海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
同日の夕刻。
旧ドイツ系商館の裏倉庫は、青島陥落の翌月から主を失っていた。租界の中で書類手続きが進まないまま放置された建物は、気づけば別の主が使っている。上海はそういう街だ。
「次の上海担当のドイツ高官、誰になると思う」
唐突な問いだった。
劉鏑は一拍置いた。「……クラウス参事官の後任でいえば、フォン・ブレマー少佐ではないでしょうか。青島からの引き揚げ組で、まだ上海に残って――」
「馬鹿かお前は」
乾いた音がした。劉鏑の頭を、香炉の手のひらが叩いた。重くはない。だがその軽さが、重さより屈辱だった。
「そっちの派閥はもういねぇんだよ。青島で負けた時点で、ベルリンから切られてる」
「へ、へい……すみません」
香炉は煙草を長く吸った。「次の担当はフィッシャー商会のバウアーだろうが。民間の顔して動いてる。……んで、お前の次の仕事は何だ。何するつもりだ」
「
劉鏑が切り出した。珍しく、自分から口を開いた。「高杉のじじいの場所は割れてるんでしょう。俺が突っ込みますよ」
香炉は煙草を吸ったまま、劉鏑を見た。
「お前、死ぬ覚悟あんのか」
「……あります」
「あそこは一筋縄じゃいかねぇぞ」香炉は静かに言った。「俺がまだ手をつけてない理由、考えたことあんのか」
劉鏑は一瞬、口を開きかけた。
「……ああ」
もう一発、乾いた音がした。
「ああ、じゃねんだよ。アホか、おまえは」
「……はい」
「やるんなら勝手にしろ」香炉は煙草を床に落とし、踏み消した。「だが完全防備、最大人数でいけ。正面の扉には触れるな。換気口と、隣の壁だ。死ぬな」
倉庫を出ていく背中を、劉鏑はしばらく見ていた。
頭がまだ、じんとしていた。だがそれとは別に、腹の奥に火が灯っていた。
*
夜が深くなった。
高杉拠点の北側。隣の空き家との境界。レンガ壁の外側。
前夜から二人の男が交代で壁を削り続けていた。
仰々しい工具は使わない。湿らせた布を当てて、スコップと手で少しずつ剥がす。
音を殺すためだ。十二時間かければレンガ一列分が抜ける。それで十分だ。
男たちは一言も喋らなかった。交代する時だけ、指で合図した。
同夜。高杉拠点。地下――
B2の廊下は南北に走っている。北東が無線室、廊下を挟んだ西側に実験室、廊下の奥の南が書斎だ。
愛玲は引き止めなかった。引き止めるべきだったかどうかは、今は考えなかった。
李河が「外に出る」と言う時は、たいてい何かある。だがその「何か」を聞き返したことは一度もない。それが拠点の流儀だった。
黒石透は無線室にいた。
深夜の受信作業は単調だ。各国商館の業務通信、港湾の気象連絡、時折混じる暗号らしき断片。
それらを書き取り、分類し、気になるものにだけ印をつける。今夜は三件に印がついた。
東京からの定時通信がそろそろ来る時間だ。黒石は電鍵に手を乗せ、待った。
井川修平は実験室で計算書を広げていた。
前回の爆弾実験では摩擦係数の算出に誤りがあった。今回の新型は炸薬量を二倍に増やし、起爆角度の修正値を計算し直してある。完璧なはずだ。今回こそは。
高杉晋作は書斎の座椅子で目を閉じていた。三味線は膝の上にある。弾いていない。ただ、置いている。
書斎は廊下の奥だ。ここが塞がれれば、高杉に届く道はない。
音がした。
音ではない。気配だ。
床ではない。壁の下だ。
拠点の北側――隣の空き家との境界レンガ壁の、足元から。
かすかな、砂の擦れる音だった。
*
北側の換気口の鉄格子が、内側から外れた。
無線室の北壁、地面すれすれの位置だ。
前夜から外側の土を少しずつ掘り、鉄格子の固定具を緩めておいた。音もなく、抵抗もなく、格子が外れた。
一人目が這い込んだ。
体の薄い男だ。両肩を縮めてすり抜け、室内に立つまで三秒とかからない。二人目、三人目と続く。
黒石は気づかなかった。受信機の方向を向いていた。
最初の男が立ち上がり、黒石の真後ろに立った。
「動くな」
黒石が振り返った瞬間、両腕を後ろから抑えられた。
受信紙が床に散らばった。東京からの定時通信が始まりかけた電鍵が、空白のまま鳴り続けた。
黒石は一拍だけ静止した。
体術で勝てる道理はない。それは分かっていた。
だが右手だけは、まだ自由だった。
送信ボタンへ指を伸ばした。腕を踏みつけられる一瞬前に、押した。
三点、三点、三点。それだけでいい。真崎への緊急打電だった。
*
廊下で愛玲が動いた。
無線室に三人。廊下の向こう、書斎方向へ向かう足音の気配。換気口からはまだ入ってくる気配もある。
愛玲は足音を殺して壁際を走り、角の手前で止まった。
最初の二人が曲がってきた。
愛玲は踏み込んだ。一人目の顎に肘を入れて崩した。鈍い音がして、男が壁にもたれて滑り落ちた。
