海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:yoshiume

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第五十話 暴走する鉄脈

「待たれよ」

 

 冷たく透き通った声が、プラットホームの喧騒を切り裂いた。

 アイロンの効いた軍服に身を包んだ、大英帝国の若い陸軍少佐である。その背後には、無表情なグルカ兵たちが数名控えており、強引に機関車の先頭へと立ち塞がった。

 

 大正三年(一九一四年)十一月中旬。青島(チンタオ)要塞の陥落から数日、帝国陸軍は鹵獲したドイツ製蒸気機関車に乗り込み、山東省の省都・済南へ向けて出発しようとしていた。ヴァンスが「通告」した翌日、現場では予告通りのことが起きていた。

 

「なんだ貴様ら! どかんか!」

 

 手柄を急ぐ陸軍の若手将校が激昂し、ガチャリと軍刀の柄に手をかけた。

 英国少佐は、軍刀の切先など存在しないかのように涼しい顔で、一枚の書面を突きつけた。

 

「我々日英同盟軍の作戦目標は、あくまで青島のドイツ要塞のみであるはずだ。数百キロも離れた内陸の済南へ、貴国が単独で武力進駐することは、明らかな越権行為であり中華民国の主権侵害にあたる」

「やかましい! これは帝国の血の代償だ!」

「ゆえに」

 

 英国少佐は若手将校の怒号を冷ややかに遮った。

 

「総督府におけるヴァンス卿の『通告』および同盟の精神に基づき、この軍事資産の接収には、我が大英帝国にも共同管理の権利がある。我々の監視要員をこの列車に同乗させない限り、発車は認めない」

「ふざけるなッ! 異人風情が……!」

 

 将校が軍刀を半分引き抜いた瞬間、真崎が横からその腕を強く掴んだ。

 

 「よせ。斬れば国際問題になる」

 「しかし大尉殿!」

 「乗せろ」真崎は低い声で命じた。「客車の最後尾を一両くれてやれ。それ以上、出発を遅らせるわけにはいかん」

 

 真崎は、英国少佐の顔を一瞬だけ見た。三十代半ば。昨夜ヴァンスから指示を受けたのだろう。この少佐は命令を実行しているだけだ。怒りの向かう先は、ここではない。少佐は静かに敬礼し、グルカ兵たちを連れて車両最後尾へと歩いていった。

 

 土まみれの軍靴で、ひたすらに力任せの暴走を続けようとする日本陸軍。その前に、イギリスは「国際法」と「同盟条約」という見えない鎖を、すでに張り巡らせ始めていた。それは物理的な障害物として、現場にまで及んでいたのである。

 

 真崎が乗り込んだ客車は、発車してすぐに、酷い金属音とともに激しい縦揺れを繰り返し始めた。

 ドイツ軍は青島に立てこもる前、日本軍への嫌がらせとして、山東鉄道の橋梁を爆破し、給水塔や機関車の一部を破壊して撤退していた。工兵隊が爆破されたレールを粗製乱造の枕木で急造復旧したため、少しでも速度を上げれば脱線しかねない危うい振動が、真崎の疲労しきった腰骨に容赦なく響く。

 

 窓の外には、日本のような箱庭の風景はどこにもない。ただ果てしなく続く赤茶けた大陸の泥土と、背丈ほどもある穀物、高粱の波が、どこまでも広がっていた。

 

 真崎は外套のポケットに手を突っ込んだ。指先に触れたのは、戦場から持ち越した乾パン一切れだった。取り出してかじろうとして、やめた。水がない。

 

 (……ケイの奴、今頃英国海軍の晩餐とやらで、腹でも満たしているのか)

 

 乾パンをポケットに戻した。

 

 列車の速度が落ち、名もなき無人の停車場に停まるたび、真崎は窓の外に展開される「帝国陸軍の生々しい現実」を目撃することになった。

 本国からの補給線が完全に延びきっていた日本軍は、沿線の中国人の農村に武装した歩兵を送り込み、農民が飼っている豚や鶏、高粱などの穀物を次々と荷車へ積み込んでいた。名目は「軍票による買い上げ」であったが、実際には紙切れ一枚で生活の糧を奪い取る、事実上の強制徴発、略奪に他ならない。

