海霧の中の奇兵隊 ―対米戦争を回避せよ。死んだはずの高杉晋作と乃木大将の隠し遺書― 作:吉田梅之助
鞘走りの音が、別の音と重なった。
五十一年前の音だ。
元治元年十二月、長府の功山寺。雪が降っていた。
二十五歳の高杉晋作は、五卿の前で頭を垂れていた。八十人の同志が、雪の中で待っていた。これから三田尻の海軍局を奪う。死ぬ可能性の方が、生きる可能性より高かった。
「これより長州男児の腕前、お目にかけ申すべし」
そう告げて顔を上げた時の、自分の声を覚えている。気負いはなかった。震えもなかった。ただ、刀の柄に手をかけた瞬間の、あの感覚だけが体の中にあった。
空気が止まる感覚だ。世界が音を立てるのをやめる感覚だ。
あれから五十一年。
同じ手が、同じ柄にかかっている。
*
最初の踏み込みを、高杉は刀の峰で弾いた。力で受けるのではなく、刃の角度で流す。江戸の練兵館で叩き込まれた神道無念流の基本だ——相手の力を使って崩す。七十五年を経た体にそれは染みついていた。
一人目の踏み込みを流した反動で体が半回転する。その勢いのまま、二人目の喉元へ切っ先を向けた。二人目が一歩引いた。三人目の刃を巻き上げた。柄で顎を打った。崩れた。
だが多勢に無勢、一人崩すごとに一拍のずれが生じる。その一拍に、必ず次が入ってくる。
だが高杉が間合いを詰めるのが早すぎた。書斎という閉じた空間で、七十五歳の老人が最初の一人を崩した瞬間、射線が塞がれた。撃てば仲間に当たる。室内での銃撃戦は、数の優位を一瞬で無効にする。
気づいた時には、白兵になっていた。
劉鏑が踏み込んできたのは、三人目を崩した直後だった。
短剣を順手に持ち、腰を落として来た。剣術の構えではない。刺突と絡め取りを組み合わせた、路地の流儀だ。
刃を合わせた瞬間、押し込んでくる力の質が読めた。
高杉は受けなかった。刀を斜めに滑らせ、劉鏑の力をそのまま前方へ流した。
劉鏑が自分の力に引きずられて前へ出た。その半歩の崩れに、高杉は柄頭を肩口へ打ち込んだ。
「ッ――」
劉鏑が予想外の方向から力を受け、大きく後ろによろめいた。短剣が一瞬、宙を泳いだ。
間合いが開いた。仕切り直しだ。
だがその一瞬、背後から別の男の刃が高杉の脇腹を掠めた。浅い。だが血が出た。
高杉は床に片膝をついた。刀の柄を床に突いて体を支えた。
*
扉が蹴破られた。
廊下に入ってきた真崎勇気と潮崎拓馬の正面に、まず実験室の扉前に立っていた見張り二人が飛び出してきた。四つの銃口が同時に動いた。
真崎のモーゼルが先に火を噴いた。一発目で右側の男の胸を抜いた。潮崎のブローニングが半拍遅れで左側の男の肩を貫いた。二発目。男が崩れた。
廊下の奥で、書斎扉の前にいたもう二人が気づき、こちらへ向かってきた。
真崎は廊下に転がっていた空のドラム缶を起こした。井川の実験用の燃料容器だ。蓋が外れて中身は空——可燃性の残滓はない、と瞬時に判断した。それを盾にしながら、潮崎と並んで奥へ進んだ。書斎の方角に目を切らずに。
向かってきた二人が間合いに入った瞬間、潮崎が銃を突きつけた。「止まれ」。二人が止まった。壁に押しつけて手早く縛り上げた。
廊下の壁際に愛玲が倒れていた。
真崎はドラム缶を脇に立てて、膝をついた。
脇腹、腹部、肩、背中。出血点が複数ある。腹部が最も深い。
真崎は長衫を躊躇なく引き裂いた。外套を脱いだ。
床に落ちていた愛玲のダガーが目に入った。拾い上げ、外套の袖を根元から切り落とした。細く巻いた布を腹部の傷に当て、腰回りに巻きつけて縛った。腸骨の上で固く結ぶ。即席の緊縛止血だ。
「潮崎! 高杉先生を任せた!」
