海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
ヘンドリックの足音が、石段を上り、遠ざかっていった。
扉が閉まる音がした。
地下の室内に、三人が残った。
高杉晋作は三味線を膝に置いたまま、動かなかった。愛玲は壁際の影の中に、気配を消して立っている。聞いているのか、聞いていないのか、判然としない立ち方だった。
真崎勇気は、老人の向かいに座った。
外套の膝に手を置いた。落ち着いているように見えるかどうかは分からなかった。久しぶりにこの地下室に来た。石の壁の染みも、棚に並んだ古い書物の背表紙も、ほとんど変わっていない。変わったのは自分の方だ、と真崎は思った。変わったのか、それとも変わり損ねたのか。
高杉はしばらく黙っていた。
沈黙は真崎を試しているのではなかった。ただ老人は、言葉を選ぶのに急がなかった。
やがて、言った。
「
真崎は口を開きかけて、閉じた。謝罪の言葉が喉の奥にあった。六日間、この男に合わせる顔がないと思い続けた、その言葉が。だが高杉は、それを言わせなかった。先を越された、と真崎は気づいた。
「田辺の男は面白い動き方をする」と高杉は続けた。「大島次官まで届けば、陸軍の中に小さな火が灯る。消えるかもしれん。だがお前が書いた数字は、一度どこかに刻まれた」
「しかし公式記録は——」
「公式記録など、後から書き直せる。お前の
真崎は返す言葉がなかった。
六日間、重石のように腹の底に溜まっていたものが、音もなく消えていた。謝罪する機会を奪われると、人はこんなにも間抜けな顔をするのだろうと思った。
高杉が三味線の弦を、ゆっくりと一度だけ爪弾いた。低い音が石の壁に吸い込まれていく。
「先生、それは今必要ですか」
「手が寂しいんじゃ」
愛玲が壁際で、かすかに息を吐いた。笑ったのかもしれなかった。
*
「これからの話をする」と高杉は言った。
三味線を脇に置き、真崎を見た。七十五年分の眼だった。
「田辺のラインは一本目じゃ。もう一本要る」
「もう一本、とは」
「陸軍だけでは動かん。海軍を巻き込め。正確には——海軍は既に動いておる。お前が知らんだけじゃ」
真崎は「秋月か」と思った。口には出さなかった。
「お前は青島で何を見た」
突然の問いだった。
「火力です。砲が要塞を壊す現場を見ました。白兵では落とせないものを、砲が落とした」
「欧州ではその百倍の規模でそれが起きておる」高杉は静かに言った。「マルヌ、イープル——聞いているだろう。塹壕の中で人間が砲弾の下に埋まっておる。帝国陸軍はそれを自分の目で見ておらん。だから分からんのじゃ」
「見せに行けと」
「派兵じゃ。欧州への」
以前、高杉から構想は聞いていた。
だが青島の前と後では、同じ言葉の重さが違った。
泥濘の中で聞いた砲声、あの振動の百倍が欧州にある。
頭で理解していたものが、腹に落ちた、という感覚だった。
欧州派兵。日本の陸軍が、アジアを離れ、欧州の塹壕へ向かう。前例のない話だ。陸軍省の会議室でそれを提案すれば、百人中百人が頭を振るだろう。精神論者たちは「帝国陸軍を欧州の代理戦争に使うな」と叫ぶ。予算派は「輸送コストだけで何年分の軍費か」とソロバンを弾く。
だが青島で真崎が見たものは、その議論を一変させうる数字だった。欧州の砲戦を実際に経験した部隊が帰ってくれば、参謀本部の白兵主義論者たちに対抗できる生きた証拠が生まれる。
「イギリスが頼んでくるはずじゃ。頼まれる前に、こちらから条件をつけて動く。その条件の中に、火力近代化の約束を入れる」
高杉は続けた。「帝国陸軍を欧州の戦場へ向けること。それが田辺ラインの先にある仕事じゃ。青島で見たものを、今度は欧州で見る。そのためにお前は生きて上海に戻ってきた」
真崎は静かに、しかし確かに、背筋が伸びていく感覚があった。
青島で証明した火力の記録が、帝都の陸軍参謀本部で握り潰された。それを欧州で再び証明する。今度は日本軍が当事者として戦場に立つことで。そういうことか、と真崎は理解した。
命令ではなかった。高杉の語り方は常にそうだ——「そういうことになっておる」という口調で、選択の余地があるように見せながら、実は選択肢が一つしかないことを先に決めてある。
「エレノアとは誰ですか」
真崎が聞いた。
高杉は少し間を置いた。
「オランダの貴族じゃ。そのうち会うことになる」
「なぜ今は教えてくれないのですか」
「知らん方が、初めて会った時に正直な顔ができる。お前の顔は嘘をつけん」
