海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書―   作:吉田梅之助

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第六十話 換気口 (後)

 短点が三つ。短点が三つ。短点が三つ。

 

 真崎勇気は報告書の清書を止めた。

 机の引き出しの奥に仕込んだ小型受信機。陸軍の公式回線とは別の、奇兵隊専用の周波数だ。誰にも知られてはならない。田辺にも。同僚の参謀にも。

 

 その受信機が、今夜初めて音を立てた。

 黒石の鍵だ。打鍵のクセで分かる。

 真崎の手が止まった。

 

 扉の向こうで田辺の声がした。「真崎、まだいるか」

 

 真崎は受信機を素早く引き出しに戻した。鍵をかけた。

「はい、おります」

 扉を開けた。田辺が廊下に立っていた。手に書類の束を持っていた。

「おい、どっか行くのか」

 真崎は外套を既に手にしていた。一瞬、答えに詰まった。

「は、郵便を出す期限を忘れておりまして。急ぎ、間に合わせたく」

 

 田辺は真崎の顔を一秒見た。郵便のためにそんな顔をする男はいない、と田辺の目は語っていた。だが田辺は何も追及しなかった。

「……大事なんだろう。早く行け」

「ありがとうございます!」

「今度この資料の翻訳頼むぞ」田辺が書類を軽く振った。

「はっ! いくらでもやります!」

 

 真崎は廊下を走り抜けた。

 

 虹口(ゴンコゥ)の路地を抜けながら、真崎は計算した。分室から拠点まで、走って十五分。潮崎を拾えば、二人で二十分。三点三点三点が来た時刻から、もう五分は経っている。

 間に合うか、と思った。

 思いながら、すでに走っていた。

 間に合わせるしかなかった。

 

 

   *

 

 

 同刻、高杉拠点。地下――

 

 壁の穴から流れ込んだ第三段が廊下を進んでいた。

 倒れている愛玲(アイリィン)を跨いで、奥へ向かう。誰も止める者がいない。

 劉鏑(リュウ・ディ)が後方で短く指示を出した。

「爺さんは絶対殺すな。無線技師もだ。あとで情報を抜く」

 

 愛玲は廊下の壁際に倒れている。呼吸はあった。目は開いていない。

 長衫(チャンシャン)の腹が、黒く濡れていた。

 

 廊下の半ば、実験室の扉の前で劉鏑は立ち止まった。

「お前たちはここに残れ。化学者が出てきたら殺していい。だが部屋の中に入る時は銃器は控えろ。爆発物があるかもしれん」

 二人を残して、先へ進んだ。

 

 書斎の扉の前に来た。

「ここにも二人。何があっても扉から離れるな。退路を断て」

 二人が扉の左右に立った。

 劉鏑は残りの男たちとともに、書斎の扉に手をかけた。

 

 扉が、内側から開いた。

 一寸。二寸。

 

 廊下の奥へ、銃口が向いた。

 ル・マット・リボルバーが二発、続けて鳴った。

 

 廊下で男が倒れた。

 

 扉が閉じた。

 

 廊下に静寂が落ちた。

 

 

   *

 

 

 無線室で黒石透は両腕を後ろに抑えられていた。

 受信機の前に押さえつけられている。見張りの男たちが取り囲んでいた。

 一人が無線機を見下ろした。

 

「トーキョーからの定時通信か」

 

 受信紙の束を掴んだ。電鍵の上で空白のまま鳴り続けていた信号が、紙の上に印字されかけていた。

 男はその受信機を、床に叩きつけた。

 東京から届いていた紙ごと、粉砕された。

 

 黒石の頭の中で、何かが切れた。

 論理。観測。記録。数字。それが黒石の戦場だ。感情ではない。

 だが、東京から届いていた紙だった。

 黒石の右手が動いた。

 予備の通信機器の金属ケースが、手の届くところにあった。

 掴んだ。

 無線機を壊した男の頭を、それで殴った。

 

「っ――」

 

