海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
「よぉ、柏木。こんな夜更けに何の用だ。軍務局の坊ちゃんには縁のない場所だぞ」
参謀本部の暗号室で、当直将校が欠伸を噛み殺しながら顔を上げた。陸大時代の同期である。
大正三年(一九一四年)六月半ばの深夜。石造りの厚い壁は夜の冷気をたっぷりと吸い込み、室内には特有の重苦しい空気が立ち込めている。
「急ぎの調べ物だ。神林局長が、明日の予算折衝で欧州の最新の数字をお求めでな」
「それと、これは夜食代わりだ」
調査書の下から、封筒が一通、机の上を滑っていく。
同期は怪訝な顔で封を覗き込み、それから目の色を変えた。
中に入っていたのは、写真の絵葉書が三枚。羽根飾りのほかは何ひとつ身につけていない西洋の踊り子が、片脚を高々と上げて、こちらに笑いかけている。
「……おい。これ、パリのか」
「ムーラン・ルージュの踊り子だ。ロンドンの古本屋で、三枚一組で売っていた」
「お前、こんなものを英国から――」
「声が大きい」
同期は封筒を引き出しの奥へ押し込み、咳払いを一つした。
「……綴りはあそこの棚だ。勝手に見ていけ。俺は何も見ておらん」
「話が早くて助かる」
同期が引き出しを気にしながら書類に目を落としたのを確かめると、柏木は棚へ歩いた。
表向きは兵器調達の統計資料を開きながら、指は別の分厚い綴り――「欧州情勢・特秘電信綴」の脇の屑籠へ伸びる。丸められた使用済みのカーボン紙を一枚拾い、皺を伸ばして、白熱電球に透かした。
タイプライターが打ち抜いた白抜けの文字が、反転した鏡文字となって浮かび上がる。英国留学時代、暗号解読の演習で散々慣れた読み方である。
――サライェヴォ。皇太子の訪問予定。セルビア民族主義者の不穏な動向。異常なまでの警戒態勢。
カーボン紙を折り畳み、軍服の内懐へ滑り込ませた、まさにその直後だった。
カツン、カツン、チャリ……。
背後の廊下から、
「……柏木大尉。こんな深夜に、他局の人間がここで何をしている」
暗号室長・
柏木の心臓が、肋骨を突き破りそうなほど跳ね上がった。
(バレたか……ッ)
それでも、靴の踵を鳴らして振り返ったときには、完璧な角度の敬礼ができていた。
「はっ。神林軍務局長の特命により、欧州各国の兵站の数字を抜き出しておりました」
東島は柏木を頭の先から足元までねめ回し、決裁書の印章を確かめた。
一秒。二秒。三秒――。
柏木は、数えるのをやめた。数えていると、顔に出る。
そのとき、東島の目が、ふと当直の机に移った。
引き出しが、指一本ぶん開いている。その隙間から、封筒の角と、白い脚が一本はみ出していた。
「……当直。それは何だ」
同期の顔から、血の気が音を立てて引いていく。
柏木は、半歩前へ出た。
「はっ。それも、欧州の資料であります」
「これのどこが資料だ」
「フランス陸軍の、士気の源泉に関する資料であります。敵を知るには、まずその娯楽から、と申しまして」
東島は封筒から絵葉書を一枚引き抜き、しばらく黙って眺めていた。
「……フランスは、敵ではないが」
「失礼しました。味方を知るには、であります」
東島は、もう一枚めくった。口の端が、じわりと緩んでいく。
「なるほどな。こいつは、俺が預かっておく」
にやにやと笑いながら、東島は封筒ごと懐に収め、踵を返した。
(くそっ……。スケベ親父の東島室長に、ぶん取られてしまった……)
「夜遅くまで、ご苦労だな。励め」
「はっ。お気遣い痛み入ります」
足音が遠ざかってから、柏木はようやく長く息を吐き、冷や汗を手の甲で拭った。
