海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:yoshiume
「少し、沁みますよ」
軍医の言葉とともに、川口たけの白い首筋に押し当てられたのは、ピンセットで挟まれた赤黒い脱脂綿――ヨードチンキを染み込ませたそれであった。
大正三年(一九一四年)十一月。
南洋の嵐を抜け、内地へと船首を向けた大日本帝国海軍の御用船「鹿児島丸」。その最下層に近い薄暗い医務室には、消毒液と薬品の匂いが充満していた。
外海のうねりはすでに収まりつつあったが、船体は依然として重くきしみながら揺れている。古びた真鍮の洗面器が棚の中でカチャカチャと単調な音を立てた。
アメリカの工作員が突きつけたガラスの刃によって切り裂かれた薄皮の傷。強烈な殺菌作用を持つそのヨードチンキは、男の屈強な海兵隊員でさえ歯を食いしばるほどの焼けるような痛みを伴う。
だが、たけは眉一つ動かさなかった。
彼女は、手鏡で自らの首筋の包帯を確かめながら、不満げに形の良い唇を尖らせた。
「……せっかくの、香水の残り香が台無しですわ。こんな鼻を突く毒々しい匂い、まるで野戦病院ではありませんか」
当時、西洋の文化に敏感な女たちの間では、フランスから輸入された「ウビガン」や「ゲラン」の香水が、最新の贅沢品として密かな憧れとなっていた。
痛みよりも、自らを包んでいた菫の香りが損なわれたことへの腹立ち。その常軌を逸した図太さに、手当てをしていた軍医が呆れたようにため息をついた。
医務室の片隅では、特務機関員・潮崎拓馬が無言のまま、己の肉体の処置を行っていた。先ほどのアメリカ工作員との死闘で、巨体によるタックルを受け、全身の骨が軋むほどの打撲を負っている。潮崎は上着を脱ぎ、青黒く腫れ上がった脇腹に冷湿布を貼り付け、静かにシャツのボタンを留めた。
「良いカラダね。海軍さん」
たけが手鏡の角度を変えて、潮崎の脇腹を映し見ていた。軍医が驚いて手を止めるが、たけは涼しい顔でヨードチンキの匂いを楽しむかのように小さく息を吐いた。
潮崎はシャツの最後のボタンを留め、聞こえなかったふりをした。
その時である。
バンッ、と乱暴な音を立てて医務室の鉄扉が開かれ、血相を変えた御用船の警備責任者――海軍少佐が飛び込んできた。
「貴様ら、無事か! 捕虜が暴れたとは、一体何事だ!」
少佐の怒声が、狭い医務室に反響する。
無理もない。武装解除したはずの捕虜が船内を徘徊し、刃物を振り回したとなれば、警備の根幹に関わる大失態である。
潮崎は、表情筋を完全に凍結させ、ゆっくりと立ち上がった。
「ご安心ください、少佐殿。ただのドイツ兵の暴走です」
潮崎の口から紡がれたのは、氷のように冷たく、そして完璧に計算された「嘘」であった。
「精神の均衡を崩した捕虜の一人が、突如として狂乱し、そこにいた民間人の女性を人質にとって暴れ回りました。私が制圧を試みましたが、奴は逃走を図り……不運にも嵐の甲板で足を滑らせ、夜の海へと転落しました。生存は絶望的かと思われます」
潮崎は、瞬き一つせずに上官の目を真っ直ぐに見据えた。
「ただ、一つ奇妙なことが。海へ落ちる間際、奴はドイツ語ではなく、ひどくヤンキー訛りの強い英語を叫んでおりましたが……恐怖で錯乱していたのでしょう」
「……ヤンキー訛りだと? ふん、死に物狂いの敗残兵のうわ言などどうでもいい。……しかし、民間人に怪我を負わせるとは、警備の不手際を問われかねん」
海軍少佐は、自らの管理責任が問われない「事故」として処理できることに安堵の表情を隠しきれなかった。
潮崎はすかさず、野帳から破り取った紙に、淀みない筆致で数行の文言を書き連ねた。
「少佐殿。念のため、この女性には機密保持の誓約書を書かせております。海軍の公式な『臨時機密費』から、慰謝料と口止め料を兼ねた路銀を支給することで、内密に処理してはいかがでしょうか。事を荒立てて本省に報告すれば、貴殿の経歴にも埃がつきます」
「……む、そうだな。その通りだ。支給の手続きは私が責任を持って行おう」
少佐は、潮崎が差し出した「機密漏洩ニ関スル誓約書」を満足げに受け取ると、そそくさと医務室を後にした。
鉄扉が閉まると同時に、潮崎は重く息を吐き出した。
(ここでアメリカの工作員だったなどと言えば、海軍は面子にかけて米国を外交的に追及し、取り返しのつかない摩擦を生む。それは、予定外の日米摩擦の導火線に火を点けることを意味する)
