海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:yoshiume

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第五十七話 外灘の風向き

 工部局警察の提灯が、北四川路の夜を区切っていた。

 石畳に男が倒れている。四十前後、外套の下の靴が西洋仕立てだ。

 

 真崎勇気は立ち止まらずに通り過ぎた。

 

 数名の巡査が大通りの封鎖に当たり、野次馬を遠ざけている。人だかりの外縁を一瞥した。片方の靴が石畳の隙間に転がり、片方は足首に残っている。

 一歩横の路地の入口には、巡査が一人もいない。

 

 上海はそういう街だ。大通りでは工部局が管轄し、路地に一歩踏み込めば別の法律が支配する。犯人などとうに消えていた。路地の奥の、どこかの|弄堂(ロンタン)の闇に溶けた後だろう。

 

 封鎖線を抜けて先へ進みながら、真崎は「青島の前夜に似ている」と思った。

 

 あの夜も空気はこういう質感だった。湿って、重くて、誰かが息を潜めている気配。何かが始まる前の、あの沈黙。

 だが今夜は違う、と打ち消した。あの夜は、自分に仕事があった。

 

   *

 

 十一月下旬の上海の夜は、東京より暖かい。だが肌への纏わりつき方が違う。真崎はゆっくりと共同租界の方角へ歩いた。

 

 青島から上海へ戻って今日で六日になる。

 分室の机には二度座り、野帳(スケッチ)の清書を済ませた。田辺との最後のやりとりが、まだ頭に残っている。

 

「少し赤を入れてキイチに送っておいたぞ。経緯説明も俺の字で入れた」

「少佐は赤を入れてくれる方だったんですね」

「むず痒いことを言うな」

 

 神林少将への密書は田辺の手を離れた。届くかどうかは別の話だ。

 

 だが一度も、高杉の拠点には足を向けなかった。

 (高杉先生に合わす顔がない)——正直に言えば、それだけだった。

 

 三日前、愛玲(アイリィン)に分室前の路地で捕まった。一言残して消えた女の白檀の匂いが、まだ上着に残っている気がする。

 

 立ち止まり、外灘(バンド)の方角を一秒だけ見た。石造りの洋館のシルエットが、黄浦江(こうほこう)の霧の向こうに滲んでいる。

 愛玲のためにも――今夜行こう。

 

   *

 

 骨董店の看板を過ぎ、裏手の路地を入った。地下へ降りる石段は三段目だけが少し欠けている。来るたびに同じ場所に躓きそうになる。

 

 扉をノックする前に、内側から開いた。

 

「よく来たわね」

 

 愛玲が扉の陰に立っていた。白檀の煙と、低い三味線の音が外へ漏れてくる。

 

「おかえりなさい、ユウキ」

 

 白い顔が、静かにこちらを見ていた。責めてもいない、慰めてもいない、ただあるがままを受け取る目だった。その目に六日分の後ろめたさを全部測られた気がして、真崎は短く「ああ」とだけ返した。中に入った。

 

 書斎には先客がいた。

 高杉ではない。

 

 男は六十代と見えた。上海の華人でも、日本人でも、英国人でもない。上下ともシャツとズボンという実用一点張りの格好だが、布地はいいものだ。両腕の袖はまくり上げられ、手首の上に革のカバンが置かれている。医師のカバンだ。

 

 その男が、高杉の右手首を指先で静かに押さえていた。

 

 真崎は扉のところで立ち止まった。値踏みの目は隠さなかった。

 

 高杉は座椅子に深く座り、三味線を脇に置いている。目を閉じてもいないし、力を抜いているわけでもない。ただ、その男に手を取られることを当然のこととして受け入れていた。

 

 七十五歳の老人と、見知らぬ白人男性の間に流れている空気は、商売上の礼儀でも崇拝者と対象の関係でもなかった。対等の距離だ、と真崎は思った。それが最初の違和感だった。

 男が顔を上げた。

 

「あなたが大尉ですか」

 

 日本語だった。流暢に過ぎるほど流暢で、わずかに巻き舌の訛りがある。

「先生からよくお話を伺っています。ヘンドリック・ファン・スミットといいます。医師です」

 

