海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
短点が三つ。短点が三つ。短点が三つ。
真崎勇気は報告書の清書を止めた。
机の引き出しの奥に仕込んだ小型受信機。陸軍の公式回線とは別の、奇兵隊専用の周波数だ。誰にも知られてはならない。田辺にも。同僚の参謀にも。
その受信機が、今夜初めて音を立てた。
黒石の鍵だ。打鍵のクセで分かる。
真崎の手が止まった。
扉の向こうで田辺の声がした。「真崎、まだいるか」
真崎は受信機を素早く引き出しに戻した。鍵をかけた。
「はい、おります」
扉を開けた。田辺が廊下に立っていた。手に書類の束を持っていた。
「おい、どっか行くのか」
真崎は外套を既に手にしていた。一瞬、答えに詰まった。
「は、郵便を出す期限を忘れておりまして。急ぎ、間に合わせたく」
田辺は真崎の顔を一秒見た。郵便のためにそんな顔をする男はいない、と田辺の目は語っていた。だが田辺は何も追及しなかった。
「……大事なんだろう。早く行け」
「ありがとうございます!」
「今度この資料の翻訳頼むぞ」田辺が書類を軽く振った。
「はっ! いくらでもやります!」
真崎は廊下を走り抜けた。
間に合うか、と思った。
思いながら、すでに走っていた。
間に合わせるしかなかった。
*
同刻、高杉拠点。地下――
壁の穴から流れ込んだ第三段が廊下を進んでいた。
倒れている
「爺さんは絶対殺すな。無線技師もだ。あとで情報を抜く」
愛玲は廊下の壁際に倒れている。呼吸はあった。目は開いていない。
廊下の半ば、実験室の扉の前で劉鏑は立ち止まった。
「お前たちはここに残れ。化学者が出てきたら殺していい。だが部屋の中に入る時は銃器は控えろ。爆発物があるかもしれん」
二人を残して、先へ進んだ。
書斎の扉の前に来た。
「ここにも二人。何があっても扉から離れるな。退路を断て」
二人が扉の左右に立った。
劉鏑は残りの男たちとともに、書斎の扉に手をかけた。
扉が、内側から開いた。
一寸。二寸。
廊下の奥へ、銃口が向いた。
ル・マット・リボルバーが二発、続けて鳴った。
廊下で男が倒れた。
扉が閉じた。
廊下に静寂が落ちた。
*
無線室で黒石透は両腕を後ろに抑えられていた。
受信機の前に押さえつけられている。見張りの男たちが取り囲んでいた。
一人が無線機を見下ろした。
「トーキョーからの定時通信か」
受信紙の束を掴んだ。電鍵の上で空白のまま鳴り続けていた信号が、紙の上に印字されかけていた。
男はその受信機を、床に叩きつけた。
東京から届いていた紙ごと、粉砕された。
黒石の頭の中で、何かが切れた。
論理。観測。記録。数字。それが黒石の戦場だ。感情ではない。
だが、東京から届いていた紙だった。
黒石の右手が動いた。
予備の通信機器の金属ケースが、手の届くところにあった。
掴んだ。
無線機を壊した男の頭を、それで殴った。
「っ――」
男が膝をついた。
黒石の両腕を押さえていた別の男が、黒石を床に叩きつけた。頭部が石の床に打ちつけられた。視界が白んだ。
もう一発、後頭部を蹴られた。
それでも黒石は、破れた受信紙の一枚を手で押さえた。
東京からの打鍵だと分かる部分が、滲んだインクの中に残っていた。
誰が打ったかは、署名がなくても分かる。
黒石は受信紙を、手のひらの中に握り込んだ。
そのまま、手を開かなかった。
男たちが黒石の両脇を抱えた。
書斎の方向へ引きずっていった。
*
実験室の中。
井川修平は扉の前に重い実験机を押し付けたまま、床に座り込んでいた。
扉の鍵はかけてある。外の音は全て聞こえていた。
さっき、扉をほんの一寸だけ開けて廊下を覗いた。
愛玲の位置を確認して、手製の小型爆弾を投げた。声は出さなかった。
爆弾は廊下の左壁に当たり、跳ね返り、実験室の方向へ戻ってきた。
即座に扉を閉め、鍵をかけ、机を引きずって扉に押し付けた。
それから爆発した。
天井の一部が落ちた。机が揺れた。鍵は外れなかった。
「……炸薬量は完璧だったのに」
誰にも聞かれない声で呟いた。
扉の向こうで足音がした。二人分だ。立ち止まって動かない。
井川は机の陰に深く潜り込んだ。膝が震えていた。
計算書を引き寄せて、膝の上に広げた。数字を見ていれば、少し落ち着く。
*
劉鏑は書斎に入った。
書斎の中央にある座椅子に、高杉晋作が座っていた。
廊下に二発撃った。そのまま書斎へ戻り、座椅子に深く腰を落とした。
ル・マット・リボルバーを膝の脇に置き、三味線を手に取っている。弾かない。ただ、持っている。
爆風で崩れた壁の粉塵が、書斎の奥まで届いていた。天井の隅が落ちている。
その粉塵の中で、座椅子だけが、別の空間のように無傷だった。
黒石を引きずってきた男たちが、黒石を壁際に座らせた。意識はない。呼吸はある。
頭部から血が出ている。右目の周りが腫れ始めていた。
それでも黒石の手は、受信紙の切れ端を握り込んだままだった。
誰が打ったかは分かっている。だから離せなかった。
劉鏑が口を開いた。
「老人さん」
声は静かだった。「廊下の女、無線室の若いの。どちらもまだ呼吸している。この先どうなるかは、あんた次第だ」
高杉は答えなかった。
三味線を、静かに脇へ置いた。
*
高杉が立ち上がった。
七十五歳の老人の立ち方ではなかった。
重心が真下に落ちていた。肩から力が抜けている。腰の高さが少し下がった。それだけだった。それだけのことで、高杉の体の輪郭が変わった。
右手を腰の脇に運んだ。
刀の柄に、指がかかった。
その瞬間――
書斎の空気が、止まった。
灯りの揺らぎが止まった。煙が立ち止まった。
半壊した壁から落ちかけていた漆喰の粉が、空中で動きを止めたように見えた。
錯覚ではなかった。書斎にいる全員が、無意識に呼吸を止めていた。
誰かが踏み込めば、何かが起きる。
その「何か」が、刀の柄に集まっていた。
劉鏑だけが、その空気の正体を、半分だけ理解していた。
残りの男たちは理解していなかった。
理解できないまま、足が動かなかった。
高杉が指の腹で柄を一度撫でた。
――カチリと、鞘走りの音がした。
薄い刃が、半壊した書斎の灯りを反射した。
劉鏑が、初めて半歩、後ろへ引いた。
最後までお読みいただきありがとうございます。
※続きは明日19:40に更新予定です。
★投票・ブックマークいただけると今後の執筆においてこれ以上ない大きな励みになります。