海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:yoshiume

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第五十二話 鹿児島丸

 弾丸のような雨粒が、潮崎拓馬の顔面を叩いた。

 

 視界が白く塗り潰される。数メートルに及ぶ外洋のうねりが、古びた船体を容赦なく持ち上げては叩き落とす。船板が悲鳴を上げ、マストが折れんばかりにしなる。

 

 大正三年(一九一四年)十一月中旬。赤道に近いカロリン諸島海域。アンガウルで捕虜を収容し、次なる接収地トラック環礁へと向かっていた大日本帝国海軍の御用船「鹿児島丸」は、南洋特有の狂暴なスコールに弄ばれていた。

 

 風の咆哮と波の砕ける音が世界を完全に支配し、隣に立つ者の怒声すら耳に届かない。特務機関員・潮崎は、甲板の手すりにしがみつきながら、塩水に目を細めていた。

 だが――。

 

 「北水道」と呼ばれるサンゴ礁のわずかな切れ目を抜けた瞬間、世界から突然、すべての「音」と「揺れ」が消滅した。

 

 潮崎は思わず息を呑み、手すりを握る手に力を込めた。狂ったように暴れていた船の縦揺れが、嘘のようにピタリと止んでいる。耳を劈く波の轟音は、遥か後方のサンゴの壁で白く砕け散り、完全に遮断されていた。

 

 船の周囲に広がっていたのは、外の嵐が信じられないほどの、漆黒の鏡のような水面であった。風すらも和らぎ、不気味なほどの無音を保った巨大な「湖」が、闇の中に果てしなく横たわっている。トラック環礁の内部――外洋の暴威を完璧に弾き返す、広大な内海であった。

 

 潮崎は、夜気の中で鋭く舌打ちをした。

 この無音の湖は、同時に致命的な罠でもある。ドイツ守備隊は降伏直前、最も重要な機密である「環礁内部の精密な海図」をすべて焼却処分していた。占領自体は完了したものの、鏡のような水面の下に潜む鋭利なサンゴの根、暗礁(あんしょう)の位置を、日本側は全く把握できていない。漆黒の水面は、手探りで歩く者を死へ誘う底なしの落とし穴であった。

 

「……随分と、焦っておいでですね」

 

 ふいに、闇の奥から声がした。風鈴のように涼やかで、凛とした芯のある声。

 潮崎が振り返ると、そこに一人の女が立っていた。

 川口たけ。あのアンガウル島の女である。

 先ほどの地獄のような嵐の中でも、彼女は船室で全く取り乱すことなく、髪のほつれ一つ見せずにここに現れたのだ。

 

「なぜ甲板に出ている。船室に戻れ」

 

 潮崎が低く命じたが、たけは涼やかな瞳で潮崎のずぶ濡れになった純白の軍装を見据え、ふふ、と微かに笑った。

 

「海の中の石ころがどこにあるか分からず、困っておられるのでしょう?」

 

 潮崎の目が細くなる。特務機関員としての殺気が漏れ出た。

 

「……何が言いたい」

「私が、安全な航路を教えて差し上げると申しているのです」

 

 たけは、海風になびく黒髪を白く細い指で梳きながら、事も無げに言った。

 

「ただし、条件があります。長崎に着いた後、私に『最高級の厚遇』をお約束なさい。三流の宿などご免です。私がこの身一つで生き抜くための、十分すぎるほどの路銀と身の保証を。……お国のために命を懸ける殿方なら、これくらいの取引、安いものでしょう?」

 

 潮崎は眉間を寄せた。

 

「ドイツ軍が焼却した海図を、なぜお前が知っている」

「あら。お酒を飲んだドイツの旦那様が、ベッドの上に海図を広げて私を抱き寄せたからですわ」

 

 たけの紅を引いた唇が、艶やかに弧を描いた。

 薄暗い甲板の上で、たけは羽織の襟元を少しだけ崩し、自らの白いうなじから胸元にかけて、細い指先をツツツーと這わせた。

 

「あの旦那様は、この環礁を本当に誇りにしておいででした。夜な夜なブランデーを飲みながら、私を膝に乗せて海図を広げるのです。……『ここが北の入り口だ。一番狭いところだが、深さはfünfunddreißig Meter(三十五メートル)もあるから、巨大な戦艦でも腹は擦らない』……そう言って、旦那様の指は、私の胸の谷間を滑り降りていくの」

 

 艶めかしい吐息混じりの声。それは、熱帯の夜気にねっとりと絡みつくような愛欲の記憶であった。

 だが、その女の口からスラスラと紡ぎ出されるのは、「fünfunddreißig Meter」というドイツ語の正確無比な水深データと、航路の座標であった。

 