「……柏木」同期が、空になった引き出しを見つめたまま呻いた。「俺の、踊り子が」
「尊い犠牲だ。局長の特命のな」
*
「……遅かったな、真崎」
参謀本部の地下廊下。ジリジリと瞬く煤けた電球の下で、柏木は折り畳んだ紙束を差し出した。本来なら焼却炉で灰にされるべき、海外電報の写しである。
「こいつを抜くのには、流石に骨が折れたぞ。高くもついた」
「高く?」
「絵葉書が三枚だ」
「何の絵葉書だ」
「聞くな」
柏木は、火のついていない煙草を指先でくるりと回した。
「それより、真崎。罠だ」
「何がだ」
「お前が国防方針の研究発表で、大がかりな上申を企てていること。郷田はとっくに知っている。泳がせて、発表の場で自爆させて、合法的に三宅坂から追放する腹積もりだ。上申書を投げれば、確実に潰される」
「承知の上だ」
真崎勇気は即答した。
柏木は短く息を吐き、顎で紙束をしゃくった。
「なら、それを読んでおけ。公式の週報には絶対に載らない、欧州の真実だ」
真崎は電球の光を頼りに、写しの文字を追った。
バルカン半島の小都市サライェヴォ。セルビア民族主義者たちの不穏な動向。オーストリア当局の過敏なまでの警戒。そして六月二十八日、オーストリア皇太子フランツ・フェルディナントのサライェヴォ訪問予定――。
「……もし、ここで皇太子が撃たれたら」
「オーストリアがセルビアを殴る。セルビアの後ろにはロシアがいる。ロシアが動けば、ドイツが動く。ドイツが動けば、フランスとイギリスが動く」
柏木は、火のついていない煙草で、宙に鎖の輪をひとつずつ描いてみせた。
「ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟と、イギリス・フランス・ロシアの三国協商。どこか一つが撃たれたら、鎖でつながった全部が動く仕組みだ」
(……さっきの踊り子の国も、な)
「止める者は」
「いない。止めれば、同盟を裏切ったことになる」
真崎の手が、微かに震えた。
「……柏木。お前、なぜ俺にこれを渡す」
「さあな」柏木はしばらく黙った。「ただ……目指す方向が同じ気がしているだけだ」
「俺を動かそうとしているのか」
「お前は動かされるような男じゃない」
「この電報の話だけじゃなく、何か知っているな」
「よせ」
柏木は短く、しかし明確に遮った。
「今夜はその話じゃない」
真崎は電報の写しを懐にねじ込み、暗闇の中の友を見据えた。
「……たとえ罠であろうと、俺はこの火中の栗を拾う」
「結構なこった」
*
六月下旬。梅雨空の下、陸軍省二階の小会議室で、軍務局の若手幕僚による「次期国防方針」の研究発表が開かれていた。「天保銭」を胸に輝かせるエリートたちが、上司の顔色を窺いながら無難な自説を述べる、儀礼的な場である。
「――以上の観測から、欧州における力の均衡は、今や一触即発の臨界点に達していると推察いたします」
その淀んだ空気を、真崎の声が鋭く切り裂いた。
上座の軍務局長・神林毅一郎は目を閉じ、その隣の郷田中佐は、飛んで火に入る夏の虫を見るような、冷酷な嘲笑を口元に浮かべている。
(さあ、存分に吠えろ。それが貴様の命取りになる)
「バルカンにおける民族の激突は、列強間の同盟という鎖を通じて、瞬時に全欧州を『自動動員』の渦へと引きずり込むでしょう。その時、戦場を支配するのは、兵士の個別の勇猛さではありません。機関銃による火力の自動化と、それを絶え間なく支える工業生産力――すなわち、国家そのものを巨大な粉砕機に変える『総力戦』の現実であります」
真崎は一呼吸置き、正面の郷田を真っ直ぐに見据えた。
