海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:yoshiume
第五十五話 二通の報告書
――上海の分室に戻って、三日が経つ。
「真実など補助事実に過ぎん」
三日間、真崎勇気は一行も書けずにいる。
机の上の白紙は、その言葉よりも正直だった。
大正三年(一九一四年)十一月下旬。上海、
大日本帝国陸軍の上海特務機関分室は、
真崎は机に向かい、万年筆を持ち、そして置いた。
それを三日間繰り返していた。
郷田中佐の命令は明確だった。
「公式記録は、歩兵の突撃による占領と書き換えろ。参謀本部の決定事項だ」
そして、腸《はらわた》が煮えくり返るほど冷静な補足が続いた。
「お前がまとめている火力戦のレポートは、内部資料として遺憾なく活用させてもらう。安心せよ」
内部資料。それは、永遠に陽の目を見ない書棚の肥やしを意味する言葉だった。
問題の核心は、郷田が「真実を知っている」ことにあった。
「大砲がコンクリートを割ったことなど、百も承知だ」と彼は言った。つまり郷田は馬鹿ではない。真実を理解した上で、それを予算と組織の論理のために握り潰す、極めて優秀な官僚なのだ。
真崎が憤るのは、嘘そのものではなかった。嘘をついている人間が、己の嘘を完璧に自覚している——その冷酷な構造に対してだった。
窓の外を見た。上海の十一月は東京より暖かいが、その分だけ霞が濃い。外灘の西洋建築の尖塔が、白い靄の向こうに輪郭だけを残している。だが真崎の目に映るのは、今もあの山東半島の情景だった。
ビスマルク砲台を吹き飛ばした四十五式二十四
机の足元に
それが「参謀本部の決定事項」の意味するところだった。
真崎は立ち上がった。
このまま机の前に座り続けても、白紙は白紙のままだ。
*
田辺武人《たなべたけひと》少佐の執務室は、分室の奥にあった。
正確には、執務室というより「読書室」だった。机の上には常に新聞が何紙か広げられ、田辺は椅子に深く沈み込んで、湯呑みを片手に紙面を眺めている。真崎が上海へ赴任した最初の日から、その姿はほとんど変わっていない。
変わらないのは姿勢だけではなかった。田辺の目の動きは、政治面から経済欄、軍事記事、欧州戦況の片隅の数字まで、一行も飛ばさない。
「邪魔します」
扉を押し開けると、田辺は紙面から顔を上げ、一瞬で真崎の顔色を読んだ。
「座れ」
それだけ言い、急須をもう一つの湯呑みへ傾けた。
真崎は報告書のことを話した。郷田の言葉も、野帳の中身も、三日間白紙のままの公式記録も、すべてを過不足なく。
田辺は新聞を脇へ寄せ、湯呑みを両手で持ったまま黙って聞いた。
話し終えると、少しの間、湯気だけが二人の間を漂った。
やがて、田辺は鼻からふっと息を吐いた。
「……つまり、お前は『二通』書くべきだと言いたいわけだ」
「その通りです」
「一通は軍務局と参謀本部が欲しがっている歩兵突撃の武勲譚。もう一通は、お前が
「はい。後者を、しかるべき人間の目に届けたい」
田辺は湯呑みをそっと置いた。
「その『しかるべき人間』というのが問題だな。軍務局や参謀本部の中に、お前の話を聞く耳を持っている奴が何人いると思う」
真崎は黙った。
「郷田の言う通りにすれば首が繋がる。真実のレポートを本省に直接叩きつければ、今度こそ上海どころか北海道送りだ」
「覚悟の上です」
真崎は、北海道ならむしろ行ってみたいくらいだ、とも思ったが、それは心の中にすぐにしまった。
田辺は煎餅を一枚取り上げ、バリリと噛んだ。その間、真崎を値踏みするような目で見ていた。
「わしとキイチは、陸士の同期だ」
静かに、しかし明確に言った。
「神崎毅一郎。軍務局長。今は少将様だ。わしが少佐止まりなのとは、出世の桁が違う」
一息置いた。
「キイチに直で出す。キイチの上は誰が知ってるか」