 真崎は一礼だけした。「高杉先生と、どのような」

 

 高杉が低く言った。「長崎の頃からの知己じゃ。三十年以上になるかの、ヘンドリック」

「三十二年です」

 

 男は高杉の手首を離し、小さな手帳に何かを書き留めながら答えた。訂正を入れる声に、遠慮がない。

 

「先生が長崎の本石灰町(もとしっくいまち)にいた頃からです」

 真崎はひとつ呼吸を置いた。それから、ようやく名乗った。「真崎勇気と申します」

 

 ヘンドリックはその名を聞くと、手帳から顔を上げて真崎をしばらく眺めた。眉を寄せ、首を傾げ、やがて言った。

 

「顔色が悪い。目の下に隈もある。戦地から帰ったばかりですね。診ましょうか」

「結構です」

「遠慮しなくていいですよ。先生の拠点に出入りする方は皆さん——」

「結構です」

 

 愛玲が奥から茶器を運びながら、感心したように言った。「断ったのはあなたが初めてよ」

「……そうなんですか」

「ここに来る人たちは大抵、先生に押し切られて診てもらっています」

 ヘンドリックはあっさりと手帳を閉じた。「では遠慮しておきます。ただ、あまり無理をしないように。顔がそう言っています」

 

 真崎は返す言葉がなかった。

 

 愛玲が「警戒しすぎよ」と言った。

「初対面だ」

「それは私も同じだったけれど」

 

 ヘンドリックは二人のやりとりを気にした様子もなく、改めて高杉に向き直った。「先生、また弦を押さえすぎていますね。左の薬指の|胼胝(タコ)が悪化しています」

 

「これしか楽しみがないからのう」

「そういうことを言う患者に限って、無茶をする」

「お主に言われたくない。先月のナイフは誰が取り出してくれたのじゃ」

「私が何も言わなければ、先生は自分でやろうとしていたでしょう」

 高杉はわずかに口の端を上げた。「……いかにも」

 

 真崎は壁際に立ったまま、それを聞いていた。三十年の年月が詰まった軽口だった。二人の間に積み重なってきたものが、説明なしに伝わる会話だった。

 

 ヘンドリックが立ち上がり、革のカバンを取った。金具を留めながら、淡々と高杉に告げた。「今月は無理をしないように。脈は安定していますが、気温が下がれば血の巡りに影響します。三味線を弾くのなら、暖めてからにしてください」

「承知した」

「承知したと言って聞いたことは一度もありませんが」

「そこは聞いた気になっておけ」

 ヘンドリックは小さく息を吐いた。医師特有の諦観と、それでもやめない親しみが混じった、静かな吐息だった。

 

 帰り支度を整え、カバンを持って入口へ向かった。

 扉に手をかけたところで、彼は立ち止まった。振り返らずに言った。

 

「高杉先生、エレノアからよろしくとのことです。ベイル卿もお元気で、先生のことをよく話しておられると……令嬢も、先生を懐かしんでおられる」

 

 地下の室内に、沈黙が落ちた。

 

 高杉は三味線を手に取り、弦を一度だけ弾いた。低い音が、石の壁に吸い込まれていく。チン、と澄んでいて、底のある音だった。

「あの娘もそんな歳になったか」

 声に、今まで聞いたことのない質感があった。「父親そっくりの目をしておる。……上海の泥を、まだ覚えておるかの」

 

 ヘンドリックは何も付け加えなかった。扉を閉めて去った。

 

 足音が石段を上り、遠ざかっていく。

 真崎は「エレノアとは誰だ」と問おうとした。問わなかった。

 

 アイリィンと目が合った。彼女も何も言わなかった。知らない顔をしていた——のではなく、知らない顔をしている、と真崎には見えた。その違いが何を意味するのかは、分からなかった。

 

 高杉は三味線の弦の上に指を止めたまま、動かなかった。

「真崎」

「はい」

「遅かったの」

 

 責めているのではなかった。ただ事実を確認する声だった。

「申し訳ありません」

「謝ることなど何もない」

 

 老人は眼を開け、真崎を見た。

「座れ。話がある」




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※続きは明日19:40に更新予定です。
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