 

「待ってくれ! その豚だけは! 来年の子を産むんだ!」

 

 泣き叫んですがりつく農民を、日本の歩兵が銃床で容赦なく殴り倒す。

 土気色になってうずくまる農民を一瞥すると、歩兵は今度はその銃床で、豚の尻を小突いた。

 

「ピギーーッ!!」

 

 悲痛な鳴き声を上げて暴れる豚を、兵士たちは乱暴に貨車へと積み込んでいった。

 

 真崎は窓を、静かに閉めた。 アジアを白人の支配から解放する。そんなお題目は、この大陸の泥の上では一枚の紙切れほどの価値もない。

 窓の外から列車に向けられる中国人農民たちの視線は、恐怖と、そして底知れぬ憎悪に満ちていた。それは「解放者」へ向ける目などではない。新たな「帝国主義の簒奪者」の顔を持つ大日本帝国に対する、根源的な怒りであった。

 

 我々は、ドイツの要塞というコンクリートの化け物を倒すために、自らが新たな化け物になろうとしているのではないか。

 真崎の胸の奥に、硝煙の悪臭よりも重く苦い思いが澱のように溜まっていった。

 

   *

 

 列車が済南駅の巨大なプラットホームに滑り込んだのは、翌日のことであった。

 

 日本軍との武力衝突を恐れた袁世凱の「抵抗せず後退せよ」という命令により、中国軍は武器を収めて撤退していた。無抵抗の広大な駅舎に降り立った日本軍の歩兵たちは、血走った目で構内へと雪崩れ込んでいった。銃剣を空高く突き上げ、「万歳」の歓声を上げながら、優美なドイツ語の駅名標の隣に『大日本帝国軍政下』と墨書きされた荒々しい木札を、乱暴に打ち付けた。

 

「見ろ、真崎大尉! 我々がついにこの内陸の要衝を落としたのだ!」

 

 後続の特別列車で安全にやってきた郷田中佐ら参謀本部のエリートたちが、真新しい軍靴でプラットホームに降り立ち、無邪気に笑い声を上げていた。

 

「陸軍の武威に恐れをなして、支那の兵どもは尻尾を巻いて逃げたわ! このまま華北のすべてを大日本帝国の勢力圏に収めてやる!」

 

 歓喜に沸く郷田中佐の背後で、客車の最後尾から、同乗してきたイギリスの監視官たちが静かに降り立っていた。狂乱する日本軍の兵士たちを、まるで檻の中の猿でも見るかのような冷ややかな視線で観察し、手帳に何かを書き留めている。

 

 物理的な大砲の撃ち合いには勝ったかもしれない。だが、この「無血占領」の代償がどれほど高くつくか、郷田中佐ら上層部は全く理解していないのだ。無理な兵站、現地住民の憎悪、そして「同盟国」という名目で同行し、日本の暴走を国際社会に告発するための証拠を淡々と集め続ける大英帝国の冷徹な視線。力任せの進軍は、いずれイギリスが仕掛ける外交的包囲網によって、真綿で首を絞められるように息の根を止められるだろう。

 

 真崎は郷田の声を背中で聞きながら、プラットホームの端まで歩いた。改札の外、人垣の向こうに一人の中国人の少年が立っていた。日本軍をただ、見ている。表情はない。その目の色を、真崎はどこかで知っていた。高粱畑で銃床に殴り倒された農民の目だ。

 

 イギリスの監視官が、手帳を閉じた。それだけだった。




少しだけ解説を。
真崎が車窓から目撃した「軍票による買い上げ」。これは当時の占領地で広く行われた制度で、現地の農民には換金の手段がなく、実質的な強制徴発でした。中国大陸における日本軍への根強い反感の一端は、こうした現場の積み重ねに由来します。「解放者」と「簒奪者」の境界線は、最前線の豚一頭の上にも引かれていました。

最後までお読みいただきありがとうございます。
※続きは明日19:40に更新予定です。
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