この件は、海軍の石頭どもに知らせるべきではない。特務機関中枢だけで処理すべきインテリジェンスなのだ。
「……海軍さんも、随分と嘘がお上手なのですね」
背後から、くすり、と妖艶な笑い声が漏れた。
たけが、手鏡から視線を外し、潮崎を見つめていた。
「ただのドイツ兵の暴走、ですか。ふふ……嘘の中に、たった一粒の『真実』を混ぜる。あの男の英語の訛りを正直に話すことで、他のすべての嘘を本物よりも本物らしく見せてしまう。素晴らしい手際ですわ」
彼女は軍事の素人である。だが、修羅場を潜り抜けてきた女の直感は、潮崎の完璧な嘘の奥にある冷徹な計算を、正確に看破していた。
「ご安心なさい。私は、国家の秘密などという、お腹の膨れないものには興味がございませんの。……約束通り、贅沢な暮らしができるだけの身代わりさえ用意してくだされば、私は鏡の中の自分以外、何も見ていなかったことにいたしましょう」
たけは、ヨードチンキの匂いを消すかのように、白く細い指先で自らの襟元を合わせ、涼やかに微笑んだ。潮崎は、この規格外の女の図太さに、ただ無言でカンテラの灯りを睨みつけるしかなかった。
*
それから十数日後。
御用船「鹿児島丸」は、ついに内地――長崎港の桟橋へとその鼻先を横付けした。
タラップを下りた潮崎たちを待ち受けていたのは、南洋のうだるような熱気から一転した、身を切るような日本の初冬の北風であった。
鉛色の空から吹き付ける冷たい風が、潮崎の純白の夏用軍装を容赦なく叩き、体温を奪っていく。周囲の港湾労働者たちは皆、厚手の半纏を羽織り、白い息を吐きながら荷下ろしに追われていた。
世界が、そしてステージが完全に変わったことを、その冷たい空気が皮膚感覚として告げていた。
人気のない桟橋の片隅で、潮崎は海軍少佐から預かった封筒を、たけへと差し出した。
「海軍の公式な予算から捻出した、最大限の誠意だ。しばらくは三流の宿で震える心配も、食い詰める心配もないはずだ」
封筒の中には、当時の大卒初任給の数十ヶ月分にも相当する、分厚い紙幣の束が収められていた。
たけはそれを無造作に受け取ると、羽織の袂に滑り込ませた。
「ありがとうございます。これで、私の『身辺の守り』が整えられますわ」
彼女はすぐさま、桟橋の近くにあった粗末な売店へと歩み寄り、店先に並んでいた雑誌を一冊買い求めた。大正の女性たちに絶大な人気を誇るグラフ誌、『淑女画報』の最新号である。
たけは、初冬の風の中でその真新しいページをパラパラとめくり、広告に目を細めた。
「まずは、中山太陽堂の『クラブ美顔白粉』。それに、平尾賛平商店の『乳白化粧水レート』を買い揃えねばなりませんね。着物はそう……矢絣の極上のお召に、舶来のパラソルを合わせましょうか」
潮崎は怪訝な顔をした。
「命からがら内地へ逃げ帰ってきたというのに、頭の中は流行の化粧と着物のことばかりか」
「あら、お分かりになりませぬか?」
たけは、雑誌から顔を上げ、冷ややかに潮崎を射抜いた。
「これは、女にとっての『装甲』であり『盾』なのですわ。最高級の白粉は、男の無躾な視線を弾き返す私の肌。そして、上質な薄色ちりめんの着物は、私が平和で贅沢な暮らしを手に入れるための、唯一無二の装いなのですよ。……私はこれから、この美しい装いを纏い、誰にも邪魔されない平穏な居場所を見つけるのです」
彼女の瞳には、野心というよりは、戦乱や貧困から永久に遠ざかりたいという、凄絶なまでの「安寧への執着」が宿っていた。そのために、彼女は自らを飾り立て、より強い男の庇護を求め続ける。それは、彼女なりの過酷な生存戦略であった。
さらに、彼女は『淑女画報』の巻末にある「愛読者の面影(文通欄)」のページを指先でなぞった。
「そして、これが私の『耳』です。最近の良家のお嬢様方は、こういう雑誌の投書欄を通じて、『エス(S)』と呼ばれる疑似姉妹の関係を結ぶのが大流行りなのです。……私はこれを使って、全国の華族や軍高官の令嬢たちに手紙を書き、優しくて美しい『お姉様』として近づきますわ」
たけの唇が、微かな弧を描いた。
「お嬢様たちは、男には決して言えない家庭内の不満や、お父様が酔ってこぼした世間話を、見知らぬ『お姉様』には喜んで手紙に書いて寄こします。……誰が誰と不仲か、誰がどこへ異動になるか。男たちが血眼になって暗号電報を解読するよりも早く、私は彼女たちの無防備なひそひそ話から、この国で穏やかに生き抜くための鍵を吸い上げるのです」
「……つくづく恐ろしい女だ。それで、手に入れた情報と美貌で、将来は本当に総理大臣の夫人にでもなるつもりか?」