「グッ――」
崩れた体を盾にして、二人目の視線を一瞬遮る。その隙に膝を顎に入れて制した。手首を返して壁に叩きつける。
二人とも動かなくなった。
息を吐いた。
三人目が無線室から廊下へ出てきた。
「
愛玲は振り返りざまに掌底を喉元に入れた。男が崩れた。
三人。
静かになった――と思った一瞬に、北の壁が崩れた。
轟音だった。
レンガの粉塵が廊下に吹き込んだ。白い霧のように広がる粉塵の中から、人が出てくる。一人、二人、三人。
(二段階だ)と愛玲は瞬時に読んだ。(換気口組で注意を引いて、壁を破って別の角度から入る)
「囲め!」
誰かが叫んだ。
一人目が踏み込んできた。愛玲は一歩引いて腕を取り、体重を乗せて床に崩した。
「ガッ――」
二人目が横から来た。サイドステップでかわして、肘を後頭部に入れた。倒れる前に壁へ向けて押した。壁に顔が当たった。
三人目が同時に来た。愛玲は半身でかわし、首に腕を回して床に落とした。
「ゲェッ――」
六人が床に伏した。
愛玲は廊下の中央で呼吸を整えた。
全員、刃物を持っていない。先発の駒だ。体力削り役か。
*
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壁の穴の向こうから、新しい足音が来た。
粉塵の向こうに、一人だけ違う立ち方をしている男がいた。
その後ろに四人。今度の四人は手に短刀を構えている。動きが揃っている。先発組とは違う。
「女一人だ」と劉鏑は静かに言った。「囲んで疲弊させろ。殺してもいい」
愛玲は廊下の中央に立ったまま、四人を見た。
腕が少し重い。六人分の疲労がある。
息を吐いた。
四人が同時に来た。連携の取れた動きだった。
愛玲は右にずれて一人目の刃を
切り傷だ。深くはない。だが今夜最初の血だった。
構わなかった。一人目の腕を取って崩した。三人目の蹴りを左腕で受けた瞬間、四人目の刃が肩を掠めた。
二箇所目。左腕が、少し言うことを聞かなくなった。
(届かない)
愛玲は一歩、後ろへ下がった。
長衫の合わせに、左手を入れた。
胸の谷間の下側からメリケンサックを抜き出した。
冷たい真鍮の指輪が、指の関節にはまった。指を握り込んだ。
一人目が刃を振り上げてきた。
愛玲は右手で受けた。
カキーン、と乾いた金属音が廊下に響いた。
刃が真鍮に弾かれた。男が一瞬、目を見開いた。
「武器持ってるぞ!」
その隙に、左の拳で顎を打ち上げた。
鈍い音ではなかった。重い、骨に響く音だった。男が後ろに吹き飛んで、壁にぶつかって崩れた。
「グワッ――」
二人目が刃を突き出してきた。愛玲は半身で躱し、左の拳を脇腹に叩き込んだ。
真鍮の重みが拳の威力を二倍にする。男が膝から崩れた。
劉鏑が舌打ちした。「構わん、押せ」
長衫の脇のスリットから右手をスカートの内側へ滑り込ませた。
太ももの外側に、ガーターベルトでダガーが固定されている。
鞘から抜いた。十五センチほどの薄い刃が、灯りを反射した。
ここからは、削るための戦いではない。傷つけて、止めるための戦いだ。
三人目が踏み込んできた。
愛玲は左のメリケンで刃を弾き、右のダガーで手首を斬った。
腱を切る角度だった。短刀が床に落ちた。男が膝をついた。
四人目が背後から来た。
愛玲が振り返るより速く、男が腕を引いた。
刃が背中を掠めた。三箇所目だ。息の吐き方が変わった。
振り返りざまに、ダガーを四人目の太ももに刺した。深くは刺さなかった。動きを止めるためだ。男が床に倒れた。
だが、四人目が倒れる瞬間に、刃を愛玲の腹部に押し込んだ。
深い。四箇所目。
息が止まった。
愛玲は膝をついた。
(まだ、一人も書斎に届かせてはいない)
ダガーを握ったまま、立ち上がりかけた。
立ちきれなかった。
四人目の隣に倒れている三人目が、最後の力で短刀を振り上げた。愛玲の背中を狙った。
愛玲は振り返りざまに、メリケンの拳で三人目の側頭部を打ち抜いた。
自分の方は、体が言うことを聞かなくなった。
(マスタ——)
倒れた。
石の床に頬がついた。
ダガーはまだ、指の中にあった。
視界の端に、伏した男たちの輪郭が見えた。
十人。全員、自分が落とした。
(ァ——)
それだけだった。
劉鏑が愛玲の体を一瞥した。
長衫の腹が、黒く濡れていた。倒れた男たちが十人、廊下に敷き詰められている。
「……化け物め」
それだけ言って、先へ歩いた。
「放っておけ。もう戦えん。書斎の爺さんの方が大事だ。行くぞ」
壁の穴から、また足音が来た。
今度は新たな増援だろうか。
最後までお読みいただきありがとうございます。
※続きは明日19:40に更新予定です。
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