海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:吉田梅之助

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第五十九話 換気口(前)

 同日の夕刻。

 

 旧ドイツ系商館の裏倉庫は、青島陥落の翌月から主を失っていた。租界の中で書類手続きが進まないまま放置された建物は、気づけば別の主が使っている。上海はそういう街だ。

 

 劉鏑(リュウ・ディ)は、薄暗い倉庫の中央に立っていた。

 

 香炉(シャンルゥ)が椅子に座って煙草を吸っていた。本名、沈伯英(チンハクエイ)――青島(チンタオ)でもフランソワ・コワティ、ロリガンの香水を漂わせていた男だ。右腕を三角巾で固定していた。青島で負った銃創はまだ完全には塞がっていない。

 

「次の上海担当のドイツ高官、誰になると思う」

 

 唐突な問いだった。

 

 劉鏑は一拍置いた。「……クラウス参事官の後任でいえば、フォン・ブレマー少佐ではないでしょうか。青島からの引き揚げ組で、まだ上海に残って――」

 

「馬鹿かお前は」

 

 乾いた音がした。劉鏑の頭を、香炉の手のひらが叩いた。重くはない。だがその軽さが、重さより屈辱だった。

 

「そっちの派閥はもういねぇんだよ。青島で負けた時点で、ベルリンから切られてる」

「へ、へい……すみません」

 香炉は煙草を長く吸った。「次の担当はフィッシャー商会のバウアーだろうが。民間の顔して動いてる。……んで、お前の次の仕事は何だ。何するつもりだ」

 

(かしら)

 

 劉鏑が切り出した。珍しく、自分から口を開いた。「高杉のじじいの場所は割れてるんでしょう。俺が突っ込みますよ」

 

 香炉は煙草を吸ったまま、劉鏑を見た。

 

「お前、死ぬ覚悟あんのか」

「……あります」

「あそこは一筋縄じゃいかねぇぞ」香炉は静かに言った。「俺がまだ手をつけてない理由、考えたことあんのか」

 

 劉鏑は一瞬、口を開きかけた。

 

「……ああ」

 

 もう一発、乾いた音がした。

 

「ああ、じゃねんだよ。アホか、おまえは」

「……はい」

「やるんなら勝手にしろ」香炉は煙草を床に落とし、踏み消した。「だが完全防備、最大人数でいけ。正面の扉には触れるな。換気口と、隣の壁だ。死ぬな」

 

 倉庫を出ていく背中を、劉鏑はしばらく見ていた。

 頭がまだ、じんとしていた。だがそれとは別に、腹の奥に火が灯っていた。

 

   *

 

 夜が深くなった。

 

 高杉拠点の北側。隣の空き家との境界。レンガ壁の外側。

 前夜から二人の男が交代で壁を削り続けていた。

 仰々しい工具は使わない。湿らせた布を当てて、スコップと手で少しずつ剥がす。

 音を殺すためだ。十二時間かければレンガ一列分が抜ける。それで十分だ。

 男たちは一言も喋らなかった。交代する時だけ、指で合図した。

 

 同夜。高杉拠点。地下――

 B2の廊下は南北に走っている。北東が無線室、廊下を挟んだ西側に実験室、廊下の奥の南が書斎だ。

 

 李河(リーホォ)は昼に出た。敵方の拠点を下見してくる、とだけ言った。上海から少し遠出になるかもしれない、とも。

 愛玲は引き止めなかった。引き止めるべきだったかどうかは、今は考えなかった。

 李河が「外に出る」と言う時は、たいてい何かある。だがその「何か」を聞き返したことは一度もない。それが拠点の流儀だった。

 

 黒石透は無線室にいた。

 深夜の受信作業は単調だ。各国商館の業務通信、港湾の気象連絡、時折混じる暗号らしき断片。

 それらを書き取り、分類し、気になるものにだけ印をつける。今夜は三件に印がついた。

 東京からの定時通信がそろそろ来る時間だ。黒石は電鍵に手を乗せ、待った。

 