「はい!」
潮崎は書斎の扉に向かった。
扉の前で一瞬、止まった。中の様子を聞いた。金属音、足音、低い声。複数の人間が動いている。
廊下を見渡した。
分電室の扉が目に入った。
「……そうか」
分電室へ走った。扉を開けた。B2フロア専用の配電盤が壁一面に並んでいる。ブレーカーを全部落とすのは一秒もかからない。
落とした。
書斎が暗闇に落ちた。廊下も。拠点全体が一瞬の闇に沈んだ。
高杉は、闇の中で動いた。
目を使わなかった。気配を使った。五十年以上前に体に入れた感覚がある。暗夜の戦場では、人の殺気は音よりも早く動く。目には見えない。だが体が知っている。
一人目は右斜め前。息を詰めて固まっている。刀を水平に走らせた。当たった。
二人目は左後ろ。動こうとしていた。回転しながら逆袈裟に入れた。崩れる音がした。
明かりが戻った時、二人が床に伏していた。高杉は刀の向きを元に戻しながら、ゆっくりと息を吐いた。
劉鏑が壁際に立っていた。配下がもう一人、劉鏑の隣にいた。
劉鏑の目に、初めて本能の警戒が混じっていた。計算ではない。もっと原始的なものだ。
「なんなんだあんたは」
高杉は答えなかった。
右手が外套の内側へ動いた。ル・マット・リボルバーが掌に収まった。
劉鏑が銃口を見た。「なんだぁ、そのヘンテコな銃は」
劉鏑も銃を抜いた。配下も続いた。
書斎に銃口が三つ、向き合った。
先に引き金を引いたのは劉鏑だった。
一発目が高杉の真正面を抜けた。高杉は座椅子の陰へ滑り込んだ。二発目が座椅子の背を貫いた——だが座椅子には鉄板が仕込んである。弾が止まった。三発目が肩の真横を掠めた。四発目、五発目が座椅子の縁を連続して叩いた。
劉鏑の射撃は正確だった。高杉が動くたびに、次の弾が先回りするように飛んでくる。
六発目が三味線を直撃した。
乾いた金属音が書斎に響いた。弾が三味線の胴で止まった。鋼板入りだ。
高杉は座椅子の陰で息を整えた。
「射撃の腕は見事じゃな」静かに言った。
「その銃、まだ弾があるのか」
「さて」
高杉はルマットを構えたまま、座椅子の陰から半身を出した。
引き金を引いた。
一発目が劉鏑の右肩を掠めた。劉鏑が柱の陰に飛び込んだ。二発目が配下の腕を抜いた。三発目が壁を抜けた。劉鏑が低い姿勢で移動している。煙と粉塵の中、動く標的だ。四発、五発。配下が崩れた壁の陰に入った。六発。壁の向こうで呻き声がした。七発目が劉鏑の足元を抜けた。
煙が充満した。
劉鏑が柱の陰から顔を出した。
「弾切れか。年寄りの運も尽きたな」
高杉はルマットを構えたままだった。
「お前さん、射撃は上手いようだが」静かに言った。「銃には詳しくないようだな」
劉鏑の目が細まった。「は?」
中央の引き金を引いた。
散弾が出た。
劉鏑の体が後方に吹き飛んだ。壁に激突した。
その瞬間、書斎の扉が開いて潮崎が飛び込んできた。
劉鏑が壁にもたれて崩れ落ちる前に、潮崎が右手首を掴んで捻り上げた。肘を取って床に押しつけた。帯紐で両手を縛った。
立ち上がって劉鏑を一瞥した。まだ息がある。胸部に被弾しているが、致命傷ではない。
リーダー格だ、と潮崎は即座に判断した。生かして情報を抜く価値がある。外套の端を引き千切って傷口に当てた。
手早く全身を探った。短剣、予備の弾倉、そして腰のホルスターから拳銃を抜いた。
FNモデル1910。手のひらに収めた。コンパクトで、重心が低い。安全装置の位置を親指で確かめた。
(……新型か)
潮崎は一瞬だけ、その銃を見た。
(これ、いいな)
誰にも言わずに、自分の外套の内ポケットへ滑り込ませた。