「我が陸軍の誇る『大和魂』は、否定すべきものではありません。しかし……それは銃を握る指を支え、一歩前へ進む勇気を与えるものであっても、飛来する七十五ミリ砲弾を跳ね返す装甲にはなり得ないのです」
*
その瞬間、郷田の脳裏に泥の匂いが蘇った。
明治三十七年(一九〇四年)夏。旅順要塞、第一回総攻撃。
ロシア軍の機関銃陣地から、鉄の雨が弧を描いて降り注いでいた。隣を走っていた小松が、声も上げずに地面に倒れた。頭の上の部分が、消えていた。前を走っていた堀内が、膝から崩れた。腸が、泥の上に青白く広がった。
それでも郷田は走った。
転んだ。泥を顔面で受けた。また立ち上がって走った。銃剣を握る手が震えていた。足が言うことを聞かなかった。それでも走った。叫んだ。喉が引き裂けるほど叫びながら、鉄条網を踏み越えた。
そして生き残った。
郷田は生き残り、小松と堀内は還らなかった。
なぜ自分が生き残ったのか、郷田には理由が分からなかった。分からなかったから、理由を作った。俺は叫んだから生き残った。走り続けたから生き残った。精神が折れなかったから生き残った――そう信じることでしか、あの泥の上に残してきた二人に、向き合う言葉がなかった。
(跳ね返す装甲、か)
郷田は、発表台の真崎を静かに見つめた。
(貴様は、旅順の泥を知らない。だから、そんな言葉が出る)
*
「――真崎大尉。貴公の発表は、なるほど緻密ではある」
郷田が、薄い笑みを浮かべて口を開いた。
「だが、貴公の言葉からは、血の匂いがせん。我が陸軍の精華は、装備の多寡にあるのではない。命を以て国恩に報いんとする、至高の精神性にあるのだ。それを『跳ね返せない装甲』などと卑近な例えで揶揄するのは、陸軍の魂への冒涜ではないかね」
(血の匂いなら、知っている。父は、旅順の泥から帰ってこなかった)
「私は現実を述べているのです!」
真崎は一歩も引かなかった。
「精神論という名の心地よい毛布にくるまって、迫りくる鋼鉄の嵐を無視する。それは、将来の戦場で死んでいく数万の将兵に対する背信ではありませんか。大和魂が重要であるからこそ、それを無駄死にさせてはならないのです!」
「無礼だぞ、真崎大尉!」
「局長の前で、何をッ……! 分をわきまえぬ発言を!」
色めき立つ天保銭組を制するように、神林が静かに手を挙げた。
「……真崎大尉。貴公の分析、興味深く聞いた」
神林の声には、賞賛の中に、切り捨てる者特有の冷ややかな静けさが混じっていた。
「だが、残念ながら、今の帝国陸軍に貴公の正論を容れる『器』はない。……この上申書は、今後の陸軍設計の重要資料として、私が預かっておこう」
それは、真崎という異端の歯車が、巨大な官僚組織の壁に無残に弾き飛ばされた瞬間であった。
*
翌朝。
暗号室長・東島大佐は、執務室の電話を取り上げ、神林の直通番号を静かに回した。
その会話の内容は、どこにも記録されなかった。
*
その日の午後、真崎は局長室に呼ばれた。
机の上に、辞令が一枚置かれている。
『参謀本部付 上海駐在ヲ命ズ』
「表向きは栄転だ」
神林は、窓の外を見たまま言った。
「上海は、列強の租界と、
神林の脇に控えていた郷田が、辞令を真崎のほうへ押しやった。
「真崎よ。良い機会だ。良く見聞してくるように」
郷田の目は、いつかの朝、廊下で振り返ったときと同じ色をしていた。
しかし、真崎の瞳に灯った青い炎は、三宅坂の暗い廊下で、より一層強く、静かに燃え上がっていた。
魔都・上海。そこには彼の盟友・
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