真崎は黙って先を待った。
「大島健一《おおしまけんいち》陸軍次官だ。そこまで報告が上がれば、少しは風向きが変わるんじゃないのか。お前のいう物理も火力も、必要だとな」
「田辺少佐殿——」
「『少佐殿』はやめろ。むず痒い」
田辺は新聞を一枚引き抜き、欧州大戦の戦況欄を真崎に向けた。ソンム、フランドル、マルヌ。紙面の端に押し込まれた戦死者数が、信じがたい規模の数字を並べている。
「わしは新聞読みだから分かる。欧州では今、野砲と機関銃が人間を工場で作るように殺している。あそこで白兵突撃の神学論争をやっている軍隊は、三ヶ月で消える。お前の見た物理の話は青島の土産話じゃない。欧州派兵の議論が始まった時、必ず要る」
「新聞しか読まない上官」と見える男が、実は「新聞のすべてを読んでいる」人間だと真崎は今気づいた。
田辺は新聞を折り畳んだ。
「わしにできることは、それだけだ」
真崎の胸の内で、何かが静かに熱を持った。
神崎中将から大島次官へ。正面突破ではなく、裏口から本省の扉を叩く道筋。確実とは言えない。だが、青島の泥の中で見た物理の事実が、少なくともこの上海の読書家の手を離れて、帝都の方角へ向かうことができる。
「……感謝します、少佐」
「少佐殿と言え。さっきそう言ったんだから」
田辺はそれだけ言い、また新聞を広げた。
*
深夜、真崎は机に向かった。
外では上海の夜が、黄浦江の汽笛とどこかの路地から漏れる
まず、公式報告書を書いた。郷田の命じた通りの内容。歩兵の銃剣突撃による占領。白兵主義の勝利。参謀本部が欲しがっている物語。万年筆は淀みなく動いた。嘘を書くのに感情は要らない。書き終えた紙を、傍らに置いた。
次に、新しい用紙を取り出した。
野帳を開く。弾道計算の数式、補給路の記録、着弾観測の座標。あの夜、氷点下の泥の中でロープを引いた工兵たちの汗と血が、文字の裏に滲んでいるような気がした。
万年筆を持った。止まらなかった。
「青島要塞は、火力と兵站によって陥落した」
一行目を書き終え、真崎は顔を上げた。
窓の外、上海の十一月の夜が、黄浦江の汽笛と路地の喧騒で満ちている。万年筆を持ち直し、二行目へ進んだ。
*
明け方近く、真崎は二通の報告書を書き終えた。
外の空気を吸おうと、分室の重い木の扉を押し開けた。
路地に、人影があった。
石畳に背を預け、男物の煙草を細く吹かしていた女が、顔を上げた。切れ上がった涼やかな目元が、驚いた様子もなく真崎を見た。
「……あなた、三日間もここに籠もっていたのね」
「最近、田辺少佐がやけに動いているから何事かと思って来てみれば」
彼女は煙草を石畳で踏み消した。高杉の手足として上海の表舞台を泳ぐこの女が、日本軍分室の動向を観察しているのはいつものことだ。それが今夜、真崎を捕まえた。
「何を書いていたの」
「報告書だ」
「一通ではなく」
断言だった。真崎は答えなかった。答えずとも、愛玲はすでに分かっている。
彼女は上着の
「田辺少佐が動く。神崎少将が動く。……面白くなってきたわね」
「お前には関係ない」
「全部関係あるのよ」
愛玲は上海の夜を一瞥し、背を向けた。
「帰ってきていたなら、早く拠点にも来なさい。マスターが退屈している」
その背中に、真崎は短く問うた。
「先生は今、何を考えている」
女は振り返らなかった。
「さあ。でも、あなたの書いたものが陸軍大臣、いや
霧の中に、白檀の煙が溶けた。
真崎は分室の扉を閉め、机に向かい直した。二行目を書き始めた。
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※続きは明日19:40に更新予定です。
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