海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:yoshiume
その「よこせ」には、ヤンキー訛りがあった。
大英帝国が誇るキングス・イングリッシュの気取った発音ではない。舌を丸め、母音を平坦に引き伸ばす、あからさまなアメリカの匂いである。
潮崎拓馬は、表情筋を微塵も動かさず、視線だけを斜め後方へ走らせた。
(後方一メートル。足音は皆無。これは……正真正銘のプロだ)
武装解除され、船尾の天幕に押し込められていたはずのドイツ人捕虜の一人。だが、その大柄な男の太い腕は、川口たけの背後から羽織の襟首を鷲掴みにし、もう片方の手で割れたウイスキー瓶の鋭利なガラスの刃を、彼女の白い頸動脈へぴたりと押し当てていた。
男の筋肉の膨らみ、重心の沈み込み。それは敗残兵のそれではない。高度な専門訓練を受けた、本物のプロフェッショナルの佇まいである。
潮崎の脳髄が、極度に冷却された演算機のように状況を処理していく。
(人質一名。刃先と動脈の距離、数ミリ……。致死のベクトルはすでに完成している)
だが、その時であった。
死の刃を首筋に押し当てられたたけは、悲鳴を上げるどころか、薄色ちりめんの袖を煩わしそうに払い、氷のように冷たい声で言い放った。
「……私のおしろい代の邪魔をする気?」
たけは、自らの白い首を、後ろの男が構えるガラスの刃へと、ゆっくりと、だが力強く押し付けたのだ。
ツゥーッ、と。
薄皮が切れ、一筋の赤い血が、雪のような肌を伝って流れ落ちる。
女の、死すら恐れぬ異常な生命力の発露。その常軌を逸した行動に、冷徹な暗殺者であるはずの男の網膜が、反射的に見開かれた。
生じた致命的な隙は、コンマ一秒。
潮崎の右手が、残像を置き去りにして跳ね上がった。手の中にあった万年筆が、手裏剣のごとき速度で雨の夜を切り裂き、男の顔面へと投擲される。
「グッ……!」
男が咄嗟に顔を庇い、たけの身体を乱暴に突き飛ばした。
たけが甲板に転がるのと同時に、潮崎は野帳を素早く甲板内側へ投げ捨て、腰の背後から黒光りする海軍短剣を引き抜いた。
だが、男は追撃を待つほど愚かではなかった。一瞬の不利を悟るや、巨体を翻し、甲板のハッチから船の地下空間へと雪崩を打って逃げ込んだのである。
「ちぃッ!」
潮崎は舌打ちとともに、開け放たれたハッチの闇へと躊躇なく飛び込んだ。
舞台は、船の腹の奥底――地下の調理場へと移る。
再発してきた外海の嵐がもたらす激しい横揺れによって、天井から下がる油塗れの吊りランプが大きく弧を描き、狂った振り子のように揺れ動いている。
光と強烈な影が不規則に交錯する中、床には割れた皿や陶器の破片が散乱し、強い機械油と塗料の匂いが鼻を突いた。視界不良。おまけに足場は極めて不安定だ。
暗がりから、突如として丸太のような剛腕が突き出された。
近代ボクシングのステップから放たれる、体重の乗った破壊的なストレート。男の拳が潮崎の顔面をかすめ、背後の分厚い樫のまな板に直撃する。
メキィッ!
という無骨な破砕音とともに、厚さ数寸の木塊が真っ二つに割れ、木片が散弾のように飛び散った。人間を殺すためだけに最適化された、直線的で合理的な近接格闘の極致である。
だが、潮崎もまた、長く修羅場を潜り抜けてきた工作員である。「
男が体勢を立て直すより一瞬早く、潮崎は半歩の間合いに踏み込んだ。
(狙うは、関節の破壊――)
潮崎の軍靴の爪先が、男の左膝の裏側へと正確な角度で突き刺さった。男の巨体がガクンとバランスを崩す。その隙を逃さず、潮崎の右手に握られたカトラスが、銀色の弧を描いて男の頸動脈へと肉薄した。
刃先が肉を裂く寸前。
男は首を庇うことを放棄し、自らの巨体を砲弾のようにして潮崎の懐へと飛び込んできた。アメリカ海兵隊仕込みの、強引極まりないレスリングのタックルである。回避不能の質量攻撃に、百キロ近い筋肉の塊が激突し、潮崎の肺から空気が強制的に搾り出された。
「ガハッ……!」
二人はもつれ合い、食器棚をなぎ倒しながら、調理場のさらに奥、最下層の「機関室」へと通じる急な鉄階段を転がり落ちていった。
――落下した先は、むせ返るような灼熱の地獄であった。
機関室。大日本帝国海軍の御用船の心臓部。巨大な三段膨張式蒸気機関のピストンが、鼓膜を破るような轟音を立てて絶え間なく上下している。
容赦ない五十度の熱気が、一瞬にして潮崎の全身から汗を噴き出させる。むせ返るような石炭の粉塵が視界を奪い、巨大なピストンの轟音が聴覚情報を完全に遮断していた。足元の鉄網の足場は、蒸気と油で恐ろしく滑りやすくなっている。
男は素早く立ち上がり、パイプ群を縫うようにして機関室の最奥へと駆け出す。
潮崎も軋む肉体を鞭打ち、その後を追う。
巨大なボイラー群の間を抜け、男が逃げ込んだのは、燃えカスを直接海中へと投棄するための最下層の扉――「灰捨て門」であった。
ガチャン! という重々しい金属音が響く。
男は分厚い鋼鉄の水密扉を引き寄せると、壁に立てかけられていた長さ二メートルはあろうかというボイラー用の「火かき棒」を、扉の取っ手と壁のパイプの間に強引に差し込み、かんぬき代わりに封鎖したのだ。
追いついた潮崎が扉のハンドルを引くが、ビクともしない。
潮崎は床に転がっていたパイプレンチを拾い、扉の隙間にねじ込んだ。全身の体重と筋力を、テコの柄に乗せる。
ギギギギギィィィッ!
