海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:yoshiume

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第五十六話 帰還した冷徹

 四日目の朝、船員が来なかった。

 

 秋月慧は六時十分まで舷側に立ってから、甲板を離れた。待っていたわけではない。ただ六時十分になっていた。

 最初の三日間、船員は毎朝六時に現れた。「ご機嫌いかがでございましょうか、少佐殿」と言い、秋月が「変わらん」と答え、船員は「左様でございますか」と言って去っていく。そのやりとりに一語の変化もなかった。来なかった理由を考える気にはなれなかった。なぜ来ていたのかも、今更分からない。

 

 外套の内ポケットから一枚の紙を取り出した。ヴァンス卿が別れ際に渡した、表向きは船の食材仕入れリストという体裁の書類だ。最終行の数字の配列を、秋月は三日間で七回読んだ。意味は初回で分かった。六回は確認だった。

 

 山東鉄道の接収交渉は、どの角度から見ても日本側の優勢で終わった。

 だが、ヴァンス卿の最後の顔が引っかかっていた。負けた顔ではなかった。「次がある」という顔だった。英国人の「次がある」は信用していい。むしろそれが本題であることが多い。

 

 ヴァンス卿は別れ際、握手をしなかった。

 

 「また会いましょう、秋月少佐」とだけ言い、踵を返した。英国人が握手を省く時は、次の約束を確信している時だ——と秋月は三年の付き合いで学んでいた。そういう男だった。負けを認めた顔で、すでに次の手を打っている。

 

 秋月は紙をポケットへ戻した。

 

 上海に戻ったらオランダ商船の動きを確認しろ——そのメッセージだけは、読み取れた。ヴァンス卿が「見ておけ」と言うものを、見ておかない理由はない。

 黄浦江(こうほこう)の方角で、霧の向こうの空が白んでいた。

 

  *

 

 入港したのは昼前だった。

 

 桟橋に足を下ろした瞬間、秋月は立ち止まった。一歩だけ歩いて、また止まった。周囲を見回すことはしなかった。ただ、立っていた。

 

 港の何かが変わっている。

 荷役の中国人労働者の動きだ。バラバラに見えて、実は一定のリズムで動いている。誰かが見えないところで整えている動きだ。それから、倉庫の並びの端にある旧ドイツ系商館の建物が静かすぎる。閉まっているのではなく、「閉めさせられている」静かさだ。工部局警察の姿が、普段より少ない。

 

 二十秒で分かることが、三つあった。

 

 多くの青幇(チンパン)が港湾に入り込んでいる。速度は予想より速い。

 去年の上海はここまでではなかった。青島陥落でドイツが退いた後の「真空」に、誰かが素早く入り込んでいる。上海という街の主役交代は、常にこういう形で始まる。宣言なし、会議なし、ただ気づいたら別の誰かが立っている。

 

 荷役の列の端に、一人だけ荷物を持っていない男がいた。三十代、体格がいい。両手が空いていて、目だけが動いている。仕切り役だ。秋月は視線を外した。顔は見た。それで充分だった。

 

 倉庫の壁に「同仁洋行」の看板が新しく掛かっていた。先月はなかった。中国語で「同仁」は「同じ志の者」を意味する。洒落た名前をつける。

 

 「お帰りなさい、少佐」

 

 潮崎拓馬が三歩後ろに立っていた。海軍中尉の制服はきちんと着ているが、第二ボタンが微妙にずれている。本人は気づいていないらしかった。

 

「ああ」

「コーヒーでも」

「相変わらず気がきくな、いただこう」

 潮崎が一瞬だけ間を置いた。「……魔法瓶に入れてあります」

「では事務所で」

 

 二人は並んで歩き始めた。

「ヤンキーが鹿児島丸まで追いかけてきましたよ」

「で?」

「撒きました。たぶん」

「たぶんか」

「完全には、ちょっと」

 

 秋月は返事をしなかった。潮崎の「たぶん」と「ちょっと」の間に何があったかは、後で聞けばいい。今は港の空気の方が先だ。

 

「真崎大尉は」

「先週お戻りです。分室で報告書を書いています」

「そうか」

 

 それだけだった。

 

  *

 