 井川修平は実験室で計算書を広げていた。

 前回の爆弾実験では摩擦係数の算出に誤りがあった。今回の新型は炸薬量を二倍に増やし、起爆角度の修正値を計算し直してある。完璧なはずだ。今回こそは。

 

 高杉晋作は書斎の座椅子で目を閉じていた。三味線は膝の上にある。弾いていない。ただ、置いている。

 

 愛玲(アイリィン)が廊下の突き当たりを曲がった時だった。

 書斎は廊下の奥だ。ここが塞がれれば、高杉に届く道はない。

 

 音がした。

 音ではない。気配だ。

 床ではない。壁の下だ。

 拠点の北側――隣の空き家との境界レンガ壁の、足元から。

 かすかな、砂の擦れる音だった。

 

   *

 

 北側の換気口の鉄格子が、内側から外れた。

 無線室の北壁、地面すれすれの位置だ。

 前夜から外側の土を少しずつ掘り、鉄格子の固定具を緩めておいた。音もなく、抵抗もなく、格子が外れた。

 

 一人目が這い込んだ。

 体の薄い男だ。両肩を縮めてすり抜け、室内に立つまで三秒とかからない。二人目、三人目と続く。

 

 黒石は気づかなかった。受信機の方向を向いていた。

 

 最初の男が立ち上がり、黒石の真後ろに立った。

 

 「動くな」

 

 黒石が振り返った瞬間、両腕を後ろから抑えられた。

 受信紙が床に散らばった。東京からの定時通信が始まりかけた電鍵が、空白のまま鳴り続けた。

 

 黒石は一拍だけ静止した。

 

 体術で勝てる道理はない。それは分かっていた。

 だが右手だけは、まだ自由だった。

 送信ボタンへ指を伸ばした。腕を踏みつけられる一瞬前に、押した。

 三点、三点、三点。それだけでいい。真崎への緊急打電だった。

 

   *

 

 廊下で愛玲が動いた。

 

 無線室に三人。廊下の向こう、書斎方向へ向かう足音の気配。換気口からはまだ入ってくる気配もある。

 愛玲は足音を殺して壁際を走り、角の手前で止まった。

 

 最初の二人が曲がってきた。

 愛玲は踏み込んだ。一人目の顎に肘を入れて崩した。鈍い音がして、男が壁にもたれて滑り落ちた。

 

「グッ――」

 

 崩れた体を盾にして、二人目の視線を一瞬遮る。その隙に膝を顎に入れて制した。手首を返して壁に叩きつける。

 

 二人とも動かなくなった。

 息を吐いた。

 

 三人目が無線室から廊下へ出てきた。

 

(ジュア)!――」

 

 愛玲は振り返りざまに掌底を喉元に入れた。男が崩れた。

 三人。

 

 静かになった――と思った一瞬に、北の壁が崩れた。

 

 轟音だった。

 レンガの粉塵が廊下に吹き込んだ。白い霧のように広がる粉塵の中から、人が出てくる。一人、二人、三人。

 

 (二段階だ)と愛玲は瞬時に読んだ。(換気口組で注意を引いて、壁を破って別の角度から入る)

 

「囲め!」

 

 誰かが叫んだ。

 

 一人目が踏み込んできた。愛玲は一歩引いて腕を取り、体重を乗せて床に崩した。

 

「ガッ――」

 

 二人目が横から来た。サイドステップでかわして、肘を後頭部に入れた。倒れる前に壁へ向けて押した。壁に顔が当たった。

 

 三人目が同時に来た。愛玲は半身でかわし、首に腕を回して床に落とした。

 

「ゲェッ――」

 

 六人が床に伏した。

 愛玲は廊下の中央で呼吸を整えた。

 全員、刃物を持っていない。先発の駒だ。体力削り役か。

 

   *

 

<i1180218|51376>

 

 壁の穴の向こうから、新しい足音が来た。

 粉塵の向こうに、一人だけ違う立ち方をしている男がいた。

 