鋼鉄が悲鳴を上げ、火かき棒が曲がる。ヒンジから火花が散った。
バァン!
ついに鋼鉄の棒が弾け飛び、水密扉が荒々しくこじ開けられた。
扉の向こう側は、船の船尾、直接海面へと繋がるダストシュートの出口であった。
外は再び、狂暴なスコールと波のうねりが支配する暗黒の世界である。
潮崎が濡れた甲板に躍り出た時、眼下の荒れ狂う海面から、プシューッという甲高いガスの噴出音が響いた。
男が海へ投げ込んだ黒い束が、あっという間に膨らみ、ゴム製の浮舟へと姿を変えた。マッキントッシュ・クロス――炭酸ガスで瞬時に展開する一人乗りの浮舟。大正三年の日本軍にとっては、SF同然の超近代装備である。
男はその浮舟に飛び乗り、暗い波間を漂いながら、潮崎へ向けて小型のハンドライトを向けた。
チカッ、チカッ、チカッ。
モールス信号ではない。ただの挑発的な明滅。そして男は、嵐の海の上から、まるで劇場で喝采を浴びる役者のように、仰々しい海軍式の敬礼を送ってきたのだ。
潮崎は、懐のブローニングM1900拳銃を引き抜き、安全装置を解除した。
距離は十メートル。荒波のしぶきはあるが、射線は完全にクリアだ。ゴム舟の素材がいくら頑丈であろうと、七・六五ミリの銃弾を一発撃ち込めば、容易くパンクさせることができる。そうすれば、この得体の知れない工作員は、為す術もなく暗い海の底へと沈んでいくだろう。
潮崎の指が引き金に掛かる。
だが。
その冷徹な指先は、圧力の数ミリ手前で、硬直したように動かなくなった。
男のヤンキー訛り。最新鋭のガス展開式浮舟。そして、日本の動きを嗅ぎつける不気味なほどの嗅覚。男の正体は、間違いなく
ここで彼を殺せば、トラック環礁の取得をアメリカに公認させるとともに、決定的な外交摩擦を引き起こす。日英蘭三国同盟という巨大な檻が完成する前に、化け物と火を交えることになる。
(ここでの発砲は、戦略の決定的な破綻を意味する……!)
今はまだ、アメリカという化け物と直接火を交える時ではない。
潮崎はひどく重い舌打ちをすると、ゆっくりと銃口を下げた。浮舟に乗った男は、ハンドライトの光を消し、漆黒のスコールの向こう、果てしない太平洋の闇の中へと静かに溶けていった。
*
潮崎がずぶ濡れのまま上甲板へと戻ると、そこには川口たけが待っていた。
彼女は、懐紙で自らの白い首筋に滲んだ血を優雅に拭いながら、どこか退屈そうに首を傾げた。
「逃がしたの?」
たけの言葉に、潮崎は熱帯の夜の海を見つめたまま、無表情に答えた。
「……ただヤケになったドイツ人捕虜が、海へ足を踏み外しただけだ」
「ふうん」
「……だが、やけにヤンキー訛りの強いドイツ人だったがな」
たけは、男たちの殺し合いの事情など興味がないというように、小さく鼻を鳴らしただけだった。
「医務室へ行くぞ」
潮崎は、野帳を拾った。たけをエスコートしながら、分厚いその野帳の重みを感じていた。
日本が手に入れたパンドラの箱の匂いを、アメリカの諜報網はすでに嗅ぎつけている。一滴の血も流さずに得た南洋で、見えない戦争はすでに始まっていた。
潮崎は、濡れた野帳を、折れんばかりの力で握りしめた。
遠く、嵐の向こうで雷鳴が轟いた。
数十年後、太平洋を血で染める凄惨な大戦の、確かな足音であった。
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※続きは明日19:40に更新予定です。
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