 男が膝をついた。

 黒石の両腕を押さえていた別の男が、黒石を床に叩きつけた。頭部が石の床に打ちつけられた。視界が白んだ。

 

 もう一発、後頭部を蹴られた。

 

 それでも黒石は、破れた受信紙の一枚を手で押さえた。

 東京からの打鍵だと分かる部分が、滲んだインクの中に残っていた。

 誰が打ったかは、署名がなくても分かる。

 黒石は受信紙を、手のひらの中に握り込んだ。

 そのまま、手を開かなかった。

 

 男たちが黒石の両脇を抱えた。

 書斎の方向へ引きずっていった。

 

 

   *

 

 

 実験室の中。

 

 井川修平は扉の前に重い実験机を押し付けたまま、床に座り込んでいた。

 扉の鍵はかけてある。外の音は全て聞こえていた。

 さっき、扉をほんの一寸だけ開けて廊下を覗いた。

 

 愛玲の位置を確認して、手製の小型爆弾を投げた。声は出さなかった。

 

 爆弾は廊下の左壁に当たり、跳ね返り、実験室の方向へ戻ってきた。

 即座に扉を閉め、鍵をかけ、机を引きずって扉に押し付けた。

 

 それから爆発した。

 

 天井の一部が落ちた。机が揺れた。鍵は外れなかった。

「……炸薬量は完璧だったのに」

 誰にも聞かれない声で呟いた。

 

 扉の向こうで足音がした。二人分だ。立ち止まって動かない。

 井川は机の陰に深く潜り込んだ。膝が震えていた。

 計算書を引き寄せて、膝の上に広げた。数字を見ていれば、少し落ち着く。

 

 

   *

 

 

 劉鏑は書斎に入った。

 書斎の中央にある座椅子に、高杉晋作が座っていた。

 廊下に二発撃った。そのまま書斎へ戻り、座椅子に深く腰を落とした。

 ル・マット・リボルバーを膝の脇に置き、三味線を手に取っている。弾かない。ただ、持っている。

 

 爆風で崩れた壁の粉塵が、書斎の奥まで届いていた。天井の隅が落ちている。

 その粉塵の中で、座椅子だけが、別の空間のように無傷だった。

 

 黒石を引きずってきた男たちが、黒石を壁際に座らせた。意識はない。呼吸はある。

 頭部から血が出ている。右目の周りが腫れ始めていた。

 それでも黒石の手は、受信紙の切れ端を握り込んだままだった。

 誰が打ったかは分かっている。だから離せなかった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 劉鏑が口を開いた。

 

「老人さん」

 

 声は静かだった。「廊下の女、無線室の若いの。どちらもまだ呼吸している。この先どうなるかは、あんた次第だ」

 

 高杉は答えなかった。

 三味線を、静かに脇へ置いた。

 

 

   *

 

 

 高杉が立ち上がった。

 七十五歳の老人の立ち方ではなかった。

 重心が真下に落ちていた。肩から力が抜けている。腰の高さが少し下がった。それだけだった。それだけのことで、高杉の体の輪郭が変わった。

 

 右手を腰の脇に運んだ。

 刀の柄に、指がかかった。

 その瞬間――

 

 書斎の空気が、止まった。

 灯りの揺らぎが止まった。煙が立ち止まった。

 

 半壊した壁から落ちかけていた漆喰の粉が、空中で動きを止めたように見えた。

 錯覚ではなかった。書斎にいる全員が、無意識に呼吸を止めていた。

 誰かが踏み込めば、何かが起きる。

 その「何か」が、刀の柄に集まっていた。

 

 劉鏑だけが、その空気の正体を、半分だけ理解していた。

 残りの男たちは理解していなかった。

 理解できないまま、足が動かなかった。

 

 高杉が指の腹で柄を一度撫でた。

 

――カチリと、鞘走りの音がした。

 薄い刃が、半壊した書斎の灯りを反射した。

 

 劉鏑が、初めて半歩、後ろへ引いた。




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※続きは明日19:40に更新予定です。
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