海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:yoshiume

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第五十一話 薄色ちりめんの女

 

【挿絵表示】

 

 

 その頃、南洋では――。

 

 捕虜の群れの中に、薄色のちりめんがあった。

 

 大正三年十月中旬。エメラルドグリーンの波を叩き割るようにして、大日本帝国海軍の御用船「鹿児島丸」が、アンガウル島を背にして東進していた。目的地は、トラック諸島を経由し、遥か北の海に霞む内地、長崎である。

 

 船の後尾甲板には、南洋の容赦ない熱射から逃れるようにして、粗末な天幕が張られていた。その日陰の下には、重苦しく澱んだ空気が垂れ込めている。

 

 武装解除され、捕虜として内地へ護送されるドイツ人たちの群れであった。接収したアンガウル島のリン鉱石は、近代爆薬の原料となる戦略物資だ。ドイツ帝国はここを一発も撃たずに失ったのである。

 甲板にしゃがみ込む大柄なゲルマン民族の男たちの顔には、帝国の威信を剥ぎ取られた敗者の、底知れぬ絶望と疲労が色濃く張り付いていた。小柄な日本海軍の陸戦隊員たちが着剣した三八式歩兵銃を構えて監視する前で、かつてこの南洋に君臨していた白人エリートたちは、ただ力なくうなだれ、黙り込んでいる。帝国主義の残酷な食物連鎖が、この狭い甲板の上に露骨なまでのコントラストを描き出していた。

 

 だが、その重苦しい敗者の群れにあって、ただ一人、周囲の絶望的な空気から完全に隔絶された「異彩」を放つ存在があった。

 

 特務機関員としてこの接収作戦に同行し、上層甲板から捕虜たちの様子を監視していた潮崎拓馬は、その姿を視界に捉えた瞬間、双眼鏡を下ろさずにはいられなかった。

 

 女であった。それも、日本人である。

 年齢は、おそらく二十七、八といったところか。

 

 周囲のドイツ人たちが汗と泥にまみれ、着の身着のままでうずくまる中、彼女だけが、まるで京都や新橋の料亭の奥座敷からそのまま抜け出してきたかのような、完璧な和装に身を包んでいたのである。

 

 彼女が纏っているのは、涼しげな薄色のちりめんで仕立てられた紋付羽織であった。上質な絹の光沢が、熱帯の強烈な陽射しを弾き返し、彼女の周囲にだけ冷やりとした透明な境界線を作り出している。

 海風が、結い上げた漆黒の髪のほつれ毛を優雅に揺らした。彼女は捕虜の群れの中に座ることもせず、甲板の手すりに真っ直ぐな背筋で寄りかかり、ただ静かに、紺碧の海を見つめている。

 その横顔には、祖国に敗北した男の哀れみも、捕虜の身として内地へ連行される恐怖や悲壮感も、微塵も浮かんでいなかった。

 

 (……南洋にまで流れてきた『からゆきさん』の上がりか? いや、違う)

 

 潮崎は、冷徹な工作員の目で彼女の佇まいを分析した。

 

 当時の南洋諸島や東南アジアには、貧しい日本の農村から身売りされ、娼婦として外地を渡り歩く「唐行きさん」と呼ばれる女たちが無数に存在した。だが、甲板に立つこの女の全身から発散されるオーラは、路地裏で春をひさぐ女のそれとは決定的に異質であった。男に媚びてその日暮らしの銭を稼ぐような、安っぽい卑屈さが一切ない。

 

 そこにあるのは、花街の頂点に君臨する太夫のような、圧倒的な気高さと、哀しさ、そして凄絶なまでの「生命力」であった。

 

 潮崎の視線が、女の隣に座り込み、頭を抱えてすすり泣いている初老のドイツ人に向けられた。彼は、アンガウル島・南洋燐鉱株式会社の元最高責任者であり、彼女のパトロンであった男だ。

 

 数日前まで、この男はアンガウル島の絶対的な支配者として、富と権力の頂点にいた。だが今や、その資産のすべてを帝国海軍に接収され、一介の捕虜として収容所へ送られる惨めな老人に過ぎない。

 そんなパトロンの姿を一瞥すらすることなく、女はただ、潮風の中で凜と立ち尽くしている。

 

 潮崎は、無意識のうちに階段を下りていた。

 

 身辺調査という職務上の名目は、後から思いついた言い訳に過ぎない。この異常なまでの静けさと誇りを纏った女の「芯」に、特務機関員としての危険な好奇心が触れたのだ。

 

 潮崎の、一滴の汚れもない純白の第二種軍装が、捕虜たちの間を抜けていく。ヤップ島での隠密行動を終え、顔見知りのいないこの護送船上にあっては、商人の偽装を解き、再び正規の視察官としての顔を取り戻していたのである。

 女の背後に三歩まで近づいた時、むせ返るような重油と潮の匂いに混じって、極めて上質で微かな白粉の香りが潮崎の鼻腔をかすめた。

 

「……随分と、涼しい顔をしているな」

 

 潮崎は、わざと靴音を鳴らして足を止め、低く皮肉めいた声を背中へ投げかけた。

 

「あんたのパトロンがあのザマだ。積み上げた富も権力もすべて我々が没収し、もはや一文無しの捕虜として内地へ送り返されるというのに、悲しむ素振りもないとは。薄情なものだ」

 

 女は、すぐには振り返らなかった。

 ただ、海を見つめたまま、白く細い指先で羽織の襟元をわずかに合わせただけである。

 

 やがて、彼女はゆっくりと首を巡らせた。

 潮崎と、視線が交差した。

 射抜くような、涼やかな瞳であった。その瞳の奥には、恐怖や媚びではなく、潮崎の純白の軍装と、その裏にある特務機関員としての冷酷な本性を、一枚の薄紙を透かすように見透かしている知性の光が宿っていた。

