海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:yoshiume
工部局警察の提灯が、北四川路の夜を区切っていた。
石畳に男が倒れている。四十前後、外套の下の靴が西洋仕立てだ。
真崎勇気は立ち止まらずに通り過ぎた。
数名の巡査が大通りの封鎖に当たり、野次馬を遠ざけている。人だかりの外縁を一瞥した。片方の靴が石畳の隙間に転がり、片方は足首に残っている。
一歩横の路地の入口には、巡査が一人もいない。
上海はそういう街だ。大通りでは工部局が管轄し、路地に一歩踏み込めば別の法律が支配する。犯人などとうに消えていた。路地
封鎖線を抜けて先へ進みながら、真崎は「青島の前夜に似ている」と思った。
あの夜も空気はこういう質感だった。湿って、重くて、誰かが息を潜めている気配。何かが始まる前の、あの沈黙。
だが今夜は違う、と打ち消した。あの夜は、自分に仕事があった。
*
十一月下旬の上海の夜は、東京より暖かい。だが肌への纏わりつき方が違う。真崎はゆっくりと共同租界の方角へ歩いた。
青島から上海へ戻って今日で六日になる。
分室の机には二度座り、
「少し赤を入れてキイチに送っておいたぞ。経緯説明も俺の字で入れた」
「少佐は赤を入れてくれる方だったんですね」
「むず痒いことを言うな」
神林少将への密書は田辺の手を離れた。届くかどうかは別の話だ。
だが一度も、高杉の拠点には足を向けなかった。
(高杉先生に合わす顔がない)——正直に言えば、それだけだった。
三日前、
立ち止まり、
愛玲のためにも――今夜行こう。
*
骨董店の看板を過ぎ、裏手の路地を入った。地下へ降りる石段は三段目だけが少し欠けている。来るたびに同じ場所に躓きそうになる。
扉をノックする前に、内側から開いた。
「よく来たわね」
愛玲が扉の陰に立っていた。白檀の煙と、低い三味線の音が外へ漏れてくる。
「おかえりなさい、ユウキ」
白い顔が、静かにこちらを見ていた。責めてもいない、慰めてもいない、ただあるがままを受け取る目だった。その目に六日分の後ろめたさを全部測られた気がして、真崎は短く「ああ」とだけ返した。中に入った。
書斎には先客がいた。
高杉ではない。
男は六十代と見えた。上海の華人でも、日本人でも、英国人でもない。上下ともシャツとズボンという実用一点張りの格好だが、布地はいいものだ。両腕の袖はまくり上げられ、手首の上に革のカバンが置かれている。医師のカバンだ。
その男が、高杉の右手首を指先で静かに押さえていた。
真崎は扉のところで立ち止まった。値踏みの目は隠さなかった。
高杉は座椅子に深く座り、三味線を脇に置いている。目を閉じてもいないし、力を抜いているわけでもない。ただ、その男に手を取られることを当然のこととして受け入れていた。
七十五歳の老人と、見知らぬ白人男性の間に流れている空気は、商売上の礼儀でも崇拝者と対象の関係でもなかった。対等の距離だ、と真崎は思った。それが最初の違和感だった。
男が顔を上げた。
「あなたが大尉ですか」
日本語だった。流暢に過ぎるほど流暢で、わずかに巻き舌の訛りがある。
「先生からよくお話を伺っています。ヘンドリック・ファン・スミットといいます。医師です」
真崎は一礼だけした。「高杉先生と、どのような」
高杉が低く言った。「長崎の頃からの知己じゃ。三十年以上になるかの、ヘンドリック」
「三十二年です」
男は高杉の手首を離し、小さな手帳に何かを書き留めながら答えた。訂正を入れる声に、遠慮がない。
「先生が長崎の
真崎はひとつ呼吸を置いた。それから、ようやく名乗った。「真崎勇気と申します」
ヘンドリックはその名を聞くと、手帳から顔を上げて真崎をしばらく眺めた。眉を寄せ、首を傾げ、やがて言った。
「顔色が悪い。目の下に隈もある。戦地から帰ったばかりですね。診ましょうか」
「結構です」
「遠慮しなくていいですよ。先生の拠点に出入りする方は皆さん——」
「結構です」
愛玲が奥から茶器を運びながら、感心したように言った。「断ったのはあなたが初めてよ」
「……そうなんですか」
「ここに来る人たちは大抵、先生に押し切られて診てもらっています」
ヘンドリックはあっさりと手帳を閉じた。「では遠慮しておきます。ただ、あまり無理をしないように。顔がそう言っています」
真崎は返す言葉がなかった。
愛玲が「警戒しすぎよ」と言った。
「初対面だ」
「それは私も同じだったけれど」
ヘンドリックは二人のやりとりを気にした様子もなく、改めて高杉に向き直った。「先生、また弦を押さえすぎていま
「これしか楽しみがないからのう」
「そういうことを言う患者に限って、無茶をする」
「お主に言われたくない。先月のナイフは誰が取り出してくれたのじゃ」
「私が何も言わなければ、先生は自分でやろうとしていたでしょう」
高杉はわずかに口の端を上げた。「……いかにも」
真崎は壁際に立ったまま、それを聞いていた。三十年の年月が詰まった軽口だった。二人の間に積み重なってきたものが、説明なしに伝わる会話だった。
ヘンドリックが立ち上がり、革のカバンを取った。金具を留めながら、淡々と高杉に告げた。「今月は無理をしないように。脈は安定していますが、気温が下がれば血の巡りに影響します。三味線を弾くのなら、暖めてからにしてください」
「承知した」
「承知したと言って聞いたことは一度もありませんが」
「そこは聞いた気になっておけ」
ヘンドリックは小さく息を吐いた。医師特有の諦観と、それでもやめない親しみが混じった、静かな吐息だった。
帰り支度を整え、カバンを持って入口へ向かった。
扉に手をかけたところで、彼は立ち止まった。振り返らずに言った。
「高杉先生、エレノアからよろしくとのことです。ベイル卿もお元気で、先生のことをよく話しておられると……令嬢も、先生を懐かしんでおられる」
地下の室内に、沈黙が落ちた。
高杉は三味線を手に取り、弦を一度だけ弾いた。低い音が、石の壁に吸い込まれていく。チン、と澄んでいて、底のある音だった。
「あの娘もそんな歳になったか」
声に、今まで聞いたことのない質感があった。「父親そっくりの目をしておる。……上海の泥を、まだ覚えておるかの」
ヘンドリックは何も付け加えなかった。扉を閉めて去った。
足音が石段を上り、遠ざかっていく。
真崎は「エレノアとは誰だ」と問おうとした。問わなかった。
アイリィンと目が合った。彼女も何も言わなかった。知らない顔をしていた——のではなく、知らない顔をしている、と真崎には見えた。その違いが何を意味するのかは、分からなかった。
高杉は三味線の弦の上に指を止めたまま、動かなかった。
「真崎」
「はい」
「遅かったの」
責めているのではなかった。ただ事実を確認する声だった。
「申し訳ありません」
「謝ることなど何もない」
老人は眼を開け、真崎を見た。
「座れ。話がある」
最後までお読みいただきありがとうございます。
※続きは明日19:40に更新予定です。
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