潮崎が皮肉を込めて問うと、たけは風に乱れた髪を直しながら、静かに首を振った。
「お飾りの表舞台など、真っ平ご免です。私が欲しいのは、名誉でも権力でもありません。……ただ、誰にも脅かされず、温かい部屋で極上の料理をいただき、美しいものに囲まれて眠る。……そんな当たり前で、けれど最も手に入れがたい『平穏』を、この国の影に潜んで手に入れるだけですわ」
たけは、雑誌をしっかりと抱え直した。
「それでは、潮崎様。……またいつか、あなたがどなたかを殺し、私がどなたかに抱かれている頃にお会いいたしましょう」
彼女は深くお辞儀をすると、薄色ちりめんの羽織を冬の風に翻し、長崎の雑踏の中へと消えていった。
己の知性だけを武器に、帝国主義の荒波を回避し、静かな入り江を見つけようとする女の、それは新たなる旅立ちであった。
残された潮崎拓馬は、長崎の桟橋に立ち、深く白く息を吐き出した。
冷たい北風が、海軍の純白の軍装を激しく揺らす。
南洋の青い海で繰り広げられた、万年筆による優雅な侵略と、見えざる工作員との暗闘は、確かに一つの区切りを迎えた。
しかし、潮崎の胸中にあるのは勝利の美酒ではなく、鉛のような重苦しさであった。
冬の冷たい海風の中に微かに混じる大陸の硝煙の匂いと、遥か太平洋の彼方でうごめく『アメリカ』という巨獣の不気味な気配。
彼らは南洋の小島を手に入れたことで、確実にあの化け物の喉元に匕首を突きつけてしまったのだ。
特務機関員の冷徹な視線は、すでに南国のサンゴ礁を離れている。
彼の見据える先は、列強の思惑が泥のようにうごめく次なる殺戮と謀略の舞台――魔都・上海へと真っ直ぐに向けられていた。
*
同じ頃、大陸では誰も三味線を聞いていなかった。
済南から青島へと戻る、山東鉄道の列車の特別室。特命観戦武官・真崎勇気大尉は、窓の隙間から入り込む冷たい風に吹かれながら、一人の敗残兵と並んで車窓を見つめていた。青島の要塞で死闘の末に投降し、済南での軍事資産引き継ぎに立ち会わされて護送される途中の、ドイツ軍の将校である。
「……我々は、弾薬という『数字』を撃ち尽くしたから降伏した。だが、あなた方の軍隊は『弾薬が尽きても人間を撃て』と命じるのだろう。それは軍事ではなく、宗教ではないか」
敗者の、あまりにも冷徹な合理性。
だが真崎は、それを否定しなかった。否定できるはずもなかった。
「宗教なんて高尚なものじゃないさ」
真崎は低く応じた。
「終わらせるんだ。あの『考え方』を」
真崎の脳裏に、青島の泥濘で嗅いだ、あの粉っぽく甘やかな香水『ロリガン』の香りが蘇る。
大砲による物理的な殺し合いは終わった。
だが、東アジアに生じた巨大な空白を巡り、列強の思惑と裏社会の暴力が交錯するインテリジェンスの泥沼が、これから彼らを呑み込もうとしている。
真崎は、海霧に霞む大陸の輪郭を、無言で睨み続けた。
*
晩秋の帝都・東京。赤坂に建つ神林少将邸。
冷たい冬の雨が窓を打つ私室で、神林冴子は銀のペーパーナイフを操り、一通の封書を優雅に開封していた。
全国の令嬢たちから届く『エス』を求める手紙の山。その中に紛れ込んでいた、一際異質な手紙である。
便箋から漂うのは、帝都で流行の「クラブ美顔白粉」の香り。
だが、その甘い香りの奥に、どうしようもなく生々しい、熱帯の潮風と「生き抜くための剥き出しの生命力」の匂いが隠しきれずに張り付いていた。
(……見つけたわ。帝都の温室育ちのお姫様たちとは違う、本物の『生存本能』の匂い)
冴子は、手紙の末尾に記された端正な署名――『咲夜』という、夜の闇の中でもしたたかに咲き誇る毒花のような、いかにも女学生が憧れそうな艶やかなペンネームを指先でなぞった。
冴子は、深海のように冷たく美しい瞳を細め、艶やかな唇に悪女の笑みを浮かべた。
「ええ。喜んであなたのエスになってあげるわ、長崎の『咲夜』お姉様」
男たちが血と泥にまみれて陣取りゲームをしている裏で。
帝都と裏社会を繋ぐ、女たちの恐るべきインテリジェンス網が、今ここに密かに結線されたのである。
海、大陸、そして帝都。
三つの盤面で、影の奇兵隊が動き始めた。
上海では、七十五歳の老人が三味線を抱え、静かにその時を待っていた。
最後までお読みいただきありがとうございます。
※続きは明日19:40に更新予定です。
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