 

 川口たけ。齢二十九にして、南洋の過酷な熱帯を生き抜いてきた女の、修羅の顔である。

 

「殿方の大義とやらで、腹が膨れますか?」

 

 たけの唇から紡がれた声は、風鈴のように涼やかで、そして研ぎ澄まされた刃のような芯を持っていた。

 

「……何だと?」

「昨日までの支配者が、今日は泥にまみれて泣いている。あの殿方は、ご自分の国が戦争に負けたから、すべてを奪われたのだと嘆いておられます。ですが、私に言わせれば、そんなものはただの言い訳に過ぎませぬ」

 

 たけは、足元で絶望に打ちひしがれるかつてのパトロンを、氷のように冷たい目で見下ろした。

 

「泣いてすがるのは、三流の女のすること。私は、あの男に惚れていたわけではありませぬ。あの男が持っていた『力』に寄り添い、私が生きるための糧としていたに過ぎない」

 

 たけの視線が、再び潮崎へ向けられた。

 

「力のない男は、ただの木偶(でく)の坊です。……私は生きるために、その時、一番強い男の横で咲いてみせるだけ。ただ、それだけのことです」

 

 その圧倒的なまでのリアリズムに、数多の修羅場を潜り抜けてきた潮崎が、一瞬言葉を失った。

 帝国海軍が掲げる「東洋平和」や「同盟の義理」といった高尚な大義名分など、この女の前では、昨日までのドイツ人支配人が掲げていた権威と同じ、底の浅い虚構に過ぎないのだ。

 

「……ふん。見上げた度胸だ。だが、あんたのその誇りも、我々大日本帝国の庇護(ひご)がなければ、南洋の野盗の餌食になっていたはずだぞ」

 

 潮崎は、特務機関員としての冷徹な仮面を貼り直し、言い返した。

 だが、たけはその言葉を待っていたかのように、薄色のちりめんの袖を優雅に翻し、潮崎の真っ白な軍装を頭の先からつま先まで、品踏みするように見上げた。

 

「大日本帝国、ですか」

 

 ふふ、と。

 たけの紅を引いた唇から、初めて微かな笑みがこぼれた。だがそれは、男を魅了する笑みではなく、愚かな子供を憐れむような、冷酷な嘲笑であった。

 

「私は、国のためという美名の下に、そのご立派な軍装を着てエリートぶるような殿方は好かぬのです」

「……」

「お国のために命を捧げる。いかにも立派な響きですこと。ですが、自ら志願して殺し合いの場に身を投じるなど、私からすれば、ただ己の命を粗末にする者の言い訳に過ぎませぬ」

 

 ズキリ、と。

 

 潮崎の胸の奥底で、何かが鋭く疼いた。

 たけは、海風になびく黒髪を白く細い指で梳きながら、潮崎の目から決して視線を逸らさずに言葉を突き刺した。

 

「男という生き物は、どうしてそうまでして大層な名前のついたお神輿を担ぎたがるのでしょうね。勲章やメンツのために、血を流して泥を這いずり回る。……私には、生き汚くとも、自分の二本の足で立ち、己の命の重さだけを信じて生き抜く女郎の方が、よほど気高く、恐ろしい生き物に見えますけれど」

 

 圧倒的な沈黙が、甲板の隅に落ちた。

 波の砕ける音と、船の機関室から響く重低音だけが、二人の間に流れる時間を埋めている。

 

 潮崎は、反論の言葉を持たなかった。否、反論できなかったのだ。

 彼の脳裏に、いま四千キロ北の山東半島で、大義名分のために泥水にまみれて突撃している真崎勇気たちの姿が浮かんだ。潮崎自身もまた、「日英蘭三国同盟」という幻影のために、暗夜の海を潜り抜けてきた。

 

 自分たちは、国家という呪縛の中でしか生きられないのではないか。

 目の前の女は違う。国家の後ろ盾もなく、たった一人で絶海の孤島へ渡り、異国の支配者に体を預け、その庇護者が破滅してもなお、一滴の涙も流さずに次の生存の舞台へと平然と歩み出そうとしている。

 

 潮崎は、ゆっくりと胸ポケットからシガーケースを取り出し、銀のライターで火を点けた。

 紫煙を深く吸い込み、容赦ない赤道の太陽が照りつける海風の中へ、ゆっくりと吐き出す。

 

 (大義名分で泥まみれになって殺し合っている青島の男たちより、この女の生命力の方がよほどタフで、恐ろしい)

 

「……いいだろう。せいぜい、内地で一番強い男を見つけることだ。あんたなら、きっと総理大臣の横にだって立てるさ」

 

 潮崎は、皮肉ではなく、心からの敬意を込めてそう言い残し、踵を返した。

 背後からは、何の返答もなかった。

 

 ただ、振り返らずとも、彼女が再び真っ直ぐに海を見つめ、微動だにせず立ち尽くしていることだけは分かっていた。

 

 純白の軍装を潮風に揺らしながら階段を上る潮崎の背中に、白粉の匂いが遠くかすめて消えた。

 その薄色ちりめんの背中が、潮崎の目に焼き付いていた。




少しだけ解説を。
本話に登場する「からゆきさん」は、明治〜大正期、熊本・天草を中心とした農村から東南アジアや南洋へ渡った出稼ぎ娼婦たちの実像です。近代日本の恥部として長年語られることを避けられてきた歴史ですが、その生存力は、帝国の大義名分よりずっと正直に、時代と向き合っていました。たけはその系譜にあって、しかし違う。

最後までお読みいただきありがとうございます。
※続きは明日19:40に更新予定です。
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