それ以上は教えなかった。真崎は問うのをやめた。情報の出し方まで計算している男だ、と分かっていた。分かっていて、まだ腹が立った。腹が立つことも、おそらく計算の内だろうと思った。
「秋月少佐には話してあるのですか」
「あやつは自分で気づく。お前も自分で気づくことになっておる」
「それはなんとも都合のいい……」
「そうじゃ」
高杉は微かに笑った。七十五年分の皺が動いた。「お前たちが気づいた時に、わしが仕掛けた盤面と同じ絵が見えておれば、話が早い。それだけじゃ」
高杉は三味線に手を戻した。話が終わったということだ。
真崎が立ち上がり、外套を手に取った。
*
石段を上る前に、真崎は無線室の前で鞄を下ろした。
「黒石、戻ったぞ。青島ビールだ。土産だ」
黒石が机から振り返った。「……大尉殿。お帰りでしたか。えっと、それはここでも飲めますよ。大尉殿もよく飲んでましたよね……」
「そうだよな」
真崎は瓶を棚に置いた。代わりに木箱を取り出した。「こっちが本題だ。ドイツ軍の可搬式無線機——だと思う」
黒石がすさまじい速度で立った。近づいた。蓋を開けた。
三秒、沈黙した。
「テレフンケン社の最新型真空管と、同調器の心臓部……!」声が一段変わった。「奴ら、降伏前に徹底破壊したはずじゃ。大尉殿、どこで」
「瓦礫の底から掘り出してきた。使えるか」
「使えます! 周波数帯が——いや変換器が——いえその前に防水処理を——」
「明日聞く」
「三十分だけ!」
真崎は足を止めずに石段側へ向かった。扉の隙間から、実験室の匂いがした。
「井川」
「はいっ」井川が顔を出した。
小さな革袋を放った。「青島の拾い物だ。クルップ社製の遅延信管。……不発弾から抜いてきた」
井川が受け取った。中を見た。眼鏡の奥の目が細くなった。
「……遅延信管、一〇七型」声が低くなった。熱狂とは違う、本物の静けさだった。「この設計、私が三年前から仮説で立てていた構造です。ドイツ人が実用化していたとは」
「役に立つか」
「立ちます。ありがとうございます」
珍しく、まっすぐ礼を言った。
次の瞬間、実験室に駆け込んでいた。
扉が閉まる音がした。
真崎は「そうか」と言って、石段を上った。
*
愛玲が石段のそばで待っていた。見送るつもりらしかった。
二人で石段を上り、骨董店の裏の路地に出た。十一月の夜気が頬に当たった。三段目の石が欠けていた。来るたびに躓きそうになる。今夜は躓かなかった。なぜか少し悔しかった。
真崎は夜空を見上げながら言った。
「高杉先生にはイギリスにもオランダ貴族にも繋がりがある。山縣元帥の兄弟子でもある。……俺が必要な理由が、正直まだ分からない」
愛玲は少し考えた。煙草を取り出し、火をつけようとして、やめた。
「さあ。ただ——老いというのは、あなたが思っているより残酷らしいわ。マスターのような人でも、自分一人では動かせないものがある。それだけは確かみたい」
「具体的には」
「三味線が弾けなくなる日が来る、とか」
真崎は少し黙った。「それは比喩か」
「半分ね」
真崎は路地の石畳を見た。
「お前は、それを先生から聞いたのか」
「ううん。見ていて分かっただけ」
愛玲が煙草に火をつけた。白檀とは違う、薄い煙が夜気に溶けていく。
真崎は「そうか」と言った。それだけだった。
共同租界の方から、鐘の音が遠く聞こえた。何時を打ったのかは数えなかった。
「一つ聞いていいか」
「なに」
「お前は、先生の描く世界がどこへ向かうか、分かっているのか」
愛玲はしばらく黙った。煙草の火が夜気の中で小さく揺れた。
「全部は知らない」彼女は言った。「でも——マスターが三味線を置く日のために動いている、ということは分かってる」
「三味線を置く日」
「引退じゃないわ。もっと別の意味で」
それ以上は言わなかった。
真崎は外套の襟を立て、路地を出た。
愛玲は見送らなかった。先に中へ戻った。
石段の下で、三味線の音が、また一度だけ鳴った。
今度は少し、長く響いた。
少しだけ解説を。
高杉が口にした「イープル」は、1914年10〜11月に起きた第一次イープル会戦のことです。英独両軍合わせて二十万人以上が死傷し、この戦いをもって西部戦線の塹壕線がほぼ固定されました。「動く戦争」が終わった瞬間です。
青島で真崎が目撃した砲撃戦は、その縮小版に過ぎません。欧州では同じことが、文字通り「百倍の規模」で起きていました。
最後までお読みいただきありがとうございます。
※続きは明日19:40に更新予定です。
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