「『でもね、右側には鋭利なサンゴの根があるから、絶対に面舵を切ってはいけない。ここから南西へdrei Seemeilen(三海里)進み、そこから……』」

 

 たけの指先が、空中に見えない海図を描くように動く。その動作のすべてに、パトロンであった男の指の動きが重なっている。

 潮崎は、懐から油紙に包まれた一枚の「紙片」を取り出した。

 それは、ドイツ軍守備隊が降伏直前に焼却炉へ放り込んだ海図を、海軍が間一髪で掻き出した焼け焦げた残骸であった。そこにはトラック環礁の輪郭の一部と、欠落した数字の切れ端だけが辛うじて残っている。

 潮崎は、カンテラの灯りの下で、その断片とたけの言葉を照らし合わせた。

 

 (北水道の水深……焼け残った数字の末尾は『5』。そして南西三海里の地点にある等高線の歪み……)

 

 潮崎は、背筋を冷たい汗が流れ落ちるのを感じた。

 海軍が掴んでいた断片的な情報と、女のベッドでの睦言が、一寸の狂いもなく、完璧な符合を見せたのだ。

 

「……化け物だな、お前は」

 

 情報の裏付けが完全に取れた瞬間、潮崎の眼差しが、本物の海軍特務員のそれへと変わった。

 

「取引成立だ。あんたが長崎に着いた後の身の振り方は、海軍省特務機関の権限で、『最高級』とはいかないが『上級』の保証をしてやる。……さあ、その続きを話してもらおう」

 

 潮崎は、カンテラの頼りない灯りの下で、たけが紡ぎ出す言葉に従い、焼け焦げた海図の断片に、万年筆で欠落した航路と水深、そして暗礁の位置を書き足していった。

 ペン先が、紙面をカリカリと引っ掻く。

 水深三十五メートル。五十メートル。広大な泊地。二重、三重に囲まれたサンゴの防波堤。パズルの空白が埋まり、点と線が繋がっていく。

 

(……なんだ、これは)

 

 ペンを走らせていた潮崎の手が、ふいに止まった。

 白紙の上に浮かび上がったのは、ただの南の島の地形ではない。外洋の狂った荒波を完全に遮断する、天然の分厚いサンゴの城壁。入り口は極めて狭く敵の侵略を拒むが、一度内部に入り込めば、水深は三十メートル以上あり、およそ波浪とは無縁の巨大な静寂が広がっている。

 潮崎の頭の中で、その面積が具体的な数字となって弾き出された。

 

(……東京府の全域が、すっぽりと収まるほどの広さじゃないか)

 

 潮崎は、ごくりと唾を飲み込んだ。

 ここは、単なる嵐の避難所ではない。来るべき総力戦の時代、数万トンの鋼鉄の巨獣たちが何十隻、いや何百隻と集結し、誰の目にも触れることなく牙を研ぎ、全方位へ向けて出撃できる絶対的な前線基地。

 

(大英帝国の本国艦隊すら、丸ごとすっぽり隠せる……世界最大の不沈要塞だ)

 

 日本海軍は、一滴の血も流さず、書類一枚でこの途方もない怪物を手に入れたのだ。

 だが、それは決して無邪気に喜ぶべきことではない。潮崎の冷徹な地政学の視座は、その先にある歴史の絶望を正確に見据えていた。

 パナマ運河を開けたアメリカが、フィリピンへ向かう航路の真ん中に、この要塞がある。

 

(……いずれ、必ず日米は激突する。この静かな海が、血みどろの殺戮舞台となるかもしれない)

 

 潮崎は、完成した海図を見下ろしたまま、熱帯の生温かい夜風の中で、一人極寒の地にいるような激しい悪寒に身を震わせた。

 

「……これで、よろしいですか?」

 

 たけの涼やかな声が、潮崎の思考を現実に引き戻した。

 彼女は、自らが語った記憶が、大日本帝国の運命を決定づける巨大な軍事機密であることなど、露ほども理解していない。いや、そもそも興味がないのだ。国家の覇権も、地政学の絶望も、彼女にとっては明日の白粉の足しにもならない虚構でしかない。

 

「ああ。完璧だ」

 

 潮崎は野帳を閉じ、重く乾いた声で答えた。

 たけは、満足げに薄色ちりめんの袖を合わせると、紺碧から漆黒へと変わった夜空を悠然と見上げた。

 

「よかった。これで内地でも、一番良いおしろいが買えますわ」

 

 その時であった。

 漆黒の闇と同化していた甲板の影から、英語訛りのくぐもった声が、夜の静寂を不意に切り裂いた。

 

「――その野帳(スケッチ)を、よこせ」




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