 海軍側の事務所は外灘(バンド)から路地を二本入った建物の二階にある。窓から黄浦江の水面が見えた。

 

 潮崎が地図を広げた。港湾から青幇支配地域、共同租界の境界線まで、細い線が何本も引かれている。

 

「先月から動きが出ています。ここと、ここと」

「絵が下手だな」

「すみません」

「だが分かる」

 

 潮崎は一瞬だけ口を開きかけて、閉じた。また開いた。「ありがとうございます」と言った。

 

 秋月は潮崎が机の上に置いた魔法瓶を取り、蓋を外した。黒い湯気が細く立ち上る。一口含んだ。苦い。ちょうどいい温度だった。

 

「陸軍の田辺少佐が動いている。どういう動き方かは分かるか」

「田辺少佐のラインは陸軍内の話なので、我々には見えにくいです」

「そうだ。だから我々は別のラインで動く」

 

 秋月は人差し指で地図の一点を押さえた。黄浦江の河口に近い、商船の停泊域だ。

 

「オランダ商船の動きを追え。入港記録、荷物の内容、接触する人間のリスト。二週間分まとめろ」

「オランダ、ですか」

「ヴァンス卿から宿題をもらってきた」

 

 潮崎はまた何か言いかけて、止めた。今度は「分かりました」と短く答えた。学習している。

 

 「もう一つ」秋月は地図から目を上げず言った。「港湾の荷役の中で、仕切っている人間を一人特定しろ。組織の末端でいい。顔が分かれば十分だ」

 

「接触しますか」

「しない。見るだけだ」

 

 潮崎が地図に何かを書き込んだ。秋月はもう一口、コーヒーを飲んだ。

 

  *

 

 書類の山は秋月の留守中も積み上がっていた。

 

 東京からの傍受報告、租界内の治安情報、各国商館の動向まとめ、英国海軍省からの照会文書。秋月は束をいくつかに分けて順番を入れ替えながら、必要なものを右に、後回しでいいものを左に仕分けていった。机の横の椅子に潮崎が座って、自分の報告書を書いている。二人とも無言だった。この沈黙は心地よい種類の沈黙だと秋月は思った。余計なことを喋る部下は疲れる。

 

 潮崎が地図の余白に何かを書き込みながら、報告を続けた。

 

「港湾の旧ドイツ系商館、三棟が先週から無人になっています。管理人も消えました。荷物だけ残っています」

「中身は」

「食料と、薬品類が少し。逃げた時に置いていったものです」

「写真は撮ったか」

「はい」

 

 秋月は書類から目を上げなかった。逃げた者の残した荷物は、行き先を語る。食料を置いていくのは、短期間で戻るつもりがない証拠だ。薬品を置いていくのは、それより急いでいた証拠だ。ドイツ系の民間人が何かを嗅ぎつけて、上海を離れている。

 

 三十一枚目で、手が止まった。

 

 オランダ商社の入港予定表だった。素っ気ない事務書類で、船名と積荷の種別と入港予定日が三列に並んでいる。書類の種類としては珍しくない。だが、この束に混じっているのはおかしい。東京からの傍受報告の束の末尾に、一枚だけ挟まれていた。

 

 誰かが意図的に置いた。

 

 秋月は書類を窓際に持っていった。外光で透かしても、透かし文字はない。匂いも、特にない。紙の質はオランダ系商社で使う標準的なもの。印刷の具合も正規品と変わらない。

 

 書類を机に戻し、署名欄を見た。

 

 van der Bijl(ファン=デル=ベイル)。

 

 筆記体で、流れるように書かれていた。インクの乾き方から見て、書かれたのは少なくとも一週間以上前だ。秋月が青島にいる間に、ここへ届いていた。

 

 書類を机に戻した。署名をもう一度だけ見た。元の位置に戻した。

 

「少佐、その書類、誰が置いたか気になりますか」

「ならない」

「左様で」

 

 潮崎が立ち上がり、地図を丸めた。足音が階段を降りていった。

 秋月は魔法瓶を傾けた。残りが少ない。最後の一口を飲み干してから、窓の外に目をやった。

 

 黄浦江の水面が鈍く光り、その先に霧が溜まっていく。




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