「先生」と潮崎は言った。「いつまでその古い銃を使うんですか」
「うん?」
「仕留めるのに苦労してましたよ。現にこいつまだ生きてるし」
高杉はルマットを下ろした。「お主、無礼なやつじゃな」
「すみません」
書斎の隅で、気配が動いた。
爆発の後に気絶していた男が、よろよろと立ち上がろうとしていた。短刀を持っている。
潮崎が気づいた。銃を向けた。
高杉の手が、その瞬間すでに動いていた。
三味線を手に取り、弦ではない方の端を男へ向けた。
「……まだおったか」
引いた。
男の腕を弾丸が抜いた。ドーン、という音が書斎の石の壁に反響した。男が短刀を取り落として崩れた。
潮崎が固まっていた。
「それ……仕込み銃だったんですね……」
「左様」
高杉はそう言って、座椅子にドサっともたれかかった。「さすがに年寄りにはこたえるわい……」
脇腹の血が、座椅子の縁を伝った。
真崎が書斎に入ってきた。廊下での愛玲への応急処置を終えてから。
「先生、お怪我を拝見します」
「ワシはいい」高杉が静かに言った。「アイリィンと黒石を頼む。傷が深い方から治療せよ」
真崎は一瞬、止まった。それから頷いた。
処置の指示を高杉から受けただけで、書斎にはほとんどいなかった。
ヘンドリックが到着したのは、それから十五分後だった。
分室を出る前に真崎が電話を入れておいた。急患が出る可能性があると。だからヘンドリックはカバンを持って、外套も着て、待っていた。
廊下に踏み込んで一瞬で状況を把握した。愛玲の傍に膝をついた。
「代わってください」
真崎が手を退けた。止血帯を確認した。
「よく処置してくれました。縫合が必要です。実験室の机に移します」
「せーの」で二人がかりで担架に乗せた。机の上に横たえた。ヘンドリックが縫合を始めた。
廊下の外で車のエンジン音がした。ヘンドリックの配下が到着していた。
「病院へ移します。お一人、付き添いをお願いできますか」
「俺が行く」と真崎は即座に言った。
潮崎が一歩前に出た。「大尉――」
「先生と黒石を頼む。黒石も止血を続けてくれ」
「……はい。行ってください」
石段を上った。三段目の石が欠けていた。今夜は躓いた。
車が動き出した。上海の夜が窓の外を流れた。
愛玲の呼吸は続いていた。
それだけで、今は十分だった。
真崎が去ってから、潮崎はまず廊下へ出て黒石の止血を済ませた。頭部の傷に布を当てて縛った。黒石は気絶したままだったが、呼吸は安定していた。
書斎に戻って、今度は高杉の脇腹を処置した。長い傷だが浅い。圧迫で止まる。高杉は黙って処置を受けた。文句ひとつ言わなかった。
縛られた劉鏑が壁際で静かに座っていた。
しばらくして、高杉の声が聞こえた。
「潮崎」
「はい」
「あの男の背後には……
「知っています」
潮崎が答えた。「真崎大尉から、聞かされています」
「……そうか。ならば話が早い」
高杉は座椅子に深く沈んだ。膝の上に三味線を置いた。
半壊した拠点の石の壁に、その名前が吸い込まれていった。
少しだけ解説を。
高杉が使ったル・マット・リボルバー(レ・マットとも)。一八五六年にフランス系アメリカ人のジャン・アレクサンドル・ル・マットが設計した異形の銃で、九発のシリンダーの中央に散弾銃の銃身が一本通っています。南北戦争では南軍の将校たちに愛用されました。高杉が持っているのは銃身の長いリボルビング・ライフルモデルです。
最後までお読みいただきありがとうございます。
※続きは明日19:40に更新予定です。
★投票・ブックマークいただけると今後の執筆においてこれ以上ない大きな励みになります。