 劉鏑(リュウ・ディ)だ。長衫(チャンシャン)の袖を通していた。武器は持たず、ただ立っていた。

 その後ろに四人。今度の四人は手に短刀を構えている。動きが揃っている。先発組とは違う。

 

 「女一人だ」と劉鏑は静かに言った。「囲んで疲弊させろ。殺してもいい」

 

 愛玲は廊下の中央に立ったまま、四人を見た。

 腕が少し重い。六人分の疲労がある。

 息を吐いた。

 

 四人が同時に来た。連携の取れた動きだった。

 愛玲は右にずれて一人目の刃を(かわ)したが、二人目の刃が脇腹を浅く切った。

 

 切り傷だ。深くはない。だが今夜最初の血だった。

 

 構わなかった。一人目の腕を取って崩した。三人目の蹴りを左腕で受けた瞬間、四人目の刃が肩を掠めた。

 二箇所目。左腕が、少し言うことを聞かなくなった。

 

(届かない)

 

 愛玲は一歩、後ろへ下がった。

 長衫の合わせに、左手を入れた。

 胸の谷間の下側からメリケンサックを抜き出した。

 冷たい真鍮の指輪が、指の関節にはまった。指を握り込んだ。

 

 一人目が刃を振り上げてきた。

 愛玲は右手で受けた。

 

 カキーン、と乾いた金属音が廊下に響いた。

 

 刃が真鍮に弾かれた。男が一瞬、目を見開いた。

 

 「武器持ってるぞ!」

 

 その隙に、左の拳で顎を打ち上げた。

 鈍い音ではなかった。重い、骨に響く音だった。男が後ろに吹き飛んで、壁にぶつかって崩れた。

 

 「グワッ――」

 

 二人目が刃を突き出してきた。愛玲は半身で躱し、左の拳を脇腹に叩き込んだ。

 真鍮の重みが拳の威力を二倍にする。男が膝から崩れた。

 劉鏑が舌打ちした。「構わん、押せ」

 

 長衫の脇のスリットから右手をスカートの内側へ滑り込ませた。

 太ももの外側に、ガーターベルトでダガーが固定されている。

 鞘から抜いた。十五センチほどの薄い刃が、灯りを反射した。

 

 ここからは、削るための戦いではない。傷つけて、止めるための戦いだ。

 

 三人目が踏み込んできた。

 愛玲は左のメリケンで刃を弾き、右のダガーで手首を斬った。

 腱を切る角度だった。短刀が床に落ちた。男が膝をついた。

 

 四人目が背後から来た。

 愛玲が振り返るより速く、男が腕を引いた。

 刃が背中を掠めた。三箇所目だ。息の吐き方が変わった。

 振り返りざまに、ダガーを四人目の太ももに刺した。深くは刺さなかった。動きを止めるためだ。男が床に倒れた。

 

 だが、四人目が倒れる瞬間に、刃を愛玲の腹部に押し込んだ。

 深い。四箇所目。

 

 息が止まった。

 愛玲は膝をついた。

 

(まだ、一人も書斎に届かせてはいない)

 

 ダガーを握ったまま、立ち上がりかけた。

 立ちきれなかった。

 

 四人目の隣に倒れている三人目が、最後の力で短刀を振り上げた。愛玲の背中を狙った。

 愛玲は振り返りざまに、メリケンの拳で三人目の側頭部を打ち抜いた。

 

 自分の方は、体が言うことを聞かなくなった。

 

(マスタ——)

 

 倒れた。

 

 石の床に頬がついた。

 ダガーはまだ、指の中にあった。

 視界の端に、伏した男たちの輪郭が見えた。

 十人。全員、自分が落とした。

 

(ァ——)

 

 それだけだった。

 

 劉鏑が愛玲の体を一瞥した。

 長衫の腹が、黒く濡れていた。倒れた男たちが十人、廊下に敷き詰められている。

 

「……化け物め」

 

 それだけ言って、先へ歩いた。

「放っておけ。もう戦えん。書斎の爺さんの方が大事だ。行くぞ」

 

 壁の穴から、また足音が来た。

 今度は新たな増援だろうか。




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