見せた。

 

 (……この男もまた、高杉の爺さんと同じだ。建前ではなく、泥にまみれた『本質』で世界を動かしているのだ)

 

 秋月は、目の前の怪物が紛れもなく自分たちと同じ「裏の人間」であるという奇妙な安堵と、底知れぬ恐怖を同時に覚えながら、再びその漆黒の液体を喉の奥へと流し込んだ。

 

 苦い。

 

 逃れがたい、イギリスの味がした。




少しだけ解説を。
ヴァンス男爵が「大英帝国の味」と誇ったギネス。アイルランド・ダブリン生まれの黒ビールです。 一七五九年、創業者のアーサー・ギネスはその地の休眠醸造所を借り受けました。その際の借地契約の期間は、なんと「九千年」。
隣の島を九千年先までしゃぶり尽くすという、支配者の途方もない時間感覚。大英帝国に支配された島の産物が、大英帝国のソウルフードとして秋月の喉を流れ落ちた――「逃れがたい、イギリスの味」の正体は、そういうことです。

※続きは明日19